終わる前に増える
久しぶりに、電車で帰った夜だった。
改札を抜けて、ホームに立って、決まった時間にやって来る電車に乗る。そんな当たり前の流れが、少し前の自分にはずいぶん遠いものに感じられていた気がする。
座席に腰を下ろしたとき、水瀬はようやく、自分の体が思っていた以上に疲れていたことを知った。電車の揺れに合わせて、背中の奥の張りがゆっくりほどけていく。窓の外を流れる夜の街は、タクシーの窓から見るものよりずっと遠くて、静かだった。
昨日は、村瀬に言われて、電車のある時間に切り上げた。
少し悔しかった。
まだやれると思っていた。
いや、正確には、やらなければいけない気がしていた。
けれど、席に座ってコードを読んでいたはずなのに、同じ行を何度も読み返していた自分も、たしかにいた。
(無理をしたかったわけじゃないんだよな)
つり革を掴む誰かの腕が、電車の揺れと一緒に小さく揺れているのを見ながら、水瀬は思った。
朝まで残って画面を動かしたこと自体は、たぶん無駄ではなかった。あのとき、朝焼けの中で画面が立ち上がった瞬間の感触は、今もまだ体のどこかに残っている。けれど、その勢いのまま翌日も走れると思っていたのなら、それは仕事を甘く見ていたのかもしれない。
自分が崩れれば、自分一人の話では済まない。
みんなが夜遅くまで残っている中で、自分だけ勢いで潰れるのは違う。
そこまで考えたところで、電車が駅に滑り込んだ。ブレーキの音と一緒に、思考が少し途切れる。
家に帰ると、昨日までのような妙な高揚感はなかった。シャワーを浴び、適当に髪を拭き、着替えて布団へ入る。電気を消して横になった瞬間、意識がそのまま落ちた。
朝、目が覚めたとき、水瀬は少しだけ驚いた。
眠れた、と思った。
何時間も寝たわけではない。それでも、目を閉じてから朝までの記憶がほとんどなかった。途中で何度も起きることもない。頭の奥にいつも居座っていた鈍い膜が、今日は少し薄い気がした。
カーテンの隙間から差し込む朝の光も、珍しくまぶしすぎなかった。
洗面台の鏡に映る自分は、相変わらず少し疲れた顔をしていた。けれど、昨日までよりはましだった。目の下の影も、頬のこけた感じも消えてはいない。それでも今日は、ちゃんと頭を使えそうな気がした。
(今日はちゃんとやろう)
そう思った。
勢いだけで突っ込まない。
無茶をしない。
できることを、できる頭でやる。
それだけのことなのに、今の自分には少し大事な決意みたいに思えた。
いつもより少し早く家を出る。朝の空気は冷たくて、その冷たさも今日はちゃんと分かった。駅までの道を歩く足取りは軽くはない。けれど、昨日みたいに感覚が曖昧でもなかった。
少し早く行けば、そのぶん落ち着いて仕事に入れる。
昨日の続きを、今日はもう少しましな頭で見られるかもしれない。
そんなことを考えながら会社のビルへ入った水瀬は、エレベーターを降りた瞬間、足を止めた。
執務室の空気が、朝にしては妙に濃かった。
まだ始業まで少し時間があるはずなのに、すでに何人も席についている。黒川もいる。佐伯と結城の島でも二人がモニターを見ながら何か話していて、三浦は静かに資料を読んでいた。藤堂ももうPCを開いている。
けれど、それは「みんな早く来ている」という感じではなかった。
もうずっとそこにいたみたいな空気だった。
会話の声は低い。
朝の雑談みたいなものはない。
笑い声もなく、誰もが画面の奥を見ている。
水瀬は鞄を置きながら、隣の藤堂へ小さく声をかけた。
「今日、みんな早くないですか」
藤堂は画面から目を離さないまま答えた。
「うん。みんな帰ってないからね」
水瀬は一瞬、言葉を失った。
「……え」
「夜のうちに追加要件が来たみたいで。そこから話してた」
静かな声だった。
でも、その一言だけでフロアの重さが急に輪郭を持った。
少し奥では、高橋部長と村瀬が並んで同じ画面を見ていた。高橋の席の横に村瀬が立ち、二人ともモニターの前で低い声で話している。高橋がマウスを動かし、画面をスクロールするたびに、会話の切れ目だけがやけにはっきり耳に入った。
「このスケジュールだと、増員しても難しいな」
高橋の低い声に、村瀬がすぐ返す。
「難しいですね。連動してるので、人海戦術で処理を作るっていうのがやりづらいですから」
水瀬は思わず耳を澄ませた。
「追加はどれくらいだ」
「画面が二つです。しかも、そんなに軽くないです」
「……バッチもだっけ」
「はい、そっちも入ります」
そこで村瀬の声が少しだけ強くなった。
「画面二つも、ただ増えるだけじゃないです。画面遷移も増えますし、確認処理も分岐します。バッチも追加で入るなら、連動側まで見ないと崩れます」
「だよな」
高橋は短くそう返した。
それだけで、水瀬には十分だった。
ただ機能が二つ増える、という話ではない。画面が増えれば遷移が増える。確認処理も増える。分岐が増える。そこにバッチまで追加されれば、画面だけ作れば済む話ではなくなる。
昨日まで何とか前に進めていたものの上に、また別の重さが載る。
そういうことだった。
高橋が少し黙り込んでから言う。
「今の時点でも相当タイトなんだよな」
「はい」
「このまま全部積むのは無理か」
「無理です」
村瀬の返事に迷いはなかった。
「削らないと期間内には厳しいです。もしくは、追加分は今の機能が終わったあとに別で入れる形にしないと」
「……先方は今のリリースに載せたいって言うだろうな」
「言うと思います。ただ、このまま受けると現場が崩れます」
朝のフロアに、その言葉だけが低く残った。
崩れます。
その言い方が、水瀬の胸に引っかかった。
高橋は少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「分かった。先方に話すための資料を用意しよう」
「現状の進捗と、追加を入れた場合の影響、あと代替案ですね」
「そうだな。今の機能を先に出して、追加は後続に回す案も含めたい」
「分かりました」
二人の会話はそこまでだった。
怒鳴るわけでもない。慌てているようにも見えない。けれど、それが余計に重かった。もう感情を挟む段階ではなく、どう崩れない形にするかを考えているのだと、水瀬にも分かった。
昨日は少し早く帰れた。
ちゃんと眠れた。
今日は昨日よりましな頭で仕事に入れると思っていた。
でも、現場の方はそんな都合を待ってはくれない。
自分が少し整ったくらいで、案件の流れが優しくなるわけではなかった。
高橋が席に戻り、村瀬がすぐにチャットを開いて資料作りの準備に入る。佐伯と結城は、すでにバッチ側の影響をざっと洗い始めているらしく、低い声で確認を始めていた。三浦も、共通部品に影響が出そうな箇所を静かに探している。黒川はインフラ側で増えるものがないか、眉を寄せて画面を見ていた。
チームが回り始めたと思ったら、今度はその回転の上に、さらに重しが載る。
水瀬は自分の画面を開いた。昨日までの続きがそこにある。自分の担当が急に変わるわけではない。今すぐ追加画面を自分が引くわけでもない。
けれど、それでも、今聞こえた会話の意味が分かる以上、もう何も知らなかった頃みたいには仕事ができなかった。
案件全体が、また危うくなっている。
そのことが分かるだけ、自分は前より現場の中にいるのだろう。
そう思う一方で、その現実は決してうれしいものではなかった。
少しして、黒川が小声で言った。
「せっかく少し回り始めたと思ったのにな」
水瀬は画面を見たまま、小さく返す。
「終わる前に増えるんだな」
黒川は苦く笑った。
「終わってないのに増える、か」
その言葉が妙にしっくりきて、水瀬は何も返せなかった。
朝の光はまだ窓の向こうにある。始業前の時間も、まだ完全には終わっていない。
それなのに、この現場はもう、次の戦いの準備に入っていた。
昨日の反省を抱えて少し早く来た朝に、机の上へ載っていたのは、新しい無理だった。
水瀬は静かに息を吐き、キーボードに手を置いた。
少し休めたくらいでは、案件の流れは待ってくれない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。




