最終話
いったい何がいけなかったんだろう。
考えてしまいそうだ。
考えない。
考えたところで何かが変わるわけじゃない。オレの今が、変わるわけない。考えるだけ無駄なんだ。
呪文のように、つぶやく。
つぶやき続ける。
がたがたと窓を揺らす風の音に目をやれば、鉄の格子がつけられた窓の外、雪が激しさを増していた。
大丈夫。
今日は、来ないにきまってる。
盛大に炎が燃える暖炉があってすら、暖かいとは感じない。
幾重にも床に敷き詰められた毛皮にも、優美な模様が織り出された壁掛けにも、毛皮の縫い取りのある部屋着にも、心が安らぐことはない。
寒い。
あれからずっと、オレは、雪原に独りでいるような思いが消えない。
どっちを向いても雪のほかは何もない。
寒い。
このさきずっと、オレは心から笑うことはないだろう。
心から、安らげる時はこないだろう。
オレは、罪を犯しつづける。
オレは罪にまみれて、そうして、いつか、地獄に落ちるのだ。
オレは、天へはゆけないだろう。
だれひとり、オレを許すものはいないだろう。
辛い。
悲しい。
自分で自分を哀れまずにはおれない自分が、嫌いだ。
けど。
誰が思うだろう。
実の父親に、塔に閉じ込められている王子がいる――だなど。
いや、違う。
オレが望みつづけたように、今では、オレは王子ではない。
王位継承第一位の王子、オイジュスは、死んだのだ。
あの夜。
王に呼び出され、王がオレを置いて去った日の夜だ。
王子は、前日に受けた傷が思ったよりも深手で、そのために、命を落としたのだ。
――――――――
その実を知る者は、オレのことを蔑み見張る、ここにいる者だけだ。
ジーンさえも知らない。
ジーンはいない。
ジーンはオレが死んだ後の城から去ったのだと聞いた。
けれど、それでよかったと、オレは身勝手なことを考える。
今のオレの姿をジーンに知られたくなかったからだ。
ジーンにまでさげすまれたら、オレは、どうすればいいのかわからなくなる。
今のオレを、ジーンにだけは、知られたくなかった。
決して。
あの時オレは傷を負いはしなかった。
けれど。
名前も知らないあの男にされたことが元で、オレは、死ななければならなくなったのだ。
オレを殺したのは、あの男じゃない。
オレを殺したのは、王だ。
王は、あの夜、オレを抱くことで、血の繋がった息子を一人、葬り去った。
替わって、王は、何を得たのだろう。
ここにいるオレは、いったい、何なんだろう。
名前も、魂もない、ただの、人形なのかもしれない。
涙が流れる。
オレは、声を、かみ殺す。
嗚咽に喉が、震える。
本当に、狂ってしまいたい。
本当に、狂ってしまえればいいのに。
それでも、王は、狂っているオレを、抱くのだろう。
今と同じように。
全身が震えた。
からだが、すくみあがる。
下のほうから、重い扉が開く音が聞こえたのだ。
塔の急な階段を踏みしめる足音が、響いてくる。
王が来る。
ああ―――
窓の外、格子さえなければ、オレは飛び降りているに違いない。
吹雪が、幽鬼じみた叫びをあげる。
いつまでも尾をひきつづけるそれは、まるで、オレの悲鳴のようだった。
冷たい空気を供に、王が入ってくる。
後頭部が、ちりちりと逆毛立つ。
それでも、オレは、気づかないふりをする。
王などいないふりをする。
「オイジュス」
と、疾うにオレのものではなくなった名でオレを呼ぶ声など聞こえないのだと。
オレにしゃべりかけてくるのも、オレに触れてくるのも、オレにくちづけてくるのさえ、姿のないなにかなのだと。
だから、オレは、怯えるのだ。
こればかりは本当に、心の底から怯え、震え、悲鳴をあげる。
見えない何かが、オレを、床に横たえる。
見えない何かが、オレの服を、脱がせてゆく。
見えない何かが、オレを犯す。
何度も何度も。
オレが気を失っても。
けれど、ここには、オレ以外、誰もいない。
頑なに、そう思い込もうとする。
いつか本当にそうなればいいと願いながら。
こんな毎日でさえ、オレには、まだ、過ぎたものだったのかもしれない。
何もかも奪われてしまったオレにただ一つ残されたものさえ、持ち主であるオレ自身にすら自由にならない、許されないものだったのだ。
王が来たのだと。
そう思った。
扉に背を向けて、オレは、ただ震える。
目を閉じて、からだを竦ませていた。
そんなオレの耳に、鋭い音が聞こえた。
熱い痛みが、オレを引き裂く。
背中から切りつけられて、オレは、振り返った。
そこに。
オレが見たものは。
蒼白になったジュリオと、カルスタだった。
ジュリオの握る剣の先から、オレの血がしたたり落ちる。
「あにうえ?」
ジュリオが、手にした剣を捨てた。
まるで、忌まわしいものを振り払うように。
信じられないと、その青い瞳を見開いて、ジュリオがオレを見ている。
「そんな。ここにいるのは、父上を堕落させて国を傾かせる愛人だって……」
ああ。オレは、そんなふうに思われていたんだ。
蔑みの視線の意味を突きつけられて、オレは悲しいというより、おかしくなってしまった。
笑いだしてしまいそうだ。
そんなオレとは反対に、呆然と、ジュリオは、オレを見つづけている。
その青い瞳から、水晶のように涙がこぼれ落ちた。
ジュリオ。
呼びかけようと開いた口から、音を立てて血があふれ出した。
ああ。
オレは死ぬんだ。
確信だった。
助からない。
ジュリオ。
オレは、笑っているだろうか。
笑えているだろうか。
たとえしたことは褒められたことではないにしても、おまえが、オレを救ってくれたんだ。
だから、泣かなくていい。
オレを殺したと、罪の意識など覚えなくていいんだ。
カルスタ。
伝えることができるだろうか。
オレのことを嫌っている男に、オレの最後の願いが通じるだろうか。
心配は要らない。
たとえ、オレを嫌っていても、カルスタにとって、ジュリオはこの上なく大切な存在なのだから。ジュリオを守るためなら、オレが言うまでもないのに違いない。
早く、ここから出て行け。
何も証拠を残さないように、出て行くんだ。
たとえ既にこの世にいないはずのオレを殺したのに過ぎないとしても、多分、王は、ジュリオを許さないのに違いないのだから。
だから、逃げろ。
カルスタが、オレの前に片膝をついて、頭を下げた。
最初で最後、彼の心からの、謝罪だった。
剣を取り上げ血をぬぐったカルスタが泣き叫ぶジュリオを引っ張るようにして出てゆくのを見送って、オレは目を閉じた。
背中が痛い。
けれど、それもだんだんわからなくなっていった。
地獄に落ちるはずなのに、不思議と、恐怖はなかった。
オレを手招いているのは、あの辺境での日々のように、安らいだ眠りだった。
なのに。
その安らぎのときすらも、満足にとれないのが、オレという人間なのだろう。
「―――――ッ!」
誰かの鋭い叫び声に、オレのまどろみは、破られた。
誰か――目を開けるまでもない。
けど、何度も呼びかけられて、開けないではいられなかった。
最期くらい、捨てておいてくれたっていいだろ。
なのに。
オレを見下ろす王の目が、あまりにも悲しそうで、切なそうで、オレはなにも言えなくなってしまったんだ。
「愛している」
この感情が正しいものでないとしても、ただお前を苦しませるだけのものでも、これこそが、私の真実だ。
なにも、返せなかった。
なにが返せるというのだろう。
オレは、ただ、王の黒い瞳を見返すだけだった。
王の目からあふれ出した涙が、オレの頬にこぼれ落ちる。
その熱さが、オレが最期に感じたものだった。
今度こそ、誰にも邪魔されない静かな眠りの底に、オレは、引き込まれていったのだ。