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十三

その日の夜はよく眠れなかったし、火曜日も気分は最悪だった。

理屈はつけたものの、割り切れない気持ちがふとした時に顔を出してくるのだ。

それでも、舞はなんとか気持ちを立て直した。水曜日の今日、今日だけは頑張ろうと。

最後くらい、年上らしく、にっこりと余裕の笑みで言ってやるのだ。

「仕事が忙しくて、もう水曜日の約束は守れそうにないの。今まで楽しかったわ。ありがとう」と。

ちょっとカッコつけすぎだろうか……いや、でもこれくらいでいいんだ。


舞は口の中で台詞を繰り返しながら、何度も渡った歩道橋を歩く。

慎は最初の待ち合わせ以降、いつも先に来て待っていた。今日も慎は、コンビニの前で、キラキラの金髪を太陽に反射させながら、舞に手を振ってきている。


階段を下りる前に、舞は、こほん、と喉を整えて、手帳に挟んでいたメモを取り出した。これはさっき綺麗に清書したものだ。間違いがないことを確認してから、慎のもとへ向かう。


「舞さん!」


慎はまるで大きな犬だ。じゃれついて、ぶんぶんと振るしっぽが見えるようだった。

満面の笑みで舞を待つ慎を見て、舞の胸がきゅっと鳴る。


──可愛い……こんなに可愛いんだから、彼女がいて当たり前よね


なら、なぜわざわざ自分と一緒に帰りたがるのか、そのことには触れない。触れてしまうと、期待して、また醜い自分が顔を出し、女子高生にみっともなく嫉妬して、頭がごちゃごちゃになって苦しくなるから。


舞が恋愛に向いていないと思うのは、こういうところもそうだった。

二十二年間、そんな煩わしさとは無縁で生きてきた。もう疲れてしまうのだ。確かめて傷付きながら納得する答えを求めるより、さっさと諦めて戦線離脱してしまった方がいい。恋愛の悲喜交々は、本の中だけで充分だ。


「暑くなってきたね、そろそろ──」


慎の楽しいおしゃべりも、今の舞には辛いだけ。舞は慎の言葉を遮って二つ折りにしたメモを差し出した。


「これ、参考書買うときに役立ててね」


早口でそう言う舞に、慎は少し驚いたようだったが、素直にメモを受け取り、中を開いた。

書かれた文字を確かめるように、ぼそぼそと呟いていたが、それが本のタイトルだとすぐにわかったらしい。

パッと顔を上げると、「ありがとう」と言ったが、慎はいぶかし気に舞を見やる。


「これ、一緒に探してくれるんだよね?」

「店員さんに訊いた方が早いと思うわ。それと、他の本とも見比べて、慎くんのいいと思うやつにして」

「一緒に来てくれるんでしょ?」

「一人の方が、じっくり、選べると思うの」


舞は、ここまできても、「行かない」とはっきり言葉にすることができなかった。


本当は行きたい、一緒にいたい、

彼女がいてもいい、会ってくれるだけでいい、


そんな舞の、常識とはかけ離れた言葉が渦を巻き、否定の言葉がどこか遠くに追いやられていく。これ以上、みっともない自分にはなりたくないと思ったばかりなのに。


さっきあれだけ繰り返し練習した言葉も出てこない。

舞の様子に、慎は眉間にしわを寄せて、舞の顔をのぞき込んでくる。


「どういうこと?」

「し、仕事が、忙しくて」

「土曜日は休みでしょ」

「違うの、だから、もう」

「何が違うの?」


いつもなら、舞の言葉をゆっくり待ってくれる慎が、焦ったように舞を追い詰める。

急かされて慌てた舞は、見ないようにしていた慎の顔を見てしまい、あ、と言葉をのみ込んだ。

慎は、今にも泣きそうに顔を歪めていた。


「舞さん、急にどうしたの?なんでそんなこと言うの?俺のこと、嫌いになっちゃった?」

「慎くん……」

「俺と会うの嫌になっちゃったの?友達としてでもだめなの?」


この人は、なぜこんな顔をしているのだろう。

なぜこんなことを言うのだろう。


舞の方こそ悲しかった。

そんな顔をするくらいなら、なぜ他の女の子と腕を組んだりするのか。

舞といるときと、あのとき見た慎では印象が全然違った。

あの女の子といたときは、もっと堂々としていて、クールで、むしろ一番最初の慎の印象に近い。

自分といるときに、甘えたり拗ねたりしてみせるのは、全て演じてるのだと思った。

そうやって、舞があたふたするのを見て、楽しんでいるのだと。

だってまさか、慎がまだ自分を好きだなんて、あの光景を見たあとではもう信じられなかった。


「慎くん、には、もっと、年相応の、可愛い子が似合うと思う」

「舞さん!」


慎はたまらないように舞の名前を呼び、腕を掴んできた。

舞は両腕を強引に慎の方に引き寄せられ、正面から見つめられる。舞は耐えられず、思わず顔を背けた。


「どうしちゃたの舞さん、なんで急にそんなこと言うの?」

「し、慎くん、離して」

「だったらちゃんと俺を見てよ、ちゃんとわかるように説明してよ」

「慎くん、う、腕を」


その時、もみ合う二人に割って入った人物がいた。


「君、女性に何やってるんだ!」


それは舞の元教育係、安川祐也だった。


安川は慎の腕を掴むと、舞から引き離そうとした。

だが、慎が安川を目にした途端、慎は乱暴に安川の腕を振り払い、舞を強引に引っ張ると、自分の背中側に隠した。

慎は舞の前に立ちはだかり、それはまるで、安川から舞を守っているようだった。


慎の背中は広くて逞しく、舞は一瞬、状況も忘れて思わず縋りつきたくなってしまった。

慎が自分を守ってくれているという事実に、どきどきと胸が高鳴る。


だが同時に、舞には慎の行動が理解できなかった。もしかしたら、関係のない他人が急に割り込んできたと思ったのだろうか。

彼は自分の会社の先輩だと、慎に教えなければいけない。

舞は慎に説明しようと、後ろから顔を出し、慎を見上げた。


「!!」


しかし、舞はそのまま何も言えなくなってしまった。


慎のこんな顔を、舞は初めて見た。

それどころか、今までこんな表情の人を見たことはなかった。


それは、相手のどんなささいな行動も見逃さないと、絡めとるような執着の眼差しで、できることならすぐにでも殺してやりたいというほどの憎悪にまみれていた。

舞は思わず背筋に冷たいものが走った。


慎と安川は、知り合いなのだろうか。

そう思って安川を見ると、安川もまた、慎のあまりに鬼気迫る勢いに戸惑っているようだった。


慎の後ろから覗く舞に気付き、安川は舞に視線をうつす。何か言おうと口を開きかけたところで、それに気付いた慎がまた舞を後ろに隠した。

今度は後ろ手に腕を回し、舞の体を慎の背中に押さえつけ、顔を出すなとはっきり意思表示する。


慎の表情を読み取りかねていた安川が、さすがに口を開く。


「君、女性をそんな乱暴に扱うもんじゃないよ。手を離しなさい。彼女は僕の部下だ」

「どの口がっ」


吐き捨てるように言った慎の言葉は、密着している舞にしか聞こえない。

慎の背中を通して、ぐらぐらと沸き立つような怒りの感情が流れ込んでくる。


「君、聞いてるのか?藤野さん、大丈夫か?」


返事のない慎に業を煮やし、安川は舞に声をかけた。

だが、舞が返事をする前に、慎がそれを遮る。


「彼女に話しかけるな。俺たちは今、大事な話の最中なんだ。邪魔するな」


底冷えのするような、昏い声だった。

一体どこまで人を恨めば、そんな声が出せるのだろうか。舞は恐怖に震えそうになった。


「口の利き方がなってないな。そんな頭では常識を知らなくても仕方ないかな?」

「見た目だけで判断する危うさを、あんたは身をもって示しているのに、その自分が同じく見た目で判断していいのか?」

「なに?!」


さすがに温厚な安川も、明らかな敵意しか向けない慎にいらつき始めた。

舞はこの状況をどうにかしなければと思うが、慎の腕は怒りのためか加減なく舞を押さえ付け、恐怖にすくんだ舞にはそれ以上どうすることもできなかった。


「君、高校生?もしかして藤野さんが言ってたやつか」


安川は攻撃の隙と見つけたというふうに、舞との話を持ち出した。


「藤野さん、少しは相手を見なきゃだめだ。こんな無礼な子にあの勉強は早すぎる。とにかく彼女に話があるんだ。仕事の話でね。高校生でもわかるだろ?大人の仕事の邪魔をしちゃいけないって」


安川の皮肉に、慎の腕にさらに力が入った。さすがに苦しくて、舞は慎の背中を、トン、と指先で叩く。

それにハッとした慎は、すぐに力を弱めて、舞を振り返った。


「ごめん、痛かったね?」


舞だけに聞こえる小さな声で、慎は言った。さっきまで安川にむけていた憎悪のかけらもない、いつもの、慈しむような慎の瞳だった。


「慎くん、どうしたの?慎くんらしくないよ」


舞もぼそぼそと慎に答える。二人の顔がぐっと近くなっていたが、今はそれどころじゃなかった。


「仕事の話だから、行かなきゃ」

「行かせたくないっ」


慎の必死な様子が、舞は不思議でならなかった。慎がこんなふうになる理由が全くわからない。ただ、縋るような慎が、舞には可哀相に思えた。


「いつも一緒に仕事してる人なの。仕事の話なら、行かなくちゃいけないの」


小さい子に諭すように優しく言うと、慎は唇を強く噛んで、微かに頷いた。


「ごめんね、慎くん」


舞が離れようとすると、慎は最後に、


「お願い、連絡して」


と細い声で囁いた。

舞は無言で頷くと、慎のから離れ、安川の元へ行く。


安川は安心したように舞に笑いかけ、「よかった、一度会社に戻ろう」と提案してきた。


慎は、二人の後ろ姿をじっと見つめている。

途中、安川が少しだけ慎に振り返り、あからさまに口を歪めると、見せつけるように舞の背中に手を置いた。


慎は口内に鉄の味を感じた。噛み締めた下唇が切れて血が出ていた。

舌で血を舐めながら慎は思った。


あんな笑いができるのは、本物の下衆だけだ、と。


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