第75話 男の嫉妬と華麗なるゴール
そして、最後の大仕事——「ペニシリン工場の用地買収」を担当した山内は、再び原善三郎氏のもとへ泣きついていた。
「原様! どうか、どうか再びお力添えを!」
用地買収は原氏経由が一番確実だと踏んだ山内は、原氏に泣きつき、一緒に高島氏(高島嘉右衛門)の屋敷へと向かった。
高島氏も、「横浜の発展のため、そして金田先生の創薬事業のためならば」と、これまた破格の優遇条件で、現在のパン工場の隣にある『倍近くの広さの更地』を譲ってくれることになった。
用地買収は大成功だ。
だが、喜んだのも束の間。
「……更地ってことは、一から工場を建てなきゃならないじゃないか! どうすればいいんだ!?」
山内は頭を抱え、そのまま山手の金田病院へと駆け込み、俺に泣きついてきた。
「社長ぉぉ! 土地は買えました! でも更地です! 建物の建築手配まで手が回りません!」
「よくやった、山内。あとは俺に任せろ」
俺は山内を連れて、困った時の万事解決のドラえもん……鈴谷さんの店へと走った。
「鈴谷さん、助けてくれ!」と駆け込むと、すぐにいつものメンバー(大工の棟梁や横浜の重鎮たち)が集まり、工場の建築相談会へと発展した。
「よし、先生の新しい工場だ! 俺たちが最優先で建ててやらぁ!」
棟梁の威勢のいい声とともに、宴会が始まった。
そのまま、なし崩し的に夜通しの「大人の会合」へと突入し、朝帰りコースである。
山内は、図らずも今回の件で、華々しい『鈴屋デビュー(大人の階段)』を飾ることになった。
翌朝、フラフラになって社宅に帰ってきた山内を見た堀尾と吉村は、事の顛末を聞いて激怒した。
「あいつだけ、社長と高級小妓楼で遊んできやがった!」
「俺なんて、埼玉の田舎でカレーパン配ってたのに! ズルい!」
男の嫉妬は恐ろしい。
しばらくの間、山内は二人から口を利いてもらえなかったという。
そんなこんなで、エリート若手三人衆は、ボロボロになりながらも、子供たちを矢面に立たせるというブラックな手法も辞さずに、この長い長いデスマーチを見事にやり切ったのだ。
彼らの血と汗と涙の結晶の上に、ペニシリン工場は着々と建設され、和紙を使った安定化ペニシリンの量産体制も整いつつあった。
改めて考えると、とてつもなく長いデスマーチだったが、気がつけば季節は巡り——俺と結さんの一大イベントである『結婚式』が目前に迫っていた。
もちろん、あの血みどろのデスマーチを生き抜いた堀尾、吉村、山内の三人(と、新入りの重田、又野)も招待しておいた。
本当によく働いてくれる彼らへの、俺の心ばかりの気配り(慰労)だ。本当に、心ばかりだけど。
俺と結さんとの結婚は、事業が落ち着いてからと考えていたのだが、彼らのデスマーチのおかげ(?)で事業が急拡大し、とても「落ち着く」どころではなくなってしまった。
だが、鍋島侯爵夫人からの強いアドバイスもあり、明治二十二年の五月、鎌倉の『鶴岡八幡宮』で式を挙げることになったのだ。
古くから武家の信仰が厚い八幡様での挙式。元男爵夫人の結さんにはふさわしい、厳かな舞台だ。
そして、式が終わった後は、俺が最初に泊まり、数々の歴史的会議の舞台となったあの横浜の高級ホテルを借り切り、お披露目の披露宴を開催した。
本当は、まだこの時代には「披露宴」という形式は一般的ではなかった。
だが、俺が世話になった人間(鍋島侯爵ご夫妻、柳澤頭取、安田氏、原氏、浅野氏、鈴谷さん、ヨハンさんなど)があまりにも多すぎて、しかも大物ばかりだったため、それなりにお披露目の機会を持つ必要があったのだ。
「金田先生! 奥様! 本日はまことにおめでとうございます!」
「先生の製薬会社が、日本の医学を背負って立つ日を楽しみにしておりますぞ!」
会場は、百人以上のVIPたちで埋め尽くされ、祝福の言葉とシャンパングラスが絶え間なく交わされた。
病院の女性スタッフたちや孤児たちも、華やかな衣装で俺たちの門出を祝ってくれている。
そして、金田商会のエリート三人衆も、疲れ果てた顔ながらも、満足げにグラスを傾けていた。
愛する結さんと結婚し、当初の目標であった「製薬事業」の本格的な立ち上げも、頼もしい社員たちの犠牲……いや、努力によってようやく動き出した。
もぐりの医者から始まり、パン屋の元締め、そして病院経営者を経て、製薬会社の社長へ。
「……これで俺も、一端の『事業家』になったとしておこう」
俺は、隣で幸せそうに微笑む結さんの肩を抱き寄せ、グラスを掲げた。
横浜の空の下、俺の起業の物語は、ひとまずの華麗なるゴールを迎えたのである。
(第二部・起業編 完)




