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お金を貸してくれというわたしの、平時ならなんか下世話で、でも今は切実な問いに、野田はうなずいた。
「小遣いや……貯金の範囲でなら」
「……具体的に、いくら?」
彼は間をおいて、
「じゅ」
「十億!?」
そんなわけないのだけど、切羽詰まっていたわたしは反射的に叫んだ。
「十万……。ごめん、俺、あまりもらってない。使わないし。親は、物はよく……くれるんだけど」
彼は高価そうなパソコンや、デスクの上の腕時計を見下ろしていった。
「い、いや、いやいやいや、充分だし」
お小遣いとかもらったことないから相場が微妙にわからないけど……今のわたしにとっては、どう考えても大金だ。
「十万……。いいの? いや、いいの? じゃないよわたし。――その十万円、どうか貸してください!」
わたしは頭をさげた。
彼は「うん」と即答した。
「俺なんかが持ってたって……しかたない金だし。……なんならあげるよ」
「いやいやいやいや! それはさすがに返す! 絶対に返す! もう一生かけても返すから!」
わたしは顔と手をぶんぶん振った。
十万か……。
……実際、彼の家のこの感じなら三百万くらいあっても不自然じゃなかったけど。
……いや、だめだめそんなこといったら。心の中でも思っちゃだめだ。人格が疑われる。
「ちょっとごめん」
と彼はパソコンデスクの隅に無造作に置かれていた封筒に手を伸ばす。
そしてそれをそのままわたしに手渡して、
「はい、十万円」
「うわっ! なんだろこの封筒って思ってたけど、これだったんかい!」
わたしはこけそうになった。
「なにかあったらすぐに使えるように……銀行には入れてないんだ」
にしても要らない郵便物みたいな置かれた方してて、その雑さだけ金持ちっぽかった。
「どうも、ありがとう……」
わたしは両手で受け取った。
十万円……どう使おう。
一度しか手にできないお金だし、なにより、野田の気持ちがこもったお金だ。無駄にはできない。
ぜったいに、ぜったいに、このお金を倍にして……いやさすがにそれは無理か。じゃあ利子をつけて……いや、高望みはやめておこう。十万そのまま……だとしても、幸せになったわたしの気持ちをつけて必ず彼に返すんだ。
そのためにできることは……。
と、投資……。
ちがうちがうちがう!
だめだめわたし。親譲りの血が騒いでギャンブラーと化してる!
息を吐いて、いったん落ち着いて、冷静に思考してみる。
そうだ、お金を最終的に増やさなきゃいけないって考えたら、自然と必要なことが思いつくじゃないか。
借金を自動的に増やす悪魔の装置――【父親】から離れること。
いくらお金があっても、仮に十億あっても百億あっても、あの家にいる限り、無限にマイナスを作り出す父親に吸われてしまう。
この時点で、危機を永久に脱するには逃げることが第一条件になる。
……ほんとうは、姉を助けたかった。
十万を元手にしてどうにかお金を増やして借金を返すというバクチな案だって、べつにふざけて考えたわけじゃなかった。
でもそれだけの額まで増やすことがまず現実的じゃないし、なんらかの奇跡が起きてそれが達成できたとしても、父親の借金能力とこちらの返済能力の途方もない対決になるだけだ。……一体誰が得をするんだそんなの。
逃げる。
逃げ切る。
ただそれだけで、最大の敵はいなくなる。
もちろん、高校も出てない女が仕事をして生活をしてお金を貯めるのは簡単なことじゃないだろう。でも不可能じゃない。あとは自分の能力次第だ。自分以外のものに邪魔をされることはもうないんだ。
*
「夕飯……これ食べて」
野田が階下に降りていってしばらく経ったと思ったら、豪華な和食プレートを持って戻ってきた。
「忙しいとき用の、冷凍だけど」
「忙しいとき……って、もしかして親がいないとき、普段は作ってるの?」
野田は顔をさっと背けて、うなずいた。
「すごい。わたし、食事を作ったことなんて人生で一度もないよ」
といいながら、作れるようにならなきゃなぁと思った。ひとりで生活していくのなら自炊は必須のはずだ。
思えば、わたしや姉がなにもさせられずに育てられたのは、自活能力を奪うためだったのかもしれない。事実、姉はいまでも何もできないままで、世の中のことをほとんど知らない。わたしもだ。でも、そんなのはもう枷になんかならない。
「すごいなぁ、野田くんは。すごいなぁ。おいしいなぁ、これ」
といいながら食事を食べた。
野田もベッドに腰掛けて同じものを食べていた。
そうして向かい合っていると、彼とわたしが男と女だということが急に重大なことのように思えてきた。
……いや、そんなまさか、異性として意識したとかそんなのじゃない。たしかに恩人だけど、それとこれとはきっぱり分けて考えないと、逆に彼に失礼だ。
だいたい、わたしはこれまで恋愛なんてしたことがなくて、
というか、できる気もまるでしなくて……。
人と仲良くすること自体していなかったし、やっぱりわたしみたいな家の子は、って思ってたし、なにより、
……恋愛がよごれたものに見えてた。
当然だよね。
男と女の関係は、夢みたいなきれいなものよりも、きたないものの方をよく知ってた。すりこみっていうのかな。人は人生ではじめて見たものを自分の中での原点というか基準にしてしまうらしい。わたしは恋愛小説を読むより先に、姉の出演したDVDを観た。幼心にも、それが人の欲望の反映だと理解できた。そして小学校低学年のわたしは結論したんだ。
これが、男女関係の、最終的な結果なんだって。
そんなわたしだから、まさかここで乙女まるだしの気持ちになんてなるわけがなくて、きっとこれからも恋愛なんてできずに人生が終わるんだろうって思ってるけど、彼とふたりきりの今のことを考えると、ふと想像してしまうのだ。
わたしがふつうの境遇だったら、きっと、彼とすごく仲良くなってる……って。
恋人とはまた別だとしても、友達より近い関係に、きっとなっている。
この現状が変われば、ひとつ自由になれる……。
そうしたら、新しい気持ちでわたしは彼と話せるんじゃないかって。
その気持ちって、どんなのだろう。
……きっと、素敵な気持ちにちがいない。
「風呂……とかさ」
「ひえっ!?」
わたしは飛び上がった。
恋愛とか男女の深い関係のことを考えていたわけではなかったのに、顔が急にほてって、胸がどきどきした。
「入りなよ。……その間に、ベッド……、シーツ変えとくから」
「うっ、うんうんうん。ありがとう! 入るよ! って……てててててて、ベッド!? 寝る!? 寝るよね!? そりゃ寝るよ! なにいってんだろわたし! 寝ないつもりかよ!」
「あ、俺は……親の部屋で寝るから」
「ああ! そうそう、ですですですですっ! べつだよね! べつべつべつべつ! あ、べつに、一緒でもいいんだよ!? って、ええっ!? わたしなにいってんだろ! きにしないで!! 本気で! うわわわわわわ!」
彼は、すごい速さで顔を背けた。
その反応もなんかひどいけど、わたしの慌てぶりのほうがひどかった。