四の二
突然の出来事に、むくっと起き上がったアルテミス。
「ハデス、巻き戻して。さっきの奴、誰?」
「(ポーン)はい、アルテミス様・・・この辺りですかね」
小碓達の映像が小さい画面に後退し、別のホログラム映像が中空に映った。
「ああ、二人だ。もっと前にして、いつから小碓を狙っていたのか知りたい」
「はい、畏まりました」
ハデスの頭に付いてあるたくさんの表示管が色取り取りに忙しなく明滅して、
「(ポーン)この二人に関係した検索結果で御座います」
と言うと、ホログラムが中空に飛び出てきた。
「なぁにこれ、どこよ?」
「はい、どうやら大碓の屋敷のようで御座います。例の小碓達が乗り込んで行って、大立回りを行った日ですね、大碓の屋敷の裏」
「ああっ、この竹藪で弓矢を構えた奴、さっき小碓に弓を射た奴だ。あれ、三太夫の投げた棒が胸に突き刺さった。死んじゃってるじゃないの」
「そのようです、絶命しました。彼は山中の中猿という者で御座る。そして先ほど弓を射た二人は大猿と小猿で、中猿の兄弟で御座る。三人とも伊福連の家来で、身の回りの警護などをしている者で御座る、用心棒で御座るな」
「ハデスったら御座る御座るって、お猿が三匹か。という事はあの時の恨みを晴らしに来たのかしら」
「いいえ、どうやら偶然小碓を見つけただけのようです」
「どういう事?」
「付けてきた訳ではなくこの近くに用事があって来たようです。潜容という所に、十二の山が犇く谷間に、黒々とした砂が湧くと申しまして」
「ははーん、砂鉄ね、伊福の手の者か、材料を仕入れに来たら、仇に出っ食わしたってところね。くーっ、お猿さんは甲賀辺りの山にでも籠って、木の実でも食べてなさいって」
「アルテミス様、ずいぶん小碓の肩を持ちますね、以前は小碓を嫌いだったのでは」
「今でも嫌いよ、野蛮だもの。でも、ずるい事する人はもっと嫌い」
のちの世、安土桃山時代の近江国甲賀の山中家は日野の里の隣村に住む。甲賀五十三家の筆頭と言える山中家は、平安時代に主家に随って信濃から移り住んだといわれる。山中の地に住み着いてから山中を名乗ったものであろう。
粒丘の地より北西に二日ほど歩いたところに潜容と呼ばれる秘境がある。ここは山々が犇きあった谷間になっていて、陸伝いではなかなか辿りつけない。山々の間を流れ下った川水が豊かなミネラルをこの地に運ぶ。砂地に真っ黒な縞模様を付けて、良質な砂鉄が採れるのである。
…現在の中国自動車道沿いの兵庫県作用郡である。…
伊福連には、同じように渡来した仲間があちこちにいた。この潜容の地の民、吉備の地の民、そして出雲の南の山奥、蹈鞴の民などである。鞴を足で踏んで風を送って火を大きくし、砕いた石の粒ごと溶解して精製する製鉄技術である。蹈鞴場(製鉄所)では温度を上げるために風を送ることから、強い風が常に吹き抜ける場所が要件であった。
小碓の傷の癒えるまで、三太夫一人が土蜘蛛探しをしていたが、ほんの小部落が三つほどあっただけで、潜容の地は発見出来なかった。尤も伊福連が絡んでいる以上、倭に属す地域ではある。北の小部落のことは揖保首に任せて先に進んだ。
ふた月ほどの長逗留になってしまった。既に旅に出てから三月も過ぎてしまい、山を望めばすっかり冬の景色となっている。しかし、瀬戸内の冬は暖かく、いつもの着込みにもう一枚ずつ単衣と長褌を着ただけの姿でさほどには寒くなかった。
…昔の服装というものはとかく薄着である、真冬にあっても足袋や靴下のようなものもなく裸足に獣皮の深靴か足駄であった。この時代、草鞋や草履の存在は確認されていないが、足駄はあった。遺跡から出土したもので、歯の高さが低く、江戸時代の足駄とは名前が同じだが、別物である。竹藪の多い所に住んで居ながら靴も履かないで平気な人達もいたという。現在のような衣服が発達した時代ではおよそ考えにくい事だが、体が土地の気候に適応していただけで、それだけ丈夫な体だったようである。『服装の歴史、一』理論社/村上信彦著を参考。…
一日歩いて夕暮れに吉備国(現在の岡山市付近)に着いた。吉備国の造に宿をもらって二日ほど逗留するだけで先を急いだ。吉備臣はその昔四道将軍の一人として派遣された皇族の吉備津彦命の子孫である。したがってこの地は皇族の治める土地であり、帝と雖も勝手に内情を探れない土地なのである。ここでも鉄の生産が盛んである。のちの戦国時代に備前長船長光などの刀工が出た土地である。
近くに吉備の穴海という吃水の浅い海峡があり、向かい側に児島という大きな島がある。千年ほどのちに藤戸の戦いといって源平の合戦場となった海峡である。瀬戸の海はこの児島の南側を通過するより、小さい舟なら穴海海峡の方が通りやすかったことだろう。児島の南側には、小さな島が小豆粒をばらまいたように散らばっている。その景観からそのうちの一番大きい島を小豆島と名付けたのかもしれない。
以下は余談である。
児島の土手には笹がたくさん生えていたそうだが、藤戸の渡しの戦い以来、笹は一本も生えなくなったという伝説がある。浅瀬を探す源氏の大将佐々木盛綱が年若い漁師に道案内をしてもらい、目印を付けていった。しかし、源氏側の秘密作戦が平家側に漏れては元も子もないと懸念し、その漁師を殺した。その後、見事源氏が大勝し、祝いの席で漁師の母親が恨み事を言い、去っていく。
母親は怒りが収まらず、息子の死んだ海峡近くの笹山の土手に行っては泣き悲しんだ。
――佐々木憎けりゃ、笹まで憎い、佐々木憎けりゃ、笹まで憎い・・・
恨み事を唱えながら、血だらけになって笹竹を全部抜いて、死んだ。悔いた佐々木盛綱は親子と平家の武者をここで弔って、その後出家して功徳を積んだと言われる。
講談などでもお馴染みの「笹無し山」と呼ばれる昔話である。
近世になって埋め立てられて穴海海峡が消え失せ、陸続きとなり、以来児島半島と言われるようになった。四国に通じる瀬戸大橋の架かっている所である。
余談をもうひとつ記したい。
魏志倭人伝に記載された投馬国とは、吉備国ではないかとも思われる。
――末慮国(佐賀県唐津市、東松浦半島)より東南五百里、伊都国(糸島市)也、千戸
(中略)
――不弥国(博多付近)から南水行二十日、五万戸の国、投馬国也
――投馬国より、南水行十日、陸行ひと月にて、邪馬擡国、七万戸也
と、ある。地図を拾うと唐津から糸島までは二十五キロメートルぐらいである。五百支那国里は二百五十キロメートルである。前述したように明らかに倭人伝は数字が十倍されている事が分かる。投馬国は不弥国から舟で二日、五千戸の戸数となり、博多付近から南ではなく東南に瀬戸内を二日間走ると、ほぼ吉備国(岡山市)辺りかと思われる。
あるいは正確に南だと、別府付近であり、豊国こそが投馬国かもしれない。
不弥国が博多付近ではなくもっと南の内陸で、水行二日とは南北に流れる運河(筑後川)のことだという説もある。それによると邪馬擡国は島原辺りを指すという。
当時の支那国語の発音が極めて似ているということで、投馬国が出雲国であるという説も有力らしい。しかし、北と南を間違えるとは考えにくい。ただし、国中が混乱期だったこともあり、出雲国が、鉄の利権をめぐって南の吉備国辺りまで攻め下ったと考えることは出来る。
小部落に立ち寄りながら何日か歩き、安芸国(広島)に入った。真冬というのに雪は無く、秋の景色に近い。そのために付いた国名なのか、秋の色が似合う土地であった。
三太夫が海を見ながら、
「主、ここらで少し休もう」
そう言って、三太夫は岩陰に小碓を誘って、倒木に腰掛けた。
「どうですかい、この景色。海が偉く綺麗ですぞ・・・」
と、三太夫は岩陰からちらりと後ろを盗み見た。
「まだ付けて来るようだな、しつこい奴だ。こないだの奴か」
と、景色を見ながら小碓が応じた。
「そのようで・・・二人だったはずですが、今は一人しか居ません」
「何者かな・・・鉄の鏃か・・・」
小碓に眼で合図をする三太夫。二人はそっと移動して、見えなくなった。付けていたのは山中の大猿である。
大猿は二人が見えなくなった岩場に急いで近づき、そっと忍んで覗いたが誰もいない。
(くっ、逃げられたか)
大猿は悔しがった。あたりをきょろきょろと探すと、ふと松の枝間に浜辺が見えた。なんとそこに小碓が後ろを向いて立っていた。
(しめた)
そっと倒木を跨いで前に進み、よく見える位置に来た大猿は、
(今度こそ外さねぇ)
背中の矢筒からそぉっと矢を取って弓に番えた。
その瞬間、足を引かれて前につんのめった。何があったのか、弓も矢も前に放り出されてしまって、後ろにずるずる引っ張られる。三太夫の罠に掛かったのだ。
綱に両足を取られて大木の枝に逆さに吊り下げられてしまった。腰の得物はすぐに引っ手繰られて、顔を殴られ、後ろ向きにされ手を縛られた。
「おのれ・・」
と、悔しがって逆さのまま唾を吐いた。
「暴れんなや、一体、おめぇは何処の誰だ」
三太夫は棒きれで大男の腹をつついた。
やがて小碓がやって来た。
「上手くいったようだな、三太夫。この者か」
小碓は逆さにぶら下がった大男を睨んだ。
「汝はいったい何の恨みがあって吾を殺めようとするのだ。吾には人に恨まれる覚えはないが」
「けっ、恨まれる覚えがないだと、人の身内を殺しておいて、覚えがないだと?」
「汝の身内・・・そうか、あの時の・・・」
「分かったようだな、吾は山中の大猿、弟の中猿は汝に殺された、これでも恨まれる覚えがないというか」
「気の毒とは思う、しかしあの時、吾がやってなければ逆に吾が死んでいた。それに汝の弟は主筋に従ったとはいえ、謀反に加担した者だぞ、恨まれる筋ではないと思うがな」
「な、何? 謀反だと・・・」
「知らないようだな。わが兄大碓は、父帝に討たれると思って反旗を翻し、武装した。吾はそれを説得に行った。それを兄は、かかれ、と言って吾を追い詰めたのだ。われらはそれに打ち勝って防いだだけだ。その際に汝の身内が犠牲になったものだろう」
「なんと、帝に弓を? それを伊福の殿様は知っているのだろうか」
「知っていれば手を貸さんだろう、気の毒な事をした・・・三太夫、下ろしてやれ」
「ははっ」
三太夫が綱を切り、大猿を受け止めた。
「あっしが聞いている事とは随分違うようだ」
しゃがんで手足を擦っている大猿は困惑した。
「小碓命、あなたが継嗣の地位を狙って、不意に攻めかかってきたと聞いている。あなたの話はたぶん本当だろう。垂井の殿様はやけに臆病と聞く。本巣の殿様から嫁をもらってから、えらくびくびくしているという話だ。噂は誠じゃったか、ええい、口惜しい、弟は無駄死にしおった」
大猿は意を決したのか座り直して、土下座し、
「小碓命、斬って下され。これまでの不遜の振る舞い、わが身に変えてお詫び致す。その代わり、どうかもう一人の弟、小猿だけは、わが命に代えて許して欲しい。さあ斬って下され」
と言って、首を前に突き出した。
「待って下さい、手を上げて下さい」
小碓は膝をついて、手を差し伸べて、
「吾は最早怒ってはいない、忘れましょう。どうか命を粗末にしないでもらいたい。ささ、立って下さい」
三人の若者が倒木に腰を下ろし、安芸の島々の景色を見つめる。小碓が大碓の屋敷で遭った当時の模様を語り聞かせ、干し肉を齧る。詫びをする小碓に、目を潤ませる大猿であった。そして、小碓は大猿に干し芋と干し肉を少し分けてやって、別れを告げた。
こののち大猿と小猿は小碓の人生にとって深く係わることになる。
当時も今も三原から四国の今治までは、瀬戸の海に浮かぶ島々が所狭しと並んでいる。これでは船でどこをどう通ればいいのか苦心することだろう。その美しい景色を左に見ながら道を辿った。
当時はまだ安芸国、宮島の厳島神社は存在しない。それでも島々の並ぶこの海の景色は日本三景に相応しい。後日西の大陸の国から来た者達が、この瀬戸の入口を見て、
――丸で観音様が寝て御座らっしゃる
と言って島を眺めたそうである。そんな謂れから、人々はこの島を神の住む島として崇敬し、長い間(鎌倉時代まで)人の住むことを禁じた。今でも原生林の生い茂る稀なる島である。
宗像三女神の一柱、市杵島姫命という神様が瀬戸に迷い込み、
――さて吾の栖家をどこにしようか
と悩んでいると、一羽の烏が飛んできて、
――わたくしが道案内を致しましょう
と先達し、この島の頂にとまったという。飛鳥時代に推古天皇が夢枕で見た話である。
この時から小さな社が頂に築かれ、その後、御神体が平清盛によって、創建したばかりの厳島神社に移された。祭神はスサノオの命の子とされる宗像三女神、タキリ姫命、市杵島姫命、タギツ姫命の三柱である。
…ちなみに瀬戸とは海峡などの狭い出入り口を示す言葉とされる。…
アルテミスがこの賊の二人が気になって、もう一人の小猿の行方を調べ始めた。小碓の映像が脇に退き、小さくなると、別の映像が動き出した。
小猿は途中荷を運んだ舟を降り、都纏向に向かっていた。三野の垂井までの荷運びは手下に任せている。秋空の大路を熊の毛皮の服を着て、てくてく歩く小猿は、朱雀門の手前の家に入って行った。大碓亡き後の大后の屋敷である。ちょくちょく来ているらしく屋敷の仕丁や女丁とも親しいようだ。
大后に会いに来たようで、女丁に今奥の部屋に居るから渡廊で待てと言われた。勝手を知っている小猿は部屋の外で畏まって座って待つと、部屋の中から、
「誰かえ?」と、大后の声。
「はい、小猿で御座います。たった今、播磨から戻りました。大后には、御機嫌麗しゅう御座いますか」
「おお、小猿かや、よう参ったの。そこを開けて入るがよい」
この部屋には普段誰も入れない大后が、小猿だけは特別のようだ。
二年前に遡る。
大碓の護衛をして纏向に出向いた小猿は、数月ここで過ごすうちに、伊那毘若郎女という帝のお妃様にすれ違いざま呼びとめられた。大妃の妹である。
頭を下げて通り過ぎるのを待っていたのだが、お妃様のお付きの仕丁が小猿を取り押さえた。小猿には何の事か分からない。
聞けば、このお妃様は、
――数月前に旅先の温泉で足湯をしていると、湯に浸かっていた若い男に乱暴された。その若い男こそ汝だろうが
と言い張るのであった。小猿が無実を訴えるが聞いてくれない。
大碓は、
――小猿は決してそのようなことをする者ではありません
と、母の大后に訴えた。帝まで交えての大騒ぎとなったが、どうにか大后の執り成しで小猿の潔白を示し、許してもらった。
してみると、小猿にとって大后は命の恩人であった。既に両親が他界している山中兄弟達、小猿は母とも思って大后に尽くしているのである。恩に感じやすく、人を裏切らない男であった。
大妃は播磨の加古川の出である。小猿は度々播磨に砂鉄の仕入れに参るため、その度に播磨の様子を話してやったり、土産に帆立の干物や玉鋼の笄などを差し上げたりしているのである。
小猿は開き戸を引いて板敷きに座りお辞儀をした。見るともなく目についたのが立ち昇る煙であった。物の燃える匂いもする、悪くない香りと思った。
「おう参ったの、あまり機嫌は麗しくなかったが、汝の顔を見たら治ってしもぉたわ。ささ、もう少し近くに参れ」
「はは」
小猿は下を向き、座ったままにじり寄った。
「播磨の土産は勝手口の方に渡しておきました、あとでお召し上がり下さいませ」
「いつも済まんのぉ、で、どうであったか、家の方は」
と、播磨の実家の事を聞く。
「はい、実はこのたびは見てまいる余裕がなくて、拝見出来ませんでした、申し訳御座いません」
「なんと、それは残念な、汝の話が何よりの土産だというにのぉ・・・」
「いえ、実はその、旅先で小碓命を見つけまして、大碓命の仇を討とうとしたのですが、未だ果たせては居りません」
「何、小碓じゃと。そうか、小碓は今、西に向かっておったのだな。してどうなったのだ、首尾は?」
「はい、矢で傷を負わせることは出来ましたが、まだ健在かと。ただ、わが兄の大猿が付け狙って、追いかけておりますので、あるいは仕留めておるかもしれません。それに、熊曾と言えばこの日の本中で評判の荒くれ共の国で御座います、きっとただでは済まないことで御座いましょう」
「ほほほ、そうかのぉ、それは何よりの知らせじゃ。あの者の死んだという知らせをはよぉ聞きたいものじゃ。御苦労であったぞ、今後もちょくちょく知らせてたもれ」
「はは、畏まりました」
酷い母親もあったものである、大碓を偏愛するあまり、小碓を仇と思うようになっていたのである。




