青年と相棒
「時期もそろそろだからな、しっかりと準備しといてくれよ」
青年は、周囲を気にしながら声を押し殺して言った。
「そろそろって…、まだ9月じゃないですか…」
相手はのんびりとした口調ながらも、口元をわずかに歪ませた。
「お前な…、もうすぐ9月も終わるし、そうしたら、あっという間だよ」
青年は、数分前に会った瞬間から相手の態度に苛立ちを覚えていた。まるで休みボケのような顔つきで、そこには緊張感が微塵も感じられなかったからだ。
「あっという間って…」
相手はそこまで言いかけたが、うんざりしたのか、もしくは、あきらめたのか、反論しようとしていた言葉を引っ込めた。
その隙を突いて、青年は再び熱心に語り続ける。
「何度もルートを確認して、完璧に頭に入れておくんだぞ。当日にルートミスをするなんてことは絶対に許されないからな!」
「ええ…、まあ…、分かっていますよ」
相手からは、またもやる気のない返事が返ってきた。
「お前な!ちゃんと真面目に考えろよ!」
先程よりもさらに言葉に熱がこもり、青年の声が少しばかり大きくなる。
「いつもちゃんと真面目にやっているじゃないですか…」
相手はそこで大きくため息をついた。
「ただね…毎回毎回こき使われてばっかりで…」
口調に、少し拗ねたような不満が混じっている。
その言葉を聞いた青年は何も言わずただ黙っていた。いや、黙っていたのではなく、相手の言動に対する極度の憤りで、言葉が出なかったのだ。
青年は奥歯を強く噛み締め、怒りを何とかやり過ごそうと全身の筋肉を硬直させた。しかし、心の底から湧き上がる怒りは風船のように膨らみ続け、ついに臨界点に達して喉の奥で爆発した。
「…こき使われるってなあ、お前!僕達の仕事は…、僕らの使命は、僕らにしかできない、特別なものなんだぞ!そんな甘えたこと言っていると、首を切り落としてはく製にしてやるぞ!」
言葉が叫び声に近くなる。
近くにいた人達が、何事かと気にし始めていたが、青年はそんなことにも全く気づいていない。すっかり頭に血が上っている様子だ。
「お前には使命感っていうものがないのかよ?僕は、誇りをもって自分の役割を全うしている。だから、この仕事が大変だなんて一度も思ったことないよ。だってそうだろう?世界中の子供達が、僕らのことを毎年楽しみに待っているんだぞ!」
静まり返った平日の動物園。青年の叫び声は、9月の美しい青空に吸い込まれていった。その声は、色鮮やかなダリアやペチュニアの香りの隣で、ひどく場違いに、切実に響いていた。
そこで青年は自分の出した大声に驚いたのか、ふと我に帰り、周囲を軽く確認し、小声に戻した。
「僕とお前しかいないんだよ、この仕事ができるのは。まあ、確かに、大変な時もあるかもしれない。でも、これまでどんな状況も一緒に乗りきってきただろう?」
そう言って、青年は相手の反応を観察する。
相手は、相変わらずボケっとした顔を向けてくるだけで、自分の話が心に届いているのかどうか、よくわからなかった。
「とにかくだ…僕はお前のことを心から信頼している。だから、今年もしっかりと働いてくれよ。頼むぞ、トナカイ!」
「ええ、わかりましたよ…、サンタさん」
青年が熱心に話をしていたのは、北海道の片田舎、花神楽町の外れにある花山動物園のトナカイ牧場の柵の前だった。
この小さな動物園は、典型的な田舎の地味な施設だったが、町の住民にとっては、かけがえのない観光スポットの一つだ。
園内の広い花畑には、季節毎に様々な花が植えられ、それらを目当てに訪れる客も少なくない。9月の今の時期には、パンジーやダリア、ハナビシソウ、ペチュニアなどの色鮮やかな花々が、訪れた客の目を楽しませている。香りも爽やかで、園内にふんわりと漂っていた。
一方、本業の動物園としては、規模も小さく、他園と比べてこれといった特徴もない。かろうじて特徴と言えるのは、日本では珍しく、7頭ものトナカイを飼育していることだった。だが、トナカイだけではインパクトに欠け、これまでのところ全国的に注目を浴びるようなことは全くなかった…。
青年は、柵から身を乗り出すようにして、牧場の中の1頭のトナカイに熱心に話し掛けていた。
平日の午前中で客はまばらだったが、近くにいた家族連れがちらりと青年のほうを見ていた。
それは当然だ。いい大人が一人で動物園にやって来て、クチャクチャと草を食んでいるトナカイに向かって、何かを叫ぶ光景は少し奇妙に映るだろう。
青年の表情は不完全燃焼といった感じだった。まだ色々と言い足りていないのだろう。
「それじゃあ…、また来るからな」
トナカイに一言掛けて、青年は柵から少し離れた。
トナカイの方もゆっくりとその場を離れるついでに、極端に短いしっぽを軽く振って応えた。いや、そのように見えたというだけだが、青年は軽くうなずき、トナカイ牧場を後にすることにした。




