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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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38/50

終わる前に増える

 久しぶりに、電車で帰った夜だった。

 改札を抜けて、ホームに立って、決まった時間にやって来る電車に乗る。そんな当たり前の流れが、少し前の自分にはずいぶん遠いものに感じられていた気がする。

 座席に腰を下ろしたとき、水瀬はようやく、自分の体が思っていた以上に疲れていたことを知った。電車の揺れに合わせて、背中の奥の張りがゆっくりほどけていく。窓の外を流れる夜の街は、タクシーの窓から見るものよりずっと遠くて、静かだった。

 昨日は、村瀬に言われて、電車のある時間に切り上げた。

 少し悔しかった。

 まだやれると思っていた。

 いや、正確には、やらなければいけない気がしていた。

 けれど、席に座ってコードを読んでいたはずなのに、同じ行を何度も読み返していた自分も、たしかにいた。

(無理をしたかったわけじゃないんだよな)

 つり革を掴む誰かの腕が、電車の揺れと一緒に小さく揺れているのを見ながら、水瀬は思った。

 朝まで残って画面を動かしたこと自体は、たぶん無駄ではなかった。あのとき、朝焼けの中で画面が立ち上がった瞬間の感触は、今もまだ体のどこかに残っている。けれど、その勢いのまま翌日も走れると思っていたのなら、それは仕事を甘く見ていたのかもしれない。

 自分が崩れれば、自分一人の話では済まない。

 みんなが夜遅くまで残っている中で、自分だけ勢いで潰れるのは違う。

 そこまで考えたところで、電車が駅に滑り込んだ。ブレーキの音と一緒に、思考が少し途切れる。

 家に帰ると、昨日までのような妙な高揚感はなかった。シャワーを浴び、適当に髪を拭き、着替えて布団へ入る。電気を消して横になった瞬間、意識がそのまま落ちた。


 朝、目が覚めたとき、水瀬は少しだけ驚いた。

 眠れた、と思った。

 何時間も寝たわけではない。それでも、目を閉じてから朝までの記憶がほとんどなかった。途中で何度も起きることもない。頭の奥にいつも居座っていた鈍い膜が、今日は少し薄い気がした。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光も、珍しくまぶしすぎなかった。

 洗面台の鏡に映る自分は、相変わらず少し疲れた顔をしていた。けれど、昨日までよりはましだった。目の下の影も、頬のこけた感じも消えてはいない。それでも今日は、ちゃんと頭を使えそうな気がした。

(今日はちゃんとやろう)

 そう思った。

 勢いだけで突っ込まない。

 無茶をしない。

 できることを、できる頭でやる。

 それだけのことなのに、今の自分には少し大事な決意みたいに思えた。


 いつもより少し早く家を出る。朝の空気は冷たくて、その冷たさも今日はちゃんと分かった。駅までの道を歩く足取りは軽くはない。けれど、昨日みたいに感覚が曖昧でもなかった。

 少し早く行けば、そのぶん落ち着いて仕事に入れる。

 昨日の続きを、今日はもう少しましな頭で見られるかもしれない。

 そんなことを考えながら会社のビルへ入った水瀬は、エレベーターを降りた瞬間、足を止めた。

 執務室の空気が、朝にしては妙に濃かった。

 まだ始業まで少し時間があるはずなのに、すでに何人も席についている。黒川もいる。佐伯と結城の島でも二人がモニターを見ながら何か話していて、三浦は静かに資料を読んでいた。藤堂ももうPCを開いている。

 けれど、それは「みんな早く来ている」という感じではなかった。

 もうずっとそこにいたみたいな空気だった。

 会話の声は低い。

 朝の雑談みたいなものはない。

 笑い声もなく、誰もが画面の奥を見ている。

 水瀬は鞄を置きながら、隣の藤堂へ小さく声をかけた。

「今日、みんな早くないですか」

 藤堂は画面から目を離さないまま答えた。

「うん。みんな帰ってないからね」

 水瀬は一瞬、言葉を失った。

「……え」

「夜のうちに追加要件が来たみたいで。そこから話してた」

 静かな声だった。

 でも、その一言だけでフロアの重さが急に輪郭を持った。

 少し奥では、高橋部長と村瀬が並んで同じ画面を見ていた。高橋の席の横に村瀬が立ち、二人ともモニターの前で低い声で話している。高橋がマウスを動かし、画面をスクロールするたびに、会話の切れ目だけがやけにはっきり耳に入った。

「このスケジュールだと、増員しても難しいな」

 高橋の低い声に、村瀬がすぐ返す。

「難しいですね。連動してるので、人海戦術で処理を作るっていうのがやりづらいですから」

 水瀬は思わず耳を澄ませた。

「追加はどれくらいだ」

「画面が二つです。しかも、そんなに軽くないです」

「……バッチもだっけ」

「はい、そっちも入ります」

 そこで村瀬の声が少しだけ強くなった。

「画面二つも、ただ増えるだけじゃないです。画面遷移も増えますし、確認処理も分岐します。バッチも追加で入るなら、連動側まで見ないと崩れます」

「だよな」

 高橋は短くそう返した。

 それだけで、水瀬には十分だった。

 ただ機能が二つ増える、という話ではない。画面が増えれば遷移が増える。確認処理も増える。分岐が増える。そこにバッチまで追加されれば、画面だけ作れば済む話ではなくなる。

 昨日まで何とか前に進めていたものの上に、また別の重さが載る。

 そういうことだった。

 高橋が少し黙り込んでから言う。

「今の時点でも相当タイトなんだよな」

「はい」

「このまま全部積むのは無理か」

「無理です」

 村瀬の返事に迷いはなかった。

「削らないと期間内には厳しいです。もしくは、追加分は今の機能が終わったあとに別で入れる形にしないと」

「……先方は今のリリースに載せたいって言うだろうな」

「言うと思います。ただ、このまま受けると現場が崩れます」

 朝のフロアに、その言葉だけが低く残った。

 崩れます。

 その言い方が、水瀬の胸に引っかかった。

 高橋は少しだけ考えてから、小さく頷いた。

「分かった。先方に話すための資料を用意しよう」

「現状の進捗と、追加を入れた場合の影響、あと代替案ですね」

「そうだな。今の機能を先に出して、追加は後続に回す案も含めたい」

「分かりました」

 二人の会話はそこまでだった。

 怒鳴るわけでもない。慌てているようにも見えない。けれど、それが余計に重かった。もう感情を挟む段階ではなく、どう崩れない形にするかを考えているのだと、水瀬にも分かった。


 昨日は少し早く帰れた。

 ちゃんと眠れた。

 今日は昨日よりましな頭で仕事に入れると思っていた。

 でも、現場の方はそんな都合を待ってはくれない。

 自分が少し整ったくらいで、案件の流れが優しくなるわけではなかった。

 高橋が席に戻り、村瀬がすぐにチャットを開いて資料作りの準備に入る。佐伯と結城は、すでにバッチ側の影響をざっと洗い始めているらしく、低い声で確認を始めていた。三浦も、共通部品に影響が出そうな箇所を静かに探している。黒川はインフラ側で増えるものがないか、眉を寄せて画面を見ていた。

 チームが回り始めたと思ったら、今度はその回転の上に、さらに重しが載る。

 水瀬は自分の画面を開いた。昨日までの続きがそこにある。自分の担当が急に変わるわけではない。今すぐ追加画面を自分が引くわけでもない。

 けれど、それでも、今聞こえた会話の意味が分かる以上、もう何も知らなかった頃みたいには仕事ができなかった。

 案件全体が、また危うくなっている。

 そのことが分かるだけ、自分は前より現場の中にいるのだろう。

 そう思う一方で、その現実は決してうれしいものではなかった。

 少しして、黒川が小声で言った。

「せっかく少し回り始めたと思ったのにな」

 水瀬は画面を見たまま、小さく返す。

「終わる前に増えるんだな」

 黒川は苦く笑った。

「終わってないのに増える、か」

 その言葉が妙にしっくりきて、水瀬は何も返せなかった。

 朝の光はまだ窓の向こうにある。始業前の時間も、まだ完全には終わっていない。

 それなのに、この現場はもう、次の戦いの準備に入っていた。

 昨日の反省を抱えて少し早く来た朝に、机の上へ載っていたのは、新しい無理だった。

 水瀬は静かに息を吐き、キーボードに手を置いた。

 少し休めたくらいでは、案件の流れは待ってくれない。

 それでも、止まるわけにはいかなかった。


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