三の三
足音が消えた頃、隣の部屋で聞き耳を立てていた長老、たこ島の宿禰が現れた。ふっくらとした水干と褌姿に出雲風の髷という出で立ちの六十近い穏やかな老人である。造家のまとめ役として先代の第十四代神官、岐比佐都美を補佐してきた。
たこ島の宿禰の祖父は野見宿禰といって、垂仁大王の命で都に招かれ、当麻蹴速 と言う無敵の男と捔力を取って見事に打ち勝ち、倭の当麻に土地を授かったという豪傑である。
末輩の家系ゆえに出雲に残ったが、毛虫のような眉と大きなぎらつくような目玉は祖父野見宿禰のような豪傑を思わせる。しかし身体つきは丸で正反対で、小太りの丸い姿、豪傑とはほど遠い好々爺である。宿禰家の長老として祭事一切を先祖から引き継いでいるため、生き字引のような存在でもある。
たこ島の宿禰は出雲タケルの執事と熊野大社の神官代理を務める手前、政事と祭事全てを補佐する立場にあった。そのため普段の昼間は殆んど出雲タケルの屋敷や熊野大社で公務にあたり、家を留守にしている。
そうなったのも出雲タケルが政事や祭事にあまり関心がなく、貿易や刀剣、武術などに興味が移ったためであろう。妙な話だ、一説には詐略をもって神官の地位を奪ったのではないかとも噂されたのに、いざ神官になると興味がさーっと引いてしまったようだ。
たこ島の宿禰は軽く九拝して出雲タケルに近づき椅子に座った。
「どうで御座いました御子様、話しぶりから察するところ、ヤマトタケルの命とは中々の好青年のようですな」
「何を申すか、熊曾を騙して倒したというではないか、腹の中は何を考えている事やら」
「ですが倭に逆らっても、わが出雲では敵いますまい。何年かに一度、多少の土産を持って挨拶にいけばよいだけですから、これでよかったので御座いますよ」
「汝は分かっとらんのぉ。叔父御、汝も半分は出雲族の血を受けし者ぞ。出雲の地に居るものは皆そうじゃ。長老ともあろうお方が、御先祖様の恨みを忘れたのかな」
「またその話で御座るか、いい加減に改めなされ、わが出雲国は百年前に倭に敗れた時から倭の一部に成り申した。今さら勢力図を変えられる訳が御座いませぬ」
「分かっとる、分かっとるわい・・・だけどな、悔しいではないか。かつてはこの日の本を倭族と二分していた時期もあったというに。あの海族の裏切りさえなければ、逆に出雲族が倭族に取って替わっていたかもしれぬ。にっくきはあの八咫烏じゃ」
かつて海族は出雲族の支配下の民であった、四国の阿波や紀、熊野に国があった。日の本全土に渡って勢力の在った出雲族が、その海族を味方にした倭族に攻められて土地を追われた。出雲族と海族の混血とされる八咫烏がその道案内をして出雲族を追い払った。出雲タケルは先祖からそう聞かされて育ったのである。
しかし、出雲タケルの思っているほどには百年前の出雲族が纏まってはいなかったことが、のちの趨勢を決めた。
たこ島の宿禰の家来で大塚丸というものがタケル達の世話係であった。大塚丸はタケル達の荷物なども既に玉造の知人宅から引払ってくれていた。
翌日からタケルと三太夫は大塚丸に案内されて出雲の地の見物に出かけた。ときには幾日も掛けて行くこともある。石見の地で聞いた国引きの話に出てきた場所などを訪ね歩いた。出雲大社のある西側はここに来る前にあらかた見聞済みだったので、おもに東側の三穂の埼(美保関)や宍道湖、中海のたこ島などを見て廻った。
この美穂の埼から見る火神岳(大山)の姿はあまりにも神々しくて、二人とも思わず四つ柏手を打って拝んでしまったほどである。出雲ではいつの頃からか柏手を四つ打って拝む習慣がある。
大塚丸が言うには、
――春になれば山頂に雪を頂いた火神岳の姿は、まさに話に聞く駿河の不二にそっくりだという事です。
のちに伯耆不二と呼ばれたのも肯ける。残念ながら今は梅雨間近で雪は殆んど解けていた。北壁に雪が残る西北方向から見る景色が最高とされる。
ある日の夕食後、タケル達は長老のたこ島の宿禰の部屋で歓談した。
たこ島の宿禰は、ほかの者を遠ざけ、酒肴を置いた什器を前に、タケルと三太夫を相手に酒を酌み交わす。
「御子様、国中を見物なされていかがで御座った。出雲は美しゅう御座ろう」
「はい、何とも独特の雰囲気を感じさせる土地で御座います。さすがに神様の在します国で御座いましょうか。あの何ともいえず気高い出雲大社、丸で屋根に八雲が棚引くようで、神々しゅう御座います」
「そうでしょうとも。なれど出雲には熊野大社も御座いますぞ。姿は出雲大社とは比べるべきも御座らんが、神格はこちらの方がちびっと上で御座る」
「ほぉ、熊野大社の方が上なので御座るか、それは知らなんだ」と、三太夫。
「左様じゃて、はっはっは」
たこ島の宿禰は自慢げに笑って、盃を傾けた。
「あなた方はカゥハォというお方を御存じか?」
「ええ、多少は・・・長老、あなたはカゥハォ様の事を知っているのですか?」
タケルは意外な名前を耳にし、問い返した。
「左様、われらは皆倭の民じゃ。その基をお創りになったお方の事じゃ」
「はい、よく存じております。徐福と申される方で、民を導いて蓬莱の地を見付けたという・・・」
「ほほぉ、そこまで御存知か。では、その先の菟陀の里の事はお聞きなさったか」
「うだ?」
タケルは聞いたことがなく、思わず三太夫に視線をやった。
「確か纏向の南東に菟陀とかいう村があると聞きますが」
三太夫が答えた。
「ほほぉ、その通りじゃ、その村の逸話を知っておるか」
「いえ、そこまでは・・」三太夫は首を捻った。
「良かろう、まずはこの話から紐解かんと、ここ出雲の事は分からん。聞かせて進ぜよう」
たこ島の宿禰は語り出した。
――猿田彦口伝、その三、
吾は神武、支那での元の名をカゥハォ(徐福)という。
この蓬莱の地(和歌山県新宮市)に住みついてから三年が過ぎた。われらが住むこの陸地は南北に細長い列島であることが分かってきた。この島を吾は日の本と呼ぶことにした。
各地に残してきた仲間達とも連絡を交わし、わが意志を伝えた。
すなわち、
「われらは自由になった、始皇帝の束縛から逃れたのだ、それぞれの地域で、それぞれの国を興すがよい」
と。
北に向かった玉祖の行方も分かった、あちこちに立ち寄り村を作り、今は遥か北の地に住むという。
その便りによれば、遥か昔の事、北の山岳地帯に鉄の取れる山があった。その村を新羅の軍船と北の種族の軍船(丹後族)とが協力して、あの手この手で攻め込んだが、スサノオという村おさの巧みな罠に嵌って撃退された。それ以来スサノオは出雲族の生き神様として崇められたといわれる。
…八岐大蛇伝説の真たるところである。この玉祖の部隊の一部の者は鳥取や北陸に住みつき、装飾用の玉作りを伝えたという。北陸の勾玉、出雲の管玉や勾玉が知られるところである。…
東に向かった伊斯許理度売の行方も、海岸沿いにあちらこちらに村を作って東の果て(武蔵国)に辿り着いたと分かった。
…この部隊は石を削って鋳型を造り、溶かした金属を流し込んで鏡などを作る技術を広めた。こうして徐福の伝説は日本中あちらこちらに広まったのである。…
ところで、この日の本にはわれらとは全く違う言葉を話す出雲族という者達が、至る所に住みついていることが分かった。われらは出雲族の住む日の本に、転々とあちこちに村を作っただけにすぎない。
言葉が通じないこともあるが、西の山で狩猟に向かった者が偶然出雲族と遭遇し、殺し合いになるなどということが度々起こった。平地の少ない蓬莱では、海だけでなく山の恵みも欠かせない。争いたくはないが、譲れない線じゃ。
不思議にも出雲族の者達には支那国のような国家という形がない。皆同じような神々を信じ、横の繋がりだけがある共同体なのじゃ。数ある神の中で共通に彼らの崇める祖神はスサノオの命という。
…出雲族とはアメリカ大陸まで渡っていった満州方面の北方民族系の民であることは既に述べた。カナダやアラスカの先住民、イヌイットは日本人と同族にあたるのである。…
吾は焦っておる。今のまま平和に時が過ぎるとは考えられぬ。きっと始皇帝は兵を挙げてこの日の本を奪いにやって来るに違いない。出雲族の民草が支那の民草と同じ憂き目に遭うことが見えるようじゃ。いやもっと過酷なことになるだろう。一人残らず奴隷として売られ、こき使われ、死ねば長城の人柱にされる事だろう。
一刻も早く国を興し、備えねばならん。それをなし得る者は、どうやら吾しかおらんようだ。
吾には野心などない、ただ心安らかに暮らしていけること、その事のみが望みじゃ。あわよくば吾よりも適任の者に道を譲りたいくらいじゃ。出雲族に恨みなどある訳ではないが、願わくは国を興し、日の本に住む全ての民草を倭の一員として導かん。それにはこのような南に偏った所では心許無い、要害となる土地でなければならん。
出雲族はすぐ西の紀ノ国にもたくさん住んでいる。彼らが呼ぶ紀ノ川、この言葉だけは分かってきたのだが、ものの根源や大本を表す言葉を彼らはキィと言い、紀という字を宛てた。葦が生い茂る川の源流から出雲族は興ったという意味じゃ。
葦原中国
それが出雲族の本拠じゃ。山並を越えた北の土地に出雲の本拠があるのは確かじゃ。
調べてみると出雲族の本拠の菟陀(宇陀)という所はまさに天然の要害にある。山に四方を囲まれた地形で、隠れ里のような広大な盆地上の南東の端にあるのじゃ。それ以外にもいくつかの村が盆地上に散らばって存在する。
盆地への入口は山々に挟まれた北西の狭間(信貴山の南麓を廻る地滑りで有名な亀の瀬峡谷)に一ヶ所通れる川筋がある。もう一つはそのずっと南の紀ノ川を遡る川道があるだけなのだ。
盛夏、吾は直ちに大船二隻に二百の軍勢を整え、海路を西北に回り込み入り江(河内湖)に入り、川(倭川)を遡った。
問題の狭間に差し掛かった時だった、断崖の上から岩を転がされ矢雨を浴びて、進退極まるほどに打ちのめされた(孔舎衙坂の戦い)。
船縁や甲板は味方の流す血で赤く染まり、死傷者が続出した。攻め登ることを既に気取られていたのか?
命からがら退き、蓬莱への帰路につく。あの狭間を通らない限り菟陀には行けん、一体どうすればよいのだ。紀ノ川沿いは出雲族が犇いている、川を通り抜けることなど出来やしない。吾は負傷者の手当てをしながら、逆に蓬莱が攻め込まれてはいないかと気がかりでならぬ。
なんとか蓬莱に戻った、砦は無事だった、何事もない。此度の事で味方数十人を失い、緒戦から大失態をしてしまった。大きな痛手だ。戦いは兵の士気で決まるといってよい、どうにかせねばならん。
少しだけ言葉が分かるようになった宇受売に、西の紀ノ川入口の村、海部村(和歌山市雑賀町)に投降を勧めに行かせた。利と誠実さが伝わったのか、村は倭に降った。紀ノ港を押さえたことになる。宇受売のお陰で少しだけ味方の士気が上がった。
しかし海部衆は戦いに加わる訳ではない、通訳や橋渡しを手伝ってもらいたいと頼んだだけじゃ。今のままでは出雲族は強硬で話も碌に出来ないからだ。
われらを破った者は那賀須泥彦という登美邑のおさだそうだ。盆地内の村々は共に仲が良く互いに協力し合っている。盆地への入口はここ登美邑にしかないと言ってよい。ために常に大事な要所に見張りを置いて防衛しているのだ。事前に知られた訳ではなかった。
同じ出雲族同士でも小競り合いなどの戦いはしょっちゅうである。互いに交戦をしているなら大きな纏まりになろうとしてもよさそうだが、単に女子供をさらったり、食料を奪ったりする程度で、その程度は日常茶飯だという。新しい血を混ぜる意味でも、ある程度互いに容認されている行為なのじゃ。
交易や交渉事がある時は見張りから見える所で杖を頭上で振る、さすれば攻撃されなくて済むのだとか。




