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高すぎる天井。
その天井付近まで続く壁の本棚。
野田の部屋のパソコンデスクの前に座って、わたしはぼうっと風景を眺めていた。
「…………あれ」
ふと気づく。
壁に埋め込まれて針だけが露出しているというすごい時計を見やる。時刻は午後九時をまわっている。
「野田くん、親は?」
野田はソファにかけたまま、真剣な顔でスマホを操作していたが、わたしの声に振り返ると、
「この時期は……忙しいから……事務所に泊まり込み。母さんも、父さんの食事とかの世話で……一緒に」
「へえ……」
ふたりきりか。この家に。
泊まるとか泊まらないとか、泊めてとかいいよとか、そういうやりとりはしていないけど、これは泊まる流れ以外のなにものでもなかった。
たぶん彼自身、さっきみたいな目にあって、同級生を泊めるから自分の親に許可を〜みたいな瑣末なことは頭から吹き飛んでる。
「無力」
野田はいった。
さっきからずっといってる言葉だ。
「調べれば……調べるほど……俺たち子供に力はないって……わかる」
ぼそぼそと野田はつづけた。
「大人がつくったこの社会で……力をもつのは大人だ……俺たちは……そうじゃないって大人は否定するけど……結局は大人の所有物だ……。俺は俺の親に所有されていて……問題はないけど……阿左美さんは……」
「そんな、考えてくれなくていいよ、わたしのことなんか」
「この社会のルールは、阿左美さんの親の、味方をしている……。親だっていうだけで……向こうには……強い権利がある。だから……抵抗するためには…………ルールを破らなきゃならない」
「だ、だめだよ!」
わたしは立ち上がった。
「そりゃあ、どうにかしたいけど、……野田くんにそこまで犠牲を払わせるわけにはいかない。助けは……借りたい。けど、いざというときは、わたし一人でやるから」
野田はわたしの目をみてきた。
対して、わたしは逸らしそうになる。
格好だけを気にしていってはみたものの、方法すら思いついていないのが現状なのだ。
「そうだね。……俺にそこまでは、できないかもしれない。……でも……できる限りは……させてほしい」
「……ありがとう」
「この家に……二人でずっと一緒にいられればいいんだけど」
「うん……。……えっ? そっ、それってどういう意味……?」
思わずそういったけど、彼はわたしと違ってなにもひっかかるところはないようで、
「多分、もう何日もすれば親が帰ってくるし、親が事情を知れば……親同士のやりとりになる。阿左美さんは……家に帰ることになる。俺は親のこと……尊敬してるけど……大人はルールの中で生きているから……無力だ。だからそういう意味では……子供だけで……やるしかない」
と、そんなふうに続けた。
子供だけで……わたしだけで、できることをする。
そうだ。わたしはこのままでは売られて、人として死んでしまう。
それは心臓は動いてるけど、意味のない生だ。
姉は……、
ふつうの人だ。
あの、泣きわめいてむりやり連れて行かれた日以来、ずっとふつうの人だ。
「ちひろ、わたし……、誰にもいわないでよ。……漫画家になりたいんだ」
学生のとき、姉はいっていた。
まだ仕事をする前のことだ。
「べつに、うまくはないんだよね。うん、うまくはないんだよ」
といいながら描く姉の絵は、素人目にみてかなり上手かった。
「ただ、変な絵ってよくいわれるんだよね。これ、好きなんだ。褒められてるわけじゃないかもしれないけど、個性っていうか、わたし自身を認められてるみたいで、それが一番うれしい」
そうやって仕上がった変な絵を、ふたりでいじり倒した。
そんなのが、わたしたちの日常で、
十八になった姉は、父の泣き落としにあい、『マネージャー』といっしょに仕事をするようになった。
「ちひろ、わたしの絵さぁ」
それでもしばらくは、ふたりで絵を描く遊びは変わらなかった。
わたしは絵なんて興味なかったし下手なままだったけど、その時間はあいかわらず楽しみだった。
「最近、色気があるっていわれるんだよね。まぁ……まあ、それって、つまり……そういうことなんだけど、ね」
照れながら姉はいう。
姉がどういう仕事をしているのか、おぼろげながらも理解していたわたしは、反応に困って曖昧に笑った。
「漫画家の、フジコさんって知ってる?……しらないか」
わたしの顔をちらりと見て、姉はつづける。
「あの人、若い頃の生活荒れててね。体売ったりとか、普通にしてたんだって。でも、漫画家として成功してさ。……すごいよね」
彼女がその漫画家と自分を重ねているのはあきらかだった。
わたしは幼心にもそれを察して、熱心に相槌をうっていた。
「個性なんだよ、個性……。漫画っていうのはさぁ……。きれいな……少女漫画は……描けなくなっちゃったけど……、わたしにはまだ、個性がある」
そんな彼女が、ある日壊れた。
突然だった。
「もうやだっ!」
「やだよお!」
「これ以上はもう」
「自分が自分じゃなくなってく」
「自分が、いなくなっちゃう」
「わたしは……わたしは、だれかのものじゃない! だれかの欲望を解消する道具じゃない! いやだ! わたしは、わたしのために……」
姉は男たちにおさえつけられ、
抵抗すると殴られ、
気を失ったところで、つれていかれた。
戻ってきた彼女との、お絵かき遊びは、何事もなかったかのように続いていた。
ただ、彼女は一言も喋らず、
なにかをいおうとしても言葉にならず、
その描く絵は、いままでで一番きれいだった。
そして、そのどこからも彼女を感じなかった。
わたしは思った。
姉という一人の人間は死んだ。
ここに残ったのはそのぬけがらだ。
お絵かきの時間はなくなった。わたしがやめようといった。彼女はただ働き、天気やテレビの話をして、たまに買い物にいき、生活するだけの、ふつうの人になった。
わたしは確かに目撃した。人間の、精神の死を。
そしてそれは今、わたしの目前まで迫っている。
これは、生存をかけた戦いだ。
サバイバルだ。
すべてを自分の意思で、
既成概念にとらわれず、
生き残ることを目的に、
行動する。
「野田くん」
彼はうなずいた。
つぎの言葉にもうなずく用意があるというように、わたしを見た。
「お金貸して」
金。
わたしが巻き込まれている問題の中核であり、世の中を、人の生活をまわす重要な存在――金。
わたしは、それを利用することに決めた。




