サンタクロースの悪夢
この青年は20代前半くらいなのだろう。顔形はどちらかと言えばハンサムなのだが、その地味な服装のせいで、どこにでもいる普通の青年の印象を与えていた。
いつもなら周囲から注目されないよう細心の注意を払うのだが、今日はついついカッとなり声を荒げてしまった。トナカイのあまりにも頼りない言動に、苛立ちを覚えたのだ。
心の中で渦巻いていた怒りは、トナカイ牧場を離れ、動物園の出口に向かう間に次第に収まっていった。
やや冷静になってくると、感情をコントロールできず大声を出してしまった自分が少し恥ずかしくなる。
牧場の周囲には数人の客がいたようだが、話の内容までは聞かれていないはずだ。
子供に夢を与える仕事の立場上、自分の素性は隠し通さなければならない。これはサンタクロースの掟。サンタクロースにはいくつかの厳しい掟があるが、その中でも最も基本的なものが、自分の正体を明かさないということだった。
青年は長年この仕事をしてきたが、今日ほど迂闊だったことは記憶にない。公衆の前で仕事の話を大声でしてしまうとは…。「もしかしたら、自分の方がトナカイよりも、よっぽど休みボケになっているかもしれない」と気持ちを引き締め、動物園の出口ゲートから外に出た。
ゲートを出て左手には『動物園前』バス停があり、標柱と小さなベンチが置かれていた。
時刻表を見ると、町の中心部行きのバスはこの時間帯、30分に1本しかない。あと15分ほど待たなければならないようだ。
青年は仕方なくベンチに腰を下ろし、ひと休みすることにした。
太陽は高く昇り、強い日差しが降り注いでいた。しかし今は、山からの優しい風が汗ばんだ首筋をほんのりと冷やしてくれる。なんとも気持ちがいい。
目を閉じ、風の心地よさを味わっていると、どこからか子供達の声が聞こえてきた。
目を開けると、道路の向かい側の歩道に、幼稚園の遠足らしき集団が見えた。少し離れた動物園の駐車場からこちらに向かって歩いているらしい。
子供達は大はしゃぎで、引率の先生たちを手こずらせながら、わいわいと横断歩道を渡り、青年の座るベンチの後ろを通って動物園入り口へと入っていった。
青年は子供達の笑顔を見ていると、何とも言えない喜びが、心の奥底から沸き上がってくるのを感じた。何物にも代えがたい無上の喜びだった。その瞬間、自分の中にサンタクロースの血が確かに流れていることを実感できる。
子供達の後ろ姿を見送り、青年は、数分後に到着した町中心部行きのバスに乗り込んだ。
この青年が住んでいる花神楽町というのは、札幌から60キロほど離れた位置にあった。距離的には大都市からそれほど離れてはいないのだが、車窓から見る景色には、どこか時が止まったような、くすんだ雰囲気が色濃く残る町だった。
――それには理由があった。
数十年前、町長が「大きな市町に頼らず、自分たちの力で町を発展させよう」と突拍子もないスローガンを掲げ、周りの市町村との連携を拒んだ。その結果、あっけなく町は孤立し、寂れることとなったのだ。
もともと何もない小さな町が、独自に発展するなど無謀な話だった。人々も冷静に考えればわかることだったが、町全体の大きな集団心理の渦の中、町民全員が幼稚な夢物語に飛びついてしまったのだ。
もちろん今では、車やバスで大きな市や町とも容易に行き来できるようになったが、依然として周囲との関係が希薄である印象は否めない。
そんな町であっても、ここに住んでいる町民は、この寂れた町を愛していた。バスの窓から眺める街並みや、行き交う人々を見ていると、そのことがはっきりと感じられる。みんな幸せそうな顔で生活をしている。
青年もこの町が好きだった。この町を新たな拠点に選んで良かったと心から思っている。大都市のような娯楽や便利さはない町だが、何不自由なく暮らすことができる。その上、自分の正体が知られてしまうリスクもあまり気にしなくていい。自分の仕事に集中できる理想的な環境と言えるだろう。
30分ほどバスに揺られると、青年のアパートの最寄りの停留所に到着した。
バスを降りた青年は、いつものように人通りの少ない道を足早に歩く。
アパートは、停留所から5分ほどの場所にあった。
この辺りは一応「住宅地」と呼べる区域で、一人暮らし用の小さなアパートが点在していた。
青年の住むアパートもその一つだ。2階建てで、部屋は6つだけ。ベージュ色のコンクリートの壁に、赤茶のトタン屋根。前には小さな駐車場が並んでいる。見慣れた景色だ。どこにでもありそうで、記憶に残らない建物。
今は平日の日中。アパートにはほとんど人の気配がなかった。みんな仕事などに出ているのだろう。
青年は建物の脇にある外階段を小走りで駆け上がり、2階のいちばん奥にある自分の部屋の前にたどり着いた。
部屋のドアの横に取り付けられた表札には、何も書かれていなかった。
素性を明かすわけにはいかないし、郵便を送ってくる相手もいない。青年には、表札というものがそもそも必要なかった。
もはや自分に名前など不要だとも思っていたが、万が一、誰かに尋ねられるような場面があれば、「川島正一郎」と答えるつもりでいた。自分はサンタクロースだなどと言えるはずもないし、咄嗟に名前が出てこないのは人間社会では不自然だからだ。そんなことを考えて、「川島」なる名前を用意していたが、今のところ、その名前を口にしたことは一度もなかった。
川島は自分の部屋のドアに鍵を差し込み、がちゃりと音を立てて回した。
一瞬だけ周囲に視線を走らせると、そっと扉を開け、素早く部屋の中へと消えた。
部屋の間取りは1DK。一人暮らしには十分で、この暮らしに不満はなかった。
ただ、もし一軒家に住めたなら——庭にトナカイの小屋を建てて、あいつをそこに住まわせてやりたい。そんな夢を、ふと思い描くことがある。だが、もちろんそんなことをすれば目立ち過ぎる。結局のところ、今のこのアパート暮らしを受け入れるしかないのだ。
以前は、本当に自分の正体を隠す必要があるのだろうか——そんなことを考えたこともあった。もし、自分の正体を明かしてしまったらどうなるのか。まず間違いなく、マスコミが押し寄せてくるだろう。
「いつからサンタクロースをやっているんですか?」
「どうすればサンタクロースになれるんですか?」
「なぜ子供にしかプレゼントを渡さないんですか?」
家のドアを開ければ、そこにはレポーターたちの質問の嵐。連日、自分の行動が監視され、生活のすべてがワイドショーのネタになるに違いない。そんな想像にうんざりして、結局のところ、正体を隠して生きるのが一番だという結論に落ち着いた。
まあそもそも、サンタクロースが世間に素顔を晒すことなどあり得ない。それが、サンタクロースの掟なのだ。人知れず、子供たちに夢を配りながら生きていく存在なのだ。
川島青年は部屋に入ると、すぐに窓を開けた。
熱気に包まれていた部屋に、新鮮な外の空気がゆっくりと流れ込んでくる。
それから、台所の小さな冷蔵庫から牛乳を取り出し、流しの上の食器棚からマグカップをひとつ取り出して、静かに注いだ。
雪のように真っ白な牛乳の表面を見つめているうちに、ふと頭をよぎる。
「そういえば、去年使ったソリはどこへやったかな…」
そんな独り言とともに、またクリスマスの準備のことが気になり始めた。
この部屋には、いろいろと訳があって数か月前に引っ越してきたが、その時には、必需品のソリもたしかに持ってきたはずだ。
川島は部屋の中を見回した。だが、当然のことながら、そんな大きなものが部屋のどこにも見当たらない。一応クローゼットも開けてみたが、大きさからして入るはずもなかった。
「どこにしまったのかな…」
小さくつぶやきながら、記憶をたどろうとする。しかし、どうしても思い出せない。
もしかすると、外に置きっぱなしにして、粗大ごみと勘違いされたのかもしれない。あるいは、誰かに持ち去られたのか——。
ソリをなくしたなんて、もしトナカイに知られたら、どれだけ馬鹿にされることか。あの嫌味な顔が、はっきりと目に浮かぶ。
「参ったな…どこにしまったんだったかな」
川島はもう一度つぶやいた。
5分ほどその場で考え込んでみたが、ソリの行方にはまったく見当がつかない。最終的には、紛失してしまったという結論にたどり着いた。
「…ないものは仕方ないか」
あきらめ半分にそう呟くと、流し台に戻り、ぬるくなった牛乳を一気に飲み干した。
さて、ソリなんてどこで売っているだろう?しかも、プレゼントを運べるような“大きな”ソリだ。このあたりにある店は限られている。おもちゃ屋か、スポーツ用品店か。いや、ホームセンターにあるかもしれない。9月のこの時期にソリが並んでいるとは思えないが…とりあえず近くのホームセンターを覗いてみるか。
川島はそんなことを考えながら壁掛け時計に目をやった。時刻は午前11時になろうとしている。この時間なら、もう店も開いているはずだ。
牛乳を冷蔵庫に戻し、流しでコップを軽くすすぐと、川島は慌ただしく部屋を出た。
ホームセンターは、先ほど降りたバス停から道路沿いに5分程歩いたところにあった。『岡谷』と書かれた巨大な看板は、ずいぶん離れた場所からでもはっきりと見える。この時間帯の駐車場には、まだ数台の車しか止まっていなかったが、休日になると特売品を目当てに町民が大勢集まる人気店だ。
川島は、がらんとした広い駐車場を横切り、一番手前の自動ドアから店内へと入った。
店内は思ったとおり、客の姿はまばらだった。ざっと見渡しても、客より店員の方が多いくらいだ。
来てはみたものの、どのあたりにソリが置かれているのか見当もつかない。とりあえず、店の中を一回りしてみることにした。
店はホームセンターらしく、それなりに広い。日常生活に必要なものは一通りそろっているようだが、ソリがありそうな場所は見当たらない。
なんとなく予想はしていたが、さすがの北海道でも、9月にはまだ冬物は並んでいないようだ。
「もしかしたら、裏の倉庫にでも昨年の売れ残りがあるかもしれない――」
そんな淡い期待を抱き、川島は近くを歩いていた店員を呼び止めてみることにした。
「あの…、すいません、ソリがほしいんですが…」
「へっ?ソリ?」
パートタイムで働いていると思われるおばさん店員が半笑いで聞き返してきた。
「ソリっていうのは…雪の上を滑る、あのソリですか?」
半笑いはまずいと思ったのか、店員は慌てて表情を引き締め、言葉を丁寧に言い直した。
「ええ、まあ、そうです。そのソリです」
川島は心の中で、やっぱり聞かなければよかったかな、と少しだけ後悔した。
「申し訳ございません。今はまだ、ソリは取り扱っておりません。例年ですと、雪が降り始める少し前に販売を開始いたしますので…」
「倉庫とかにも…ないですよね?」
「ええ、大変申し訳ございません」
店員は丁重に頭を下げた。
川島は肩をすくめ、ここでのソリ探しをあきらめることにした。
出口に向かう途中、川島はおもちゃコーナーをもう一度覗いてみることにした。
サンタクロースにとって、子供のおもちゃトレンドを調査するのは大切な仕事のひとつだ。
ホームセンターなので、さほど種類は多くないが、今年の人気商品は一通り揃っている。週末なら親子連れでにぎわうこの場所も、今は母と幼い娘の一組だけ。二人は並んで棚を眺めながら、楽しそうに話をしていた。
川島は、親子の斜め後ろにそっと立ち、気づかれないように様子をうかがった。
「お母さん、これがほしい」
娘は、動物の人形たちが暮らす大きな家のセットを指差した。
「これは誕生日か、クリスマスだね」
「じゃあ、サンタさんにお願いする」
「うん、そうしなさい。サンタさんはユウちゃんがいい子にしてたら、ちゃんとお願いを聞いてくれるからね」
「サンタさん、いつ来るの?」
「12月24日だよ」
「えー、今日来てほしい」
母親は娘の無邪気なお願いに、思わず笑みをこぼした。
そして、優しい声で言い聞かせるように続けた。
「今日は無理だと思うよ。だってね、サンタさんは12月24日の1日しかお仕事をしないんだから」
その言葉を聞いた瞬間、川島の胸がきゅっと締めつけられた。
呼吸が浅くなり、視界が少しずつ暗くなっていく。
そして——忘れようとしていた、あの悲しい記憶が、再び鮮明に蘇ってきた。
あれは、昨年のクリスマスの出来事だった。
僕は毎年、世界中の子供たちにプレゼントを配っていたのだが、その中で、特に気に掛けている小さな男の子がいた。彼は重い病にかかり、学校にも行けず、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。
世界中には病気で苦しむ子供はたくさんいる。それでも、なぜか僕は彼のことが気になり、毎晩、トナカイを連れ出し、様子を見に行ったのだ。サンタクロースが特定の子供をひいきするのは良くないことだとわかっていた。それでも、彼とは特別な絆のようなものを感じていた。
部屋から一歩も出られない彼には、友達もいなかった。もしかしたら、友達という概念すらなかったかもしれない。そんな中、唯一心を通わせられる存在がサンタクロースだった。サンタクロースに願い事をすると、その思いが通じ、クリスマスの日に自分の一番ほしいものを届けてくれる。その話を聞いた男の子は、毎日願い事を僕に話すようになり、やがて、願い事だけでなくさまざまな話をするようになった。僕も心の中で応え、二人の絆は少しずつ深まっていった。
ところが、12月に入り寒さが一段と増した頃、彼の体調が突如悪化し始めた。
僕は24日の夜に、とびきりのプレゼントを持って彼の家に向かうことを約束していた。楽しみにしていたプレゼントを渡せば、きっと元気を取り戻すだろう——僕はそう信じていた。勝手に、彼の喜ぶ顔を想像したりしていた。
だが、そんな期待とは裏腹に、男の子の体調はますます悪化し、24日の朝、いつものベッドの上で静かに息を引き取った。
僕はあの子にプレゼントを渡すことができなかった。
あれほど楽しみにしていたプレゼントを、どうして1日でも早く持って行かなかったのか。もし、24日より前に持って行っていれば、あの子を喜ばせられたかもしれない。結果は変わったかもしれない。あの男の子を救えたかもしれない――。
そんな後悔に、心が張り裂けそうだった。
サンタクロースは、24日の夜にしかプレゼントを届けられない。それもサンタクロースの掟のひとつ。僕には、どうしようもできない、逆らえない掟なのだ。
自分は、子供に夢や希望を与えられる絶対的な存在だと思っていた。そして、あの小さな男の子も、きっとそう信じてくれていたはずだ。しかし、僕はその子に夢を与えられず、命を救えなかった。
いや、その子だけではない。世界中には、夢や希望を求めている子供たちがたくさんいる。戦火の下で怯えて暮らす子、重い病気に苦しむ子、貧困の中で毎日お腹を空かせている子。そんな子供たちに、僕は何ができるのだろうか。年に一度、ささやかなプレゼントを届けるだけの自分の役割に、意味はあるのだろうか――。




