32.第九章、完
時を遡ること、クラウディアがケントロン国を去った日。
夜の海で、蠢くものが浜辺に上がった。
世界の重みを全身で受けとめがら、一歩一歩、それは大地に足跡を残していく。
「ふぃー、やっと本島に到着かいな」
ズボンに空気を入れて膨らませた浮き袋を肩にかけ、脇に化粧箱を抱える姿は、遠目から見ると異形と評するほかない。
「潮流に乗れたんはええけど、えらい時間がかかってもうたわ」
船を見かけるたび、岩陰に隠れるなどしていたら半日以上を費やしていた。
素性を隠して助けてもらえる分にはいいが、手にしたものを奪われるのだけは嫌だった。
「無事に着けたんやからええか」
欲しかったものも確保できた。
修道者のマリタが最後に抱えたものが目に映らなければ、後を追って潜ることもなかった。
抱えていた化粧箱をぱかりと開ける。
その瞬間、熟成した木の香りが漂った。
中には折り曲げた腕のような形の香木が入っている。
ただ焚いて香りを楽しんでもいいが、ここまでの大きさになると削って使うのが一般的だ。
加えて、別の使い道もあった。
この香木は、煎じて飲めば滋養強壮の薬となり、ファンロン王国で毎年流行る病によく効くのだ。
これだけあれば貧民街の一つは救える。
恩を売るに越したことはない。
今回、ファンロン王国の王太子リーウェイに扮して紛れ込めたのも、政府内に内通者がいたからだ。国の腐敗を嘆いた内通者は、少しでも王族が痛い目に遭えばいいという思いで、情報を怪盗に流した。
犯罪を犯しつつも善行を積めば、義賊として持て囃される。
民衆を味方にするのは簡単で、彼らは勝手に理想像を膨らませてくれた。あとは聞こえてきた望みに軽く応えるだけでいい。
日々の生活に不満が溜まっていればいるだけ怪盗への好感度が上がるのだから、ある意味では怪盗の生みの親は腐った政府ともいえる。
香木の無事を確認し、化粧箱の蓋を閉める。
ふと、最期のマリタの顔が蘇った。
「化粧箱を奪って蹴落としたときの顔は見物やったなぁ」
海の中、驚愕し、目を見開くマリタといったら。
この展開はまるで予想していなかったらしく、口から大量の空気を吐き、抵抗もできずに沈んでいった。
ナイジェルの隠し財産と共に身を投げた彼女だったが、香木の入った化粧箱を胸に抱えているのを見て、ピンときた。
逃げるつもりだと。
沈むのが目的なら、水に浮きやすい木ではなく、金貨の入った革袋を選ぶ。
彼女は、香木がどのように持ち運ばれるか貴族はわからないと踏み、一度深く潜ってから泳いで逃げる腹積もりだったのだ。
強かな女である。
「咄嗟の判断にしては見事やったけど、運がなかったわ」
こちとら怪盗だ。
現物の目利きはもちろん、何に入れられて運搬されるかも熟知していた。
振り返り、対岸で灯る明かりを見る。
視線は、ぼんやりと浮かぶ城塞を撫で、漆黒の海へと下った。
「どうぞ財宝と共に安らかに」
そっと手を合わす。
敬愛するナイジェルの財宝に囲まれているのだから弔いは十分だ。
「幼馴染みを襲ってまで守る価値があったのかは謎やけど」
ずっしりと重くなった上着のポケットから水が滴る。
詰まっているのは宝石だ。家宝を探すふりをして頂戴していた。
「こっちは遠征費で消えそうやな」
少しは利益になってくれることを願う。
あまり持ちすぎると、それこそ沈みかねないので、いくらかは手放す必要があった。
「しかし自分もまだまだ未熟やわ」
王族なんて民の金をむさぼり食うだけの存在だと思っていた。
下々のことなど考えもせず、ただ己の快楽にだけ溺れている。
ファンロン王国のリーウェイは、正にそんな人間だった。
考える頭もなく、側近に上手く使われている。
「まさか正体に気付かれるとはなぁ」
さすがに証拠はなかったみたいだが、しっかり釘は刺された。
また誰かに任せず、自ら近衛の捜索に踏み切ったのも意外だった。
指揮は執っても、現場は下の者に任せるのが普通だ。
なのにシルヴェスターやクラウディアは、自分の足で歩き、情報を集めて捜索した。
他の――特に東洋や南洋の国の王族は我関せずで、暇を持て余していたというのに。平民の消息など、誰一人として気にかけていなかった。
王族とは、そういうものだ。
「キラー種についても調べな」
チューチュエ王国の第一王女ミンユーとクラウディアの会話を盗み聞きして知った。
「あくどい商売しよってからに。自分も一枚噛ませろっていうねん」
とてもじゃないが肉欲しか興味のないリーウェイの考えとは思えないので、側近の誰かが主導しているのだろう。
「ほんま気に食わんわぁ」
王族も、その周りに群がる者たちも。
また内通者には働いてもらわなければ。
肩を回してストレッチする。
重いブーツは海中で脱いでいた。他にも要らぬ装飾品は海に捨てたので身軽だ。
やたらめったら長いカツラも、今頃は魚と一緒に泳いでいるだろう。
周囲には誰もいないので気兼ねなく上着も脱ぎ、ズボンと共に裏返していく。どちらもリバーシブルで片面は黒く染められていた。
濡れそぼってはいるが、どうせ適当に服を盗むまでの付き合いである。
「人目を気にせんでええのはいいなぁ」
特に変装時は、誰かに見られていることを常に意識する。
やっと気分転換でき、身も心も軽くなっていた。
夜の浜辺を裸足で歩く。
ザァ、ザァ、と打ち寄せる波の音が心地良い。
こうして黒装束に身を包むと「個」としての存在がなくなり、世界と融合できる気がする。
環境音に導かれるようにして、ゆらゆら揺れる。
ゆらゆらゆら。
――闇に紛れる怪盗の後ろ姿は、リーウェイと似ても似つかなかった。
この後、東洋を越えて、ハーランド王国でも怪盗の名が轟くことになるのだが、クラウディアもシルヴェスターも、今は知る由もなかった。




