2 ジル
「セアラ、今度こそ、俺の所にきて欲しい」
ようやく伝えられた言葉と共に、期待と懇願を込めてセアラを見つめる。
この町に来たのはただ巡業で回ってきただけではないのだろう、と。サンデリナに三ヶ月も滞在する予定を組んだのは、君の意向だろう、と。
「……ジル」
なのに彼女は沈んだ声で彼を呼ぶのだ。
「あのね、ジル。もう、あなたが気にすることはないのよ」
そうジルを突き放すのだ。
「セアラ、何を……」
「ジルの気持ち、とてもうれしい。でも私はもう、子供じゃないから。あなたに守られなければ生きていけない子供じゃないの。だからね、……もう、ジルは私の事なんて気にしないで。私は大丈夫だから。ジルは約束を十分果たしてくれているの。……だから、だから……」
彼女の言いたい意味が分からない。
呆然と立ち尽くすジルに、セアラが困ったように微笑み、不自然に明るい声でしゃべりはじめる。
「あのね、セロームの歌姫として結構有名になったのよ。私の歌を楽しみに来てくれる人がたくさんいるの。それから、商隊への借金の残りは楽団が立て替えてくれてたんだけど、それももう返済は終わったし、私、ちゃんと自由になってるの。だから、大丈夫、だから。だからね、あのね、ジル、わたしは……わたしは……」
「……それは、俺とは一緒にいたくない、ということか……?」
喉の奥が、からからになっているような気がした。震えそうになるのを必死に押さえて出した声は、驚くほどに低く響く。
「……え?」
「俺の気持ちには答えられないと言うことか」
「え? あの、ジル……?」
戸惑った様子の彼女が憎らしい。
「君に会いたいと、君と一緒にいたいと、そう思っていたのは、俺だけか」
これは落胆か、それとも失望か。沈んでいく気持ちが抑えられない。
一人勝手に先走ったのは自分だ。共に暮らせると思っていた。これからは一緒にいられると、そしていつか、彼女が自分に抱いてくれている親愛を、愛情にかえられないかと期待していた。
なのに返ってきた言葉は拒絶する物ばかり。
過去など捨てて先へ進むという彼女に、ジルが請う愛など足枷にしかならないという事か。
このまま彼女を責め立ててしまいそうな自分を自覚する。しかしそれではいつかの二の舞だ。
狂おしい感情が渦巻くを必死で押さえつける。
黙り込んだままうつむいたジルに、セアラがおろおろとした様子でのぞき込んでくる。
「ジル?」
「君はもう、俺などいらないんだな」
「何を言ってるの……?」
「……俺は、ずっと、君を惑わせるだけの役立たずでしかなかったな」
思い起こせば、ジルがセアラの役に立てたことなど一度もなかったのだ。偉そうなことばかり言って、全て空回りした。今回も、また、そうなのだろう。
うつむいて言葉を失ったジルに、慌てた様子でセアラが取り繕ってくる。
「そんなことを言わないで。ジルはずっと、私の心の支えだった。ジルがいなかったら、私はこんな風に自分の道なんて選べなかった」
「……だが、今は選んだんだろう? 俺はもういらないのだろう?」
君はもう、俺を求めてくれないのか。
捨て鉢な気持ちで投げつけた言葉に、彼女が逡巡したのち、小さくうなずいた。
瞬間、頭に血がのぼる。自分が投げつけた言葉だというのに、彼女がうなずいたことが許せなかった。
自制していた何かがはずれた。
ジルはうっすらと笑うと、そっとセアラの髪を撫でる。
大切にしたいのに、会えない間に募らせた想いが大きすぎて感情が荒れ狂う。
彼女が自分などもういらないというのなら、諦めるべきだと分かっている。あの時のように傷つけてはいけないと分かっている。
だからといって、こんなうなずきたった一つで、彼女を探し続けた十三年を、彼女を想い続けた六年を捨てることなどできるはずがない。それが出来るのなら、とうの昔にそうしている。
彼女が、俺の助けなどもう必要ないというのなら、それでいいだろう。それなら俺は……。
「じゃあ、出会いからはじめようか」
「……え?」
困惑するセアラに、ジルはことさら優しげに笑いかけた。
「小さいセアラを助けたかった兄ではなく、美しい歌姫に出会った男として、俺は君に愛を請うといっているんだ」
「愛……? ジル、何を言って……」
逃がすものかと思う気持ちに反応したかのように、セアラが震えながら後ずさる。
君に会えたなら、二度と手放さないと決めていた。自分勝手だとまた君は怒るだろうか。君の気持ちを考えない、横暴な男だと。
守りたい君を俺はまた泣かせてしまうのだろうか。……それでも、それでもセアラ、俺は。
ジルは笑みを絶やすことなく、脅える彼女にささやく。
「今更諦めるつもりはないんだ」
「……ジル?」
セアラの不安げな表情を前にしても、ジルは優しげな笑みを崩さない。
「幸い、君はまだ三月ここに滞在する。全力で口説くから、覚悟しておくといい」
もう、あの日のようなへまはしない。
「……無理よっ」
震えていた彼女から悲鳴のような声が上がった。泣きそうな顔のセアラが、唇をかみしめて首を振る。
「どうして」
かたくなな拒絶を受けて笑みがこわばる。表情を取り繕う事など慣れた物なのに、セアラには簡単に感情をかき乱され、笑うことさえ出来なくなる。
そんな自分を自覚しながら、ジルは六年前のあの時のように責め立てたい感情を必死で押さえた。
「だって……!!」
セアラがボロボロと涙を流しながら、必死でジルから離れようとする。
「私は、ジルにふさわしくないものっ」
「なにを……」
「どんなに、私がジルと一緒にいたくても、許してもらえるはずがないもの!!」
「そんなことは、どうでもいい! 俺が聞きたいのは、君がどうしたいかだ! 立場なんてどうでもいい!」
とっさにまくし立てても、彼女は頑なに首を横に振るばかりだ。
「どうでもなんて……むり、よ……。ジルは子供の頃の約束にとらわれてるだけよ……」
「違う! 本当は、約束だってどうでも良かったんだ。俺は……ただ、君に、会いたかった。……ただ、セアラと一緒にいたかっただけだ……」
君は、違うんだな……。
ぽつりとこぼした最後の一言に、びくりと彼女が震える。
「ち、ちがう、の……っ」
思わず口をついて出た、そんな言葉に、セアラ自身が驚いたように口をつぐむ。けれどこらえきれなくなったように叫んだ。
「……いたいよ!! 私だって、ジルと一緒にいたい!!」
泣きじゃくりながら彼女が「でも」と何度も繰り返す。
「セアラ、俺のそばにいて」
抱き寄せれば今度は振り払われることなく小さな体がジルの腕の中に収まる。そのくせ、彼女は苦しそうに首を横に振る。
「セアラ、頼むから、そんな理由で俺を拒絶しないでくれ……」
セアラは脅えるように首を横に振りながら、なのに縋るようにジルを見上げる。
「ジルは、ほんとに、私がいても、いいの? 私、あなたと一緒にいても………本当に、いいの……?」
「あたりまえだ!」
ようやくこぼれた前向きな言葉。反面、今にも逃げ出してしまいそうな彼女を強く抱きしめる。
彼女は震えながら、涙声ですがりついてくる。
「だって、ジル。だって、私、本当に、ずっとずっとジルといたいのよ? 本当にそれでもいいの?」
「それの何が悪い」
ずっと欲しかった言葉が、彼女の口からこぼれ落ちてくる。愛しいと思った。脅えながらそれでもジルにすがりつきたいと望んでくれる彼女が、どうしようもなく愛おしかった。
どう言えば、彼女は受け入れてくれるのか。彼女はなぜこんなにも頑なに離れた方がいいと思い込んでいるのか。
その答えは、セアラから、小さくこぼれ落ちた。
「だって、ジルは、オーブリーの後継者でしょう?」
いつだって、彼女を前にすると自分のことで精一杯になってしまうのだと、思い知る。
セアラを迎え入れたいと思いながら行動していたジルと、再会したばかりの彼女では認識に差があって当然だということに気付かなかった。
何より、ジルは立場上女性から言い寄られることが多々ある。ジルの隣に立つと言うことは相応の力が必要であり責任が生じるのだと理解せず、甘い蜜だけ吸いたがる貪欲な女性が多すぎたのだ。女性がジルの立場を恐れるという感覚がなかった。それを気にする女性と付き合う機会もなく、その不安に触れることもなかった。何より、ジルはセアラに会えたなら、そういった物から離れる事を視野に入れていた為、セアラがそれを不安に思うなど、考えが及ばなかったのだ。
「俺は、君を前にすると、いつも先走ってしまうな」
苦笑いするジルを、セアラが不安そうに見上げてくる。ジルは安心させるように微笑む。
「大丈夫、俺は跡を継ぐつもりはないから。俺はそういうのにむいてないんだ。それより交易をする方が性に合ってる。跡は弟に譲るつもりだ」
「譲る……? じゃあ、ジルは……ううん、でも……」
困惑した彼女は逡巡し、気付いたようにジルを見上げた。
「私の、せい……?」
「ちがう。本当に跡を継ぐことに興味がないんだ。それに気付けたのはセアラのおかげでもあるから、……そうだな、君のせいというのなら、そうとも言えるか」
考え込むセアラに、ジルは笑みをこぼすと軽い調子でずっと夢見ていた未来を語る。
「なあセアラ。俺と一緒に旅をしよう。あの日二人で市場を回ったように、二人で世界を見て回りたい」
その言葉に、セアラが顔を上げた。
「私も、また、ジルと一緒に見て回りたい」
涙ぐんだ顔が、ようやく笑みを浮かべる。
「旅は好きか?」
「うん」
「じゃあまた、市場の通りで歌って」
セアラがうなずく。楽しみだな、とジルが笑えば、セアラもはにかむ。
チリンと鈴が鳴った。
ようやく、迎えに行くといったあの日の約束が果たされたのかもしれない。約束など関係なくなった今頃になって。
世の中はそんなものかもしれないなと、ジルは内心苦笑いする。
そしてまだ不安がぬぐいきれない様子のセアラの頬を、大丈夫だというように指先で撫でる。
「……ほんとに、いいの……? 」
「いいもなにも……。ねえ、セアラ、君、分かっているの?」
首をかしげた彼女に苦笑が漏れる。
ジルは彼女の耳元でささやいた。
「俺が、君に、結婚を申し込んだんだって」
その時の、真っ赤になって見上げてきた彼女の顔は、二人の子供が大人になる頃になっても、ジルがセアラをからかうときの話題として上ることになる。
国内最大のオーブリー商会の長がジル・オーブリーであった時代、商会は最も栄えたと言われている。
国内外問わず交易に力を尽くした大商人の傍らには、歌姫として名をはせた妻セアラが常にいた。彼の手腕と彼女のもてなしは商会に大きく貢献したという。
そして各国を旅する彼らを支えた、この時代のオーブリー陰の立て役者と言われているのが、ジル・オーブリーの弟、ジョエル・オーブリーである。彼は表舞台に出ることはあまりなかったが、彼こそが真にオーブリーを栄えさせたとも言われている。なぜ真の実力者であったとされる彼が台頭することなく、裏に徹したのかは分かっていない。
諸説あるが、分かっているのは、ジョエル・オーブリーは兄であるジル・オーブリーを支え、その時代商会が最も栄えたこと、そしてジル・オーブリーとその妻セアラは、いつも共に各国を旅をする仲睦まじい夫婦であったと伝えられている、ということである。
「君の叔父さんは、もう町にいないそうだ」
突然告げられた言葉に、彼女は驚いて顔を上げた。
曰く、地域が一丸となってかわいがっていた幼い姪を売り払った彼らにとって、あの町はずいぶんと住みづらくなったようだ、とのこと。
しばらく考え込む妻に、男は、訪ねてみるか? と、静かに問う。
懐かしい道を二人は軽い足取りで歩んでいた。
「ね、ね、みんな、元気かな!」
弾んだ声で、にこにこと彼女は隣の夫を見上げた。
「そうだな」
「八百屋のおばさんに、肉屋のおじさんに、それから、雑貨屋のお姉さんと、それから、それから……」
彼女は思い出せる人を片っ端から数え上げてゆく。
「はやく会いたいな!」
もう一度みんなに会えたなら、たくさんのありがとうを。
* * *
「とんだ誤算だ」
そう言って団長は苦笑いをした。
「オーブリーの御曹司が、数回会っただけの娘を本気でほしがるだなんて、誰が思う。セアラの思い込みと片思いだと思うのが普通だろう。一度恋に破れれば、その分歌声に深みが増す。もう一皮むけた歌姫の誕生の筈だったのに」
今脂ののったセアラをわざわざジルにあわせに来た理由を聞いて、セアラもまた苦笑いする。手放す気など、団長自身なかったのだ。
「返しませんよ」
「良いさ、ここで大々的に歌姫の退団公演を華々しくやるさ。せいぜい宣伝をしてくれ。それと大きな公演の時は、貸し出してもらうぞ」
オーブリーに嫁いだために都市で行われる大きな公演でしか姿を見せなくなったセロームの歌姫は幻の歌姫といわれ、次代の歌姫と交代したのちも、その歌声の素晴らしさは語られ続けた。
* * *
「僕は、兄上から後継者の立場を乗っ取ろうとしたのではなく、兄上が跡を継いでも、好きなように外へ足を運べるように地盤を固めていたんです!! 僕は絶対跡なんか継ぎませんからね! 跡は兄上が継いで下さい、冗談じゃないです。僕は裏で動くのは得意ですが、表向きではありません!!」
「えー。絶対にお前が跡継いだ方がうまくいくと思うんだが……」
「嫌です! 僕は上に他の人がいる方がやりやすいんです! それには兄上のように誠実な方の方が良いのです! それに、……かっこいいじゃないですか、影の支配者とか」
「何だよ、それ……。でもなぁ……。俺、セアラと結婚するし、あの子をやっかいごとに巻き込むのはなぁ……」
「するのは決定事項ですか。全く面倒な。大丈夫です、それこそ情報操作は任せて下さい。歌姫なんて、うまくやればむしろ最高のうちの看板になってもらえますから。ああ、兄上の方に面倒なことは必要ありません、僕が全て手を回しておきますから。にこにこと今まで通りに仕事をして下さったら、それで良いんです」
「ジョエル……お前、悪そうな顔をするようになったなぁ……」
「兄上にバレていたのなら、隠す必要ないですから」
ジルがははっと笑う。
「そうか。肩の力が抜けたのなら、それで良い。そのまんまのお前でいろよ」
「兄上……。もしかして、以前言ってた言葉も……もしかしてあれは、無邪気なままでという意味じゃなく……」
「ああ。うまくだましながら、良いようにやってくれれば良いよ。お前がお前らしくいられたらそれで良い。……俺は、お前のこと、信頼してるからな」
「……っ、はいっ」