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十一

仕事はいい。余計なことを考えなくてすむ。

考えなければいけない問題を、今は忙しいからという理由で、後回しにすることができる。


海底からぽこぽこと泡が湧き上がってくるように、利己的で醜い感情が勝手に生まれてきていた。

だが、舞はそれに無理矢理蓋をして、泡が生まれていることにさえ気付かないふりをした。

それよりも、ただ慎にどきどきと、ときめいていたかった。


──明後日は水曜日。慎くんと帰れる。そのときに、土曜日の計画をたてよう


舞は恋愛の楽しい上澄みだけを味わって、あとは仕事に没頭した。


集中したせいか、その日は早く仕事が片付いた。

帰り支度をしながら、舞は、ふと、土曜日に着ていく服がないことに気付く。

平日はいつもスーツだし、休日に出掛けるといってもスーパーくらい。女友達と会うなら、学生の頃から履いているジーンズでもいいが、今度の休みはそれではだめだ。

慎の隣で恥ずかしくないような、並んでいても釣り合いがとれるような、そんな服が欲しかった。


普段、洋服をあまり買わない舞は、選ぶにも時間がかかる。なかなか決まらず、何も買わずに帰ってくることもあった。

その代わり、一度買った服は大切に長く着ることにしている。高校時代に買った洋服も、まだまだ現役で活躍していた。


舞は思い切って、隣駅の商業ビルに行ってみることにした。

まだ行ったことはないが、美咲がこの前買い物に行って、


「若い子向けから、落ち着いた服まで、いろんな店があったよ。……まあ、私の場合はたいてい大きいサイズコーナーになるんだけどね……」


と、苦笑しながら言っていた。

細くて手足が長い美咲は、体がぴったりでも袖が足りなくなってしまうらしい。でも、その店は大きなサイズでも、デザインが豊富だったと言っていた。


慎と土曜日に待ち合わせするのもこの駅で、駅の様子もわかるし、一石二鳥だと思った。

それならばすぐにでも行こう。

舞は会社を出ると、駅までの道を急いだ。


商業ビルがある駅は、いつも舞が乗る電車とは反対方向だ。

水曜日、階段下で別れたあとに慎が上っていく階段、それと同じ階段を上っていくと思うと、それだけで舞の心は高鳴った。

駅のホームが違っただけで、こんなにも景色が変わるのかと舞は思う。

慎のことを考えるだけで、世界が明るく、何もかもが新鮮に映った。


隣駅は広く、想像したよりもごちゃごちゃとしていた。

乗り換えの案内も多くて迷いそうだ。舞は下見をしておいてよかったと思う。初めての場所は、方向が分からなくなることが多いのだ。


目当ての商業ビルは、駅から通路で直結しており、舞と同じような会社帰りの女性も多かった。

地上十三階、地下二階のこのビルには、服はもちろん、雑貨、アクセサリー、靴、バッグ、ランジェリーに手芸用品、フィットネスジムまであり、もちろん食品店街、レストラン街もあった。

洋服だけでも何店舗あるのか……舞は今日中に服を買うのは無理だなと、早々に諦めた。


一時間で各階のお店をざっとチェックし、気に入った店を見つけたら改めて来よう。そして今夜はここの地下でお惣菜でも買って、ちょっと贅沢な夕飯にしよう。


そう決めた舞だったが、いざ店を回ってみると、どこも素敵な店ばかりで、目移りして仕方なかった。

そういえば、買い物自体、久しぶりだったことに気付く。社会人になってからは、毎日忙しくて、出掛ける気にもなれなかった。


また、目移りの理由は他にもある。

今までの舞は、着やすさ重視で服を選んでいたので、気にするのは洗濯表示と素材くらいしかなかった。デザインはあまり気にしない。地味だろうが何だろうがどうでもよかった。

しかし、今回は違う。自分が少しでも印象よく、もっと欲を言うならば、少しでも可愛くなりたかった。

服だけではない。華奢で疲れそうなヒールも、物がろくに入らないようなバッグも、記念日にしか買わないようなアクセサリーも、今までなら絶対に選ばないような品物たちが、全て候補に入ってしまうのだ。


これではとても一時間では回れない。

一日にワンフロアならいけそうだが、それでは土曜日の約束に間に合わない。


焦った舞は、まずビルの全体像を掴もうと、最上階に行った。そこからエスカレーターで順々に下りていき、とりあえず見える範囲のお店だけで雰囲気を掴むという無謀な行動にでた。


時間に追われ、バタバタと焦りながらも、舞は楽しかった。

エスカレーターの旅は、階ごとにいろいろな刺激を舞に与える。


あのワンピース可愛い、私が着ても大丈夫かな、

ヒールを少し高くしたら、少しはスタイルが良く見える?

思い切ってピアスを開けてみたりして、

バッグも新しいのが欲しいな、


舞は、高校生の頃の、クラスの華やかな女の子たちを思い出していた。

服にメイクに大忙しだった彼女たちが、キラキラと輝いていたことを。

こういう気持ちだったのかと、今初めて舞にも理解できた。

ネイルはピンクがいいかベージュがいいかとか、バッグは紺がいいか黒がいいかとか、舞にはどっちも大して変わらないように思えたけれど、彼女たちの目には全然違って見えていたのだろう。

彼のために、自分のために、努力してどんどん綺麗になっていった彼女たち。


──私も、あんなふうに綺麗になれるのかな……


そんなことを考えていると、ふと、化粧品コーナーが目に入った。

舞は誘われるようにして、華やかなディスプレイに近付いていく。


──口紅……


就職活動のときに買った、ベージュの口紅を、舞はいまだに使っている。

似合う似合わないよりも、安心感のある無難な色だから選んだ。

でも今は、もっと明るい口紅を選びたい気分だった。持っているだけでわくわくするような、華やかな口紅が欲しかった。


たくさんの口紅が店頭に並び、グラデーションを作っている。

舞はその中の一本を手にとった。くりくりと口紅を出し、色を見るが、自分に似合うのかどうかわからない。

すぐに女性の店員がやってきて、舞を鏡の前に誘導してくれた。


「よろしければ、お薦めをお試しになりますか?」


一筋の乱れもなくキリリと髪を結い上げた、キビキビと動く美しい人だった。


「はい。できれば、華やかな色が欲しいんですが」

「かしこまりました。それではいくつか試させていただきますね」


店員はにっこり笑うと、カウンター裏から数本の口紅をかごに入れて持ってきた。

そして、口紅をプラスチックのへらで少し削り、それを使い捨ての紅筆を使って舞の唇に滑らせる。丁寧に縁取りをしてから、筆で色を埋めていく。


舞は他人に口紅を塗ってもらうのは初めてだったが、くすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになった。でも、嫌な気分はしなかった。


「いかがですか?」


店員の言葉を合図に鏡を見ると、そこには、自分なのに自分ではないような、不思議な顔が映っていた。


色は深みのあるローズ。濃い色なのに、違和感なく舞の唇を彩っている。

鮮やかな発色と、滑らかな伸びに、舞はどうしてもこれが欲しくなった。まるで一目惚れしたようだった。

それでも、お薦めという他の色も一応試してみた。が、やはり最初の色が一番舞に似合っていたと思う。

店員も同じ意見で、舞はドキドキしながら最初の口紅を購入した。


黒地に金でブランド名が書かれた小さな袋を、舞は宝物のように抱えている。

持っているだけでわくわくする、まさに理想通りの口紅だった。


口紅一つで、こんなにも幸せになれることを舞は初めて体験した。


──帰ったら、さっきみたいに綺麗に塗れるように練習しよう


ふわふわと楽しい気分になり、足取りもどんどん軽くなっていく。


この口紅をつけて慎に会ったら、慎は驚くだろうか。普段の自分とは違うと、気付いてくれるだろうか。

さっき見た鏡の中の自分を思い出して、舞は口元がにやけるのを止められなかった。


はっきりと濃いローズ色の唇は、舞を特別な女性のようにしてくれた。女性らしく、華やかで、愛を受けるに相応しい大人の女性だ。


その時、どこかで名前を呼ぶ声がした。自分の名前ではない。今、舞が最も気になっている人の名前だ。


──ただの同名?空耳かな?でも、もしかしたら……


いつもと違う場所で偶然会うなんて、なんて幸運なのかと、舞は声のした方を窺ってみた。すると、今度ははっきりと「シン!」と呼ぶ声が聞こえる。


声は女の子のものだった。

化粧品の陳列棚が並ぶ向こう側、さらに通路を隔てた柱のそばで、ちらりと見知った人影が見え、舞はすぐに隠れた。


どくどくと心臓が脈を打つ。首のあたりがぞわぞわとして不快な感覚がまとわりついた。


制服を着た慎が、同じ制服を着た女の子と、腕を組んで歩いていたのだ。






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