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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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終わりが見える

 朝の執務室は、昨日より静かだった。

 正確には、声が少ないわけではない。誰かが短く確認し、別の誰かがそれに答える。キーボードの音も、マウスのクリック音も、あちこちで途切れず続いている。けれど、そこに雑談の入り込む余地はなかった。

 今日は先方との定例がある。

 それを、水瀬は朝の空気だけで知った。高橋部長と村瀬は朝からずっと何かを詰めていて、佐伯や結城も、追加要件の影響が出そうな箇所をざっと洗い直しているらしかった。三浦は共通部品まわりの一覧を開いていて、黒川もインフラ側で増えるものがないか確認している。

 フロア全体が、少しだけ息を潜めているように見えた。

 水瀬も席に着き、PCを立ち上げる。昨日の続きの画面がそこにある。起動まではできている。だが、それで終わりではないことは、もう分かっていた。

 少しして、高橋と村瀬が会議室へ向かうのが見えた。オンライン会議用のノートPCを抱えた村瀬の顔は、いつもより少しだけ固かった。

 定例が始まってしばらくしてから、水瀬は資料へ視線を戻した。

 全部を聞いているわけではない。聞こえてくるのは、会議室のドアが開いた瞬間や、戻ってきた高橋たちの短いやり取りくらいだ。

 それでも、断片だけで十分だった。

「……現行機能を優先で、って方向では伝えました」

「反応は?」

「すぐには首振らないですね。ただ、向こうも入れたい理由はあるので」

 会議室から戻ってきた村瀬が、高橋にそう報告するのが聞こえた。

 高橋は短く頷きながら言う。

「まあ、そうだろうな」

「ただ、今の工程にそのまま乗せるのは厳しいっていう話自体は、伝わってます」

「追加二画面とバッチまで一緒に入れるのは難しい、ってところまでは出せたか」

「はい。後続で切れないか、向こうでも持ち帰りにはなってます」

 水瀬は画面を見たまま、少しだけ息を吐いた。

 完全に片付いたわけではない。

 でも、昨日の朝みたいに、ただ一方的に重さが落ちてきたままではないらしい。

 現場の人が、その重さをそのまま受けないために話している。

 今の水瀬には、そのことが少し前よりちゃんと分かった。


「水瀬くん」

 隣から声がして、顔を上げる。藤堂が自分のモニターから視線を外し、水瀬の画面を見ていた。

「今、ちょっといい?」

「はい」

 椅子を少し寄せると、藤堂は水瀬の作っている画面を見ながら言った。

「起動まではできてるんだよね」

「はい。ひとまず表示は」

「じゃあ、今日はこの先を少し整理しようか」

 藤堂はマウスで画面上の項目を示す。

「今の状態だと、正常系はとりあえず動く。で、次に見るのは、エラーの扱いかな」

「エラーの……」

「うん。入力ミスしたとき、条件に合わないとき、データが取れないとき。そういうの、全部同じ見え方だと、あとで困るんだよね」

 水瀬は画面を見ながら小さく頷いた。

 昨日も似た話は出ていた。だが今日は、もう少し具体的に見えてくる。

 藤堂は続ける。

「たとえばこれ」

 入力チェックの箇所を指す。

「必須が抜けてるのと、システム側で例外が起きるのって、使ってる人からすると全然違うでしょ」

「はい」

「でも、今のままだと、返し方がちょっと近いんだよね」

 水瀬は自分のコードを見直した。

 たしかに、大まかにエラー画面へ飛ばす形にはしている。だが、その中身の分け方はまだ粗い。

「これ、ユーザーの入力ミスなら、直せば先に進めるよね」

「はい」

「でも、システムエラーなら、ユーザー側でどうにもできない」

「……ああ」

 水瀬は小さく声を漏らした。

 同じ“止まる”でも、意味が違う。

 意味が違うなら、出す文言も、残す情報も、揃えてはいけない。

 藤堂はそれを確認するように言った。

「使う人に返すメッセージと、ログに残す情報は分けて考えた方がいいかも」

「ログ……」

「うん。問い合わせ来たとき、どこから見ればいいか分かるようにしたいから」

 水瀬は思わず苦笑した。

「また、動けば終わりじゃないやつですね」

 藤堂も少しだけ笑う。

「そうだね。わりとずっとそうかも」

 その言い方が妙に自然で、水瀬も少しだけ肩の力を抜いた。

 そこからしばらくは、設計書とコードを行き来する時間になった。


 入力不備のときはどう返すか。

 条件に合わないデータのときは何を見せるか。

 想定外の例外はどこで拾うか。

 ユーザー向けの文言と、調査用に残す情報をどう分けるか。


 一つ決めるたびに、また次の論点が見えてくる。

 ただ、前より少し違うのは、今どこを考えているのかが自分でも分かることだった。

 前なら、ただ「進まない」で終わっていた。

 今は、「ここが曖昧だから止まっている」が見える。

 その違いは大きかった。

 昼を回るころには、画面の挙動はかなり落ち着いてきていた。正常系は通る。入力不備の返し方も大筋では揃った。もちろん、細かく見ればまだ直したいところはある。けれど、朝よりはずっと形になっている。

 藤堂がそのタイミングで、画面を見ながら小さく頷いた。

「うん、だいぶできたね」

 その一言に、水瀬は思わず顔を上げる。

「ほんとですか」

「ほんと。少なくとも、起動だけじゃなくて、動きとして見えるようになってきた」

 それは、思っていたよりずっと嬉しかった。

 ただ表示されるだけではない。触ったときに、どう動くかまで形になり始めている。

 藤堂はそこで少しだけ椅子を引き、続けた。

「で、ここまで来たら、次は単体試験かな」

「単体……試験」

「うん。作った機能を、一個ずつちゃんと確認するやつ。正常に動くかだけじゃなくて、想定した条件で止まるか、返るメッセージが合ってるか、そういうのも含めて」

 水瀬はその言葉を頭の中で反芻した。

 単体試験。

 言葉としては知っている。研修でも聞いた。前の案件でも、試験項目の一覧を見たことくらいはある。

 でも、自分が今作っている機能を、自分でその段階まで持っていくのだと思うと、急にその言葉の重さが変わった。

 藤堂はそんな水瀬の表情を見て、小さく言った。

「ここまで行けば、一旦この担当の出口は見えるかな」

「出口……」

「詳細設計とコーディングが終わって、単体試験まで入れたら、とりあえずひと区切りでしょ」

 その言葉に、水瀬は一瞬だけ、画面の向こうにあるものを見た気がした。

 終わり。

 いや、案件全体の終わりではない。そんなはずはない。

 でも、自分の担当しているこの機能には、一応の終わりがある。

 そこまで辿り着けば、少なくとも「ずっと終わらないもの」ではなくなる。

 それだけで、胸の奥に少しだけ熱が戻る。

「……じゃあ、そこまで行ければ」

「うん。もちろん、レビュー戻りとか修正はあると思うけどね」

 藤堂はあっさりそう付け足した。

「でも、一旦そこまでは見えた方が、たぶんやりやすいよ」

 水瀬は小さく頷いた。

 全体はまだ苦しい。

 追加要件の話も終わっていない。

 高橋と村瀬が守ろうとしているものが、そんなに簡単に守り切れるとも思えない。

 それでも、自分の目の前の機能にだけは、少し出口が見えた。

 その感覚が、思っていた以上に大きかった。

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