第13話 変わらぬ夏
八月六日の朝、弦は夜のうちに三度目を覚ました。
眠りが浅かったのは暑さのためだけではなかった。横になった身体の下で、敷物の縁が汗を吸い、肩と腰の骨へ硬く当たっていた。寝返りを打つには、先に片方の膝を立て、肘をつき、息を整えねばならない。若い頃なら目を覚ますこともなく済ませた動きに、一つずつ順が要る。
二度目に目を覚ました時、外はまだ暗かった。三度目には、遠くで戸を開ける音がした。続いて、水を汲む音と、箒が地を擦る音が聞こえた。
朝が来ていた。
弦は起き上がった。
両足を下ろしても、すぐには立たなかった。右の手で膝を押さえ、左の手を傍らについて、足裏へ重さが戻るのを待つ。指の節は曲げるたびに痛んだ。肩は、眠っている間に固まっていた。
それでも、身体は昨日までと同じ場所にあった。
弦は自分の手を見た。
薄い皮膚の下に、筋と青い血管が浮いている。爪は厚くなり、指先には長く紙を扱い、板へ字を書き、縄や海図へ触れてきた痕が残っていた。十八の朝に見た手ではない。
その手が消えていないことを確かめてから、弦は立った。
遠くで市電の走る音がした。車輪が軌道の継ぎ目を越え、短く規則正しく鳴った。七月の終わりに戦が終わったとの知らせを受けてからも、街の音が一度に戻ったわけではない。建物疎開で取り壊された家の跡も、戻らない者も、空いた家も残っている。食べ物も布も足りず、戸口に立つ人の顔から疲れが消えたわけではなかった。
それでも、今朝は市電が動いていた。
弦は水を飲んだ。器を持ち上げると、手が細かく震え、水面が縁へ触れた。喉を通った水はぬるかった。飲み終えても器を置かず、両手で包んだまま耳を澄ませた。
今日が何日であるかは、確かめる必要がなかった。
昭和二十年八月六日。
日付は、何日も前から身体の内へ近づいていた。
戦が七月の末に終わったと聞いた時、弦はすぐに今日の朝を思った。誰が敗北を引き受け、何を退け、どの場所で決めたのかは知らない。どこから渡った言葉が、誰の手を止めたのかも分からなかった。ただ、もう戦わないという知らせだけが、街から街へ運ばれ、広島にも届いていた。
その知らせがあっても、八月六日は来る。
暦が同じ日を示せば、空も同じ時刻へ向かう。
弦は柱時計を見ていた。
広い一階の作業場。積まれた箱。縄を掛ける手。額から落ちた汗。柱に掛かった時計の長い針と短い針。短い針は八を過ぎ、長い針は三のところにあった。
見上げた直後に、白い光が来た。
熱が来た。短い間を置いて圧力が来た。飛び散ったガラスが肩を切った。耳を覆う大きな音のあと、足もとの床が消えた。
次に触れたのは、水枝の下河原の凍った土だった。
そこから先の広島を、十八歳の弦は知らなかった。焼けた街を歩いた記憶も、誰かを捜した記憶もない。白い光の正体も分からなかった。
広島でその先を知らないからこそ、身体は何度も光の手前へ戻る。
柱時計の針があの位置へ近づくたび、首の後ろが固くなった。強い朝日が壁へ反射しただけで、右腕が上がった。背後で荷が落ちれば、身体が先に低くなった。長く生きる間に、その動きがなくなったことは一度もない。
今朝は、その時刻そのものが来る。
弦は器を置いた。縁が下へ当たり、小さな音を立てた。
光が来れば、あの朝の続きが来る。
来なければ、自分が消えるかもしれない。
その二つを、弦は同じ朝の中で待っていた。
幕末の冬の下河原へ落ちた時、自分だけが別の時へ運ばれた理由は分からなかった。岩井家で目を覚ました後、名を尋ねられ、戸ヶ崎弦と答えた。名を公へ出さない方がよい時があり、公へ置かなければ消える時もあった。海を渡り、戻り、教える場所を変えながら、弦は同じ名を使い続けた。
その長い時間が、今日の光をなくすために与えられたものだったのか。光がなくなれば、そこへ至るまでの自分も要らなくなるのか。
答えは持っていなかった。
十八の身体が冬の下河原へ移った時にも、答えはなかった。九十を大きく越えた身体が八月六日を迎えても、分からないものは分からない。
弦は着替えた。袖へ腕を通す途中で右肩が痛み、左手で布を引き上げた。帯を締める指が一度外れ、初めからやり直した。履物へ足を入れ、立ったまま踵を収めることはできなかった。腰を下ろし、指で直した。
外へ出ると、朝の熱が地からも壁からも返ってきた。
昨夜の暑さが抜け切らぬうちに、日の熱が加わっている。道には、早くから動く者がいた。荷を肩へ掛けた者、空の籠を持つ者、布を頭へ巻いて歩く者。市電を待つ人の列は長くなかったが、停留場へ着いた車両には立ったまま乗る者も見えた。
弦は港に近い方へ歩いた。
今日の時刻を、閉じた場所で一人待つことはできなかった。あの朝の続きが来るかどうかを待ちながら、街の音を閉め出していることもできない。
歩幅は小さかった。杖を突くたび、腕から肩へ衝きが返る。若い者に追い越されることには、とうに慣れていた。道の端へ寄り、急ぐ足へ場所を譲る。
家々の間には、戦争の残した隙間があった。窓を板で塞いだところも、修理の済まない屋根もある。朝の支度をする者は、足りないものを足りないまま使っていた。欠けた器で水を配り、継ぎのある袋へ荷を入れ、擦り切れた履物で仕事へ向かう。
戦が終わっても、昨日までの損じは道にも人にも残っていた。
道の向こうから、自転車を押す若い者が来た。
荷台には小さな包みが括られている。前輪の脇を歩き、混んだところを抜けると、自転車へ乗ろうとして足を止めた。首から細い紐で札を下げていた。身体をかがめた拍子に、札の表が弦の方へ返った。
汗で少し波打った厚紙だった。
上から、欄が並んでいる。
帰着刻。
中止を命じる者。
その下に、交代と、戻らない時の確認を記す狭い欄があり、持つ者の氏名はさらに下へ置かれていた。
若者は札の裏を見て、何かを指で確かめた。通りの反対側から呼ばれると、片手を上げた。
「帰りは同じ所でいいんですか」
「変わったら先に知らせろ。札にある者へだ」
「分かりました」
「刻を過ぎるなら、着いてからでなく、戻る前に知らせろよ」
若者は返事をし、今度は自転車へ乗った。荷台の包みが傾かないよう一度後ろを見てから、港の方へ進んでいった。
弦は追わなかった。
札に書かれた名前を読むこともしなかった。どこへ出るのかも、何を運ぶのかも聞かなかった。
帰着刻。
中止を命じる者。
人の名より先に、その二つがあった。
書く位置も、札の大きさも、水枝で見た名簿とは違っていた。どこで形が変わったのか、弦には分からなかった。
若者は、帰る刻と中止を命じる者が記された札を持って出た。
弦の足が止まっていた。
後ろから来た者が脇を抜けた。弦は杖の先を道の端へ寄せ、もう一度歩き出した。
札を持った若者は、すでに人の間へ入っていた。
遠くで、舟の機関が低く鳴った。
港へ向かう道は、朝の仕事へ人を運んでいた。二人で長い材を担ぐ者が、曲がる前に声を掛け合う。積み荷を数える者は、指を折りながら同じ列を見直していた。舟のそばでは、岸から綱を受けた者が、結び目を引いて確かめている。
弦は、ひらけた場所まで来て立ち止まった。
腕時計を見た。
八時には少し間があった。
針は確かに進んでいる。遅れていないかを確かめるため、道の先に見える時計と照らした。大きな違いはなかった。
日差しは強くなっていた。白い壁が明るく見えるたび、目を細めた。朝の光と、待っている光を同じにしないよう、自分へ言い聞かせる。
だが、身体は言葉を聞かなかった。
首の後ろへ汗がたまり、襟の内を伝った。杖を持つ手に力が入り、掌が滑る。息を深く吸おうとすると、胸の奥が狭くなった。
八時を過ぎた。
市電が一台、通りを走った。
車輪の音が近づき、弦の前を横切り、遠ざかった。窓から見える人の顔は、一つずつ別の方を向いていた。立つ者は吊革を持ち、座る者は膝の上へ荷を置いている。
弦は腕時計を見た。
針が一分進んでいた。
時間は、老いた身体へは早く過ぎることも、遅く過ぎることもあった。眠りから目覚めるまでの夜は短い。立ち上がるまでの数呼吸は長い。十年を振り返れば一枚の紙ほどに重なるのに、待つ一分は、足の裏から頭までをゆっくり上ってくる。
八時五分。
岸を離れた舟が、狭い水面で向きを変えた。別の舟から声が飛び、進む側を譲った。水を切る音が、石の岸へ返った。
八時七分。
仕事へ入る者が遅れて走ってきた。戸口にいた者へ頭を下げ、何かを言いながら中へ消えた。叱る声は聞こえたが、その後すぐ、荷を動かす掛け声が重なった。
八時九分。
学校へ向かう若い者たちが、道の向こうへ現れた。
一人が鞄を抱え、もう一人が肩から掛けた紐を直している。数人が前を歩き、後ろから来る者が追いつこうと声を上げた。
「待ってくれ」
「遅いぞ」
「電車が混んでたんだ」
「先生には自分で言えよ」
笑いが起きた。
弦はその方へ顔を向けた。
若い声は、十八の頃に聞いたものとは違った。服も、歩く道も、教わるものも違う。戦の終わった後へ向かう者たちだった。誰かを待たせ、遅れた理由を言い、笑いながら並んで歩いていた。
八時十一分。
弦は杖を置ける場所を探した。身体が支えを要らなくなったのではない。両手を空けたかった。
石の縁へ杖を立て掛け、腰を下ろした。
膝が曲がり切る前に、左手をついた。肩が痛んだ。座ると、脚の筋が細かく震えた。
八時十二分。
作業場の箱と縄が、記憶の中で近づいた。
十八歳の弦は、荷のそばへ立っている。今日の自分より背は真っ直ぐで、腕には力があった。額の汗を袖で拭い、次の箱へ手を掛けた。
八時十三分。
弦は右手を膝の上へ置いた。
指が勝手に開き、また閉じる。頭を庇うなら、右腕から上がる。若い身体が覚えた順を、老いた肩も忘れていない。
八時十四分。
街の音が遠くなった。
実際に消えたのではない。市電の走る音も、舟の機関も、人の呼ぶ声も聞こえている。弦の耳が、そのすべての向こうに、まだ来ていない一瞬を探していた。
腕時計の秒針が進んだ。
一つ。
二つ。
弦は息を吸った。
三つ。
白い壁から目を外した。
四つ。
頭上の空を見ないよう、足もとの影を見た。
五つ。
影は、朝日の向きに伸びている。
腕時計の長い針が三を指した。
作業中、何気なく振り返って柱時計を見上げた十八歳の視線が、記憶の内から返った。
午前八時十五分。
右腕が上がった。
弦は肩の痛みを感じるより先に、前腕で頭を庇った。左手が地をつかみ、背が丸くなる。息が喉で止まり、両足が逃げるために立とうとした。
老いた膝は、すぐには身体を持ち上げなかった。
弦は腕の下で目を閉じた。
白い光を待った。
来なかった。
瞼の裏には、朝日の赤みだけがあった。
熱を待った。
夏の空気は皮膚へまとわりついていたが、あの日、白い光の直後に顔と前腕へ食いついた熱は来なかった。
圧し潰す力を待った。
風が汗の浮いた頬を通った。衣の裾を小さく動かしただけだった。
音を待った。
舟の機関が鳴っていた。遠くで金属を落とす音がし、誰かが拾えと怒鳴った。そのどれも、耳を覆ったあの音には変わらなかった。
弦は腕を下ろせなかった。
時計が八時十五分を指した瞬間から、何かが遅れているのかもしれない。
十八の時にも、時計を見てすぐ光が来た。すぐ、が何秒だったかは覚えていない。身体は時計の位置から光、熱、圧力、飛び散ったガラス、音までを残している。その先の広島だけを知らない。
弦は数えた。
一つ。
二つ。
数えている声が自分のものかどうか、初めは分からなかった。唇は動かず、喉の奥で数字が続いた。
十を越えた。
光は来ない。
二十を越えた。
熱は来ない。
三十を越えた。
圧力も、大きな音も来ない。
それでも、弦は腕を下ろさなかった。
来なかったのなら、次は自分が消える。
指先からなのか、名前からなのか、誰の記憶にもいなかった者になるのか。分からない。ただ、長く借りていた時間が、光の消えた瞬間に取り上げられるのではないかと、弦は待っていた。
右手を見た。
頭の上へ上げた手は震えていた。
皮膚は透けなかった。
爪も、曲がった指も、日に焼けた斑も残っていた。
腕を少し下げた。
肩の関節が痛んだ。
痛みがある。
その痛みさえ、身体が残っている証しとして受け取るまでに時間がかかった。
弦は左手で自分の右の手首を握った。細い骨の上に脈があった。速く、浅く打っている。
一度。
間を置かず、もう一度。
自分の手で数えられる脈が、指の下を通った。
弦は顔を上げた。
街があった。
見えるものが、光の来る前の一枚として止まっているのではないかと、初めは思った。
だが、市電が進んでいた。
車両は弦の見ている先へ入り、停留場へ近づいた。待っていた者が一歩前へ出る。車両が止まり、戸が開いた。降りる者が先だと誰かが言い、乗ろうとした若者が身を退いた。
舟も動いていた。
先ほど向きを変えた舟は、もう岸から離れている。水面には、その後ろから広がった波が届き、石垣へ当たって崩れた。別の舟が綱を解き、岸の者が輪にした縄を放った。
荷を運ぶ者は、手を止めなかった。
長い材の前を持つ者が足場を確かめ、後ろへ声を掛けた。二人は同時に持ち上げ、戸口の内へ運び込んだ。積み荷を数えていた者は、途中で誰かに話しかけられ、指を戻して初めから数え直した。
学校へ向かう若者たちは、道の先へ進んでいた。
遅れていた一人が追いつき、前の者の肩へ触れた。触れられた方が振り向き、何かを言う。声は聞き取れなかったが、横にいた者が笑った。
笑い声は途切れず、角を曲がった。
時計を見た。
八時十六分だった。
一分が過ぎていた。
柱時計が示した時刻から、針は先へ動いている。
弦の腕が、ゆっくり下りた。
肘を膝へ置いた。背はすぐには起こせなかった。頭を庇って縮んだ首と肩が固まり、息を吸うたびに筋が痛んだ。
口から、短い息が漏れた。
次の息は、少し長く吐けた。
三度目に吸った時、胸の奥まで空気が入った。
弦は泣かなかった。
涙がなかったのではない。目の縁が熱くなり、視界が滲んだ。それでも顔を覆わず、街を見ていた。
見失いたくなかった。
市電が走ることを。
舟が岸を離れることを。
人が荷を持ち、間違えれば数え直すことを。
若い者が学校へ向かうことを。
時計は八時十七分へ進んだ。
弦は杖を取ろうとした。指が一度、柄をつかみ損ねた。掌の汗を衣へ押し当て、握り直す。
立ち上がるには、石の縁へ手をつく必要があった。腰を上げても膝が伸びず、杖へ重さを預ける。若い者のようには立てない。十八歳の反射が一瞬で身体を縮めても、九十を越えた身体を戻すには、いくつもの動きが要った。
立ち上がった後も、足をすぐには出さなかった。
消えていない。
弦は自分の足裏へ重さがあることを、初めて歩く者のように確かめた。右足を半歩出す。杖を置く。左足を寄せる。
歩けた。
光の来なかった八時十五分の向こうへ、自分の足で一歩出た。
市電の停留場から、人が散ってきた。弦は邪魔にならぬよう道の端へ寄った。急ぐ者は弦の脇を抜け、荷を持つ者は広い方へ回った。
一人の若者が、弦の前で足を緩めた。
「大丈夫ですか」
弦は返事をするまでに、息を一つ継いだ。
「はい」
「暑いですから、無理をなさらない方がいいですよ」
「ありがとうございます」
若者は頭を下げ、先へ行った。
弦はその背を見送った。
八時二十分を過ぎても、街は動いていた。
弦は水のあるところへ行き、もう一度ぬるい水を飲んだ。器を口へ運ぶ手は、朝より大きく震えていた。少しこぼれ、顎から衣へ落ちた。拭おうとして、布を取り出す指がもつれた。
急がず、一度手を開いた。
握り直す。
水滴を拭った。
その日の昼、暑さはさらに強くなった。
弦は朝のことを誰かへ語りに行かなかった。来なかった理由は、今も分からなかった。
弦はその日の夕方まで、時計を見るたびに自分の手を確かめた。
八時十五分を過ぎた後にも、消える時が遅れて来るのではないかという恐れは残った。日が高くなっても、食事を取っても、影が反対側へ伸びても、身体のどこかが次を待っていた。
夜になり、灯りを落として横になった。
肩には、頭を庇った時の痛みが残っていた。膝も熱を持っている。寝返りを打つために片足を立て、腕で身体を支えた。
朝と同じ動きだった。
違うのは、午前八時十五分を越えた身体で行っていることだった。
市電の音は夜まで続いた。遠くの舟の音は、昼より少なくなった。人の声が減り、戸を閉める音がした。
弦は目を閉じた。
白い光は、瞼の裏へ何度も戻った。
それでも、朝に聞いた若者たちの笑いも戻った。
弦は、両方を持ったまま眠った。
八月十五日の朝、表を通る若い声で、弦は筆を止めた。
「そっちじゃない。先に寄る所があるって言っただろう」
「知ってるよ。忘れ物を取りに行くだけだ」
「また遅れるぞ」
「走れば間に合う」
「朝から走らせるなよ」
複数の足音が近づき、弦のいるところを通り過ぎた。一人が先へ走り出し、履物の音が急に速くなる。残る者が呼び止めたが、答えは遠ざかった。
しばらくして、同じ足音が戻ってきた。
「早かっただろう」
「最初から持ってこい」
「次は忘れない」
「昨日も聞いた」
言い合う声に笑いが混じり、そのまま遠くなった。
弦は筆を置き、立って外を見に行くことはしなかった。
今朝の声は、聞こえたところまででよかった。
机上には、水枝実学舎文庫から届いた夏便があった。
月半ばの郵便へ返書を出すため、弦は朝から紙を開いていた。届いた便りには、水枝に残るものについて、確かめられた範囲が記されていた。
戦が終わった後も、郵便は滞っていた。紙は十分ではなく、届く日も定まらない。月半ばに出せる便へ、返書を間に合わせる必要があった。
八月十五日は、暑い夏の日だった。
朝のうちから蝉が鳴き、道を歩く者は額の汗を拭っていた。昼にはもっと暑くなる。弦にとっては、夏便への返事を仕上げ、郵便へ出す日だった。
弦は紙の上へ宛先を書いた。
水枝実学舎文庫気付・沙江様。
筆先が一度、紙へ触れずに止まった。弦はそのまま返書を書き始めた。
夏便は傷みなく届き、最後まで読めた。そう書いたあと、広島は七月の終わりから戦の後へ移り、市電が動き、舟も出ていると続けた。食べ物も暮らしの品も足りず、戦で失ったものは戻っていない。
そこまで書くと、手が疲れた。
筆を置き、指を一本ずつ開いた。人差し指と親指の付け根が固まり、紙を押さえる左手にも痺れがある。若い頃には、黒板へ一日字を書いても、夜まで筆を持てた。今は数行ごとに休まねば、字が崩れる。
弦は急がなかった。
月半ばの郵便に間に合わせるには、昼までに書けばよい。筆を置く時間も、その日の用の中へ入っている。
水を飲み、手を休めた。
表から荷車の音がした。車輪が小さな段差へ当たり、積んだものが鳴った。引く者が止まり、後ろへ何かを確かめる。もう一人が荷を押さえた後、車輪はまた動き出した。
弦はその音を聞き、筆を取った。
広島は暑い。市電が動いている。舟が出ている。若い者が仕事と学校へ向かい、朝から声が聞こえる。
今日、自分で見聞きしたところまでを書き足した。
昼近く、返書を書き終えた。
初めから読み直した。
書き加えるものはなかった。
墨が乾くまで待った。
その間に、封じるための紙と紐を揃え、宛先を読み返した。
水枝実学舎文庫気付・沙江様。
墨が乾くと、手紙を折った。
折り目をつける指に力が入らず、端が少しずれた。弦は折り直さなかった。
封をした。
昼を過ぎる前に、弦は手紙を持って外へ出た。
朝より気温が上がり、道の影は短くなっていた。帽子をかぶり、杖を持つ。片手に手紙を持ったままでは歩けないため、衣の内へ収めた。
一歩ずつ進んだ。
八月六日に時刻を待った道と同じ方へは行かなかった。あの日を確かめ直す用はない。月半ばの郵便へ手紙を出すため、いつもの用を済ませる方へ歩いた。
途中、朝に言い合っていた若者たちの姿はなかった。
郵便に関わる者へ手紙を渡す時、弦は宛先を指で示した。
「水枝実学舎文庫気付です」
相手は宛先を読み、受け取った。
弦は、月半ばの便へ入ることだけを確かめた。
その日のうちに、手紙は弦の手を離れた。
その手紙の末尾には、四行があった。
沙江様。
広島には、今年も暑い夏が来ました。
いつもの、変わらぬ夏です。
今朝も、若い声が聞こえました。




