春乃透子を蝕んだもの
間が空いてしまい申し訳ありません。
読んで頂けることを嬉しく思います。
このような話を書いてはいますが、法の専門家でも、病気の専門家でもありません。少しだけ齧った、経験談を知っているというだけで書いていますので、可笑しな点もあるかも知れませんが、その点はお目こぼし頂ければ嬉しいです。勿論、ご指摘頂ければ、出来るだけは直そうとは思っています。
ねぇ、透子…一つ確かめたいことがあるのだけど。
そう、珍しく言いづらそうに仰られた彰子姉様に、私は何の迷いもなく頷きました。
彰子姉様がそれを問いかけてくるということは、それは私の為になるものだという確信があってのことだということ。前に進む為に必要であるのなら、どんな苦しいことでも、辛いことでも受け入れて乗り越えてみせる。そう決めたのです。彰子姉様の申し出に迷うことなど、ありません。
そして、頷き了承した私が彰子姉様と共に赴いたのは、病院でした。
小さな個人経営の病院に、大学に付属している大きな病院まで。幾つもの病院に、彰子姉様は連れて行ってくださいました。彰子姉様が予想されたそれは、宮成家の刀自や貴一様に突きつけるには、セカンドオピニオンだけでなく幾つかの病院を歩き渡って、診断書を重ねても足りないといえるくらい、重要で大変な病名なのだと、「どうして?」と移動の最中に呟いてしまった私に説いて下さいました。
私が受診したのは、精神科でした。
受けた検査というのも、病院と聞いて想像するような機械での検査ではありませんでした。お医者様と静かな空間で話をして、質問に言葉や字で答えていく。これは本当に関係があるのかしら、と不思議に思えるような事まで話したり、質問されたりしました。不思議なもので、普段ならば言い辛いようなことまで、お優しそうなお医者様の前では、すらすらと答えることが出来てしまいました。
今までの生活の様子。どのような毎日を送っていたのか。色々な事を答えました。
それを聞かれたお医者様達が皆、話を聞けば聞くほど顔を引き攣らせていらっしゃったのが目につきました。看護師さん方の顔からも、受付の際からずっと浮かべていらっしゃった優しい笑顔が消えていました。
それについては彰子姉様が「ごめんなさい」と仰いながら、我慢しきれないと小さく笑われて、私が検査を受けている間に看護師の方に叱られてしまったようです。
-あれが、貴女が普通だと思っていた日常を聞いた人間の、率直な感想よ。普通はお医者様は顔に出したりはしていけない筈なのに、それも守れない程凄いものだってことね。
そう、私は本当に自分の送ってきていた生活が、普通のものだとばかり思っていたのです。幼い頃から続いてきたことですから、それが当たり前で。指示されたことをちゃんと終わらせることが出来ないのは、私が不出来だから。本当は、クラスメートの方々のお誘いに応じて、学校帰りの寄り道などもしてみたかった。でも、それが許される程優秀な皆さんとは違って、そんな時間を作ることも出来ない自分が恥ずかしいと、ずっと思っていました。
ずっと、それを信じていました。
だから、尊敬する彰子姉様に言われても、璃玖の謝りながら言葉にも、何処か納得のいかない、信じきることが出来ないという思いを抱いていました。
でも、お医者様の反応も含めて改めて指摘されて、あぁそうなのか、とストンと胸に落ちたのです。
お医者様に言われて、絵を描きました。
差し出された紙に、『木』を描いて欲しい、と。
言われるがままに描きました。それは、その時は普通に思ったままに描いた『木』の絵でしたが、その後心が落ち着いたように思えた時に思い返し、見返してみると自分が異常な状態にあったのだと思えるものでした。
紙を横断する地面に生えた、小さな木。細く鋭い幹に、凹凸の無く小さくて丸い様子に描かれた生い茂ると表現するのも躊躇われる葉の部分。
全てのバランスが悪く、落ち着いた状態で見ると不気味で歪な絵でした。
-大丈夫よ。すぐに、普通の『木』が生えてくるわ。大丈夫、大丈夫。絵心はあるんだから。
-彰子は透子とは違って、絵心が全く無いからな。
-黙って下さらない、お兄様?絵なんて描けなくても死にません。
自分の描いた絵の前で呆然としていた私を、彰子姉様と晃お兄様が慰めて下さいました。
「…『適応障害』?なんだ、これは?」
その病名は、ある方の名前と共に、この数年何度も何度もニュースに登場しています。
けれど、貴一様も詳しくは知らなかったようです。
「娘が受けた診断です。まさか、と思い何軒もの病院に掛かり、その全てで同じ診断が下りました。まったく、娘の異変にも気づいてやれず、情けない、恥ずかしい父親ですよ、私は。」
私に下されたのは、『適応障害』という診断でした。
その診断を聞いて、やっぱりと納得の声を上げられた彰子姉様に、それがどのような病気なのか説明して頂きました。自分が病気なんて、という思いでクルクルと頭が回ってしまった私の代わりに、お医者様の話を聞いて下さいました。そして、家でお父様や璃玖に説明してくれるという役目も負ってくださいました。
『適応障害』は、ストレスが原因で起こる病気なのだそうです。
日常の生活に上手く適応出来なくなる、というものらしいのですが、それを聞いてもあまり自分に当て嵌めて考えることは出来ません。自分が可笑しい状態にあるのだとは理解出来ても、その『適応障害』というものにどうして自分が当て嵌まるのか、が解らなかったのです。
ですが、誰よりも私の事を見ていてくれた璃玖が、ごめんと謝りながら言うのです。『適応障害』となってしまった場合に見受けられる症状、と書かれている紙を握り締めて、辛そうに言うのです。
この項目はあの時に姉さんがしたよ。この項目は、こういう事でしょ。
そう、とうの本人である私でさえ忘れている、私の学園での行動に当て嵌めて、確かにそうだったと言うのです。
ほんの僅かなことで泣いたことも、怒鳴り散らしたことも、手を上げたことも。
体に覚えた気怠るさも、頭痛も、眠ることが出来ない日々も、璃玖に知られているとは思っていなかったことまで、当てはまっているね、と璃玖は起伏の無い絞り出したような声で言いました。
そういえば、学校の人目の少ないお手洗いに駆け込んで吐いてしまった日、宮成の家から帰ると食べやすいものが用意されていました。あれは、それを知っていた璃玖がそう頼んでいてくれたから?
私よりも『適応障害』という症状について、理解を示す璃玖の後悔を滲ませる優しい姿に、申し訳なさと共に嬉しいと感じてしまうなんて。でも、そんな思いが不謹慎だとは思っても止まることはなく、多分それは顔にも出てしまっていたと思います。
「いいえ、春乃さん。それを言うのならば、恥じなくてはいけないのは、私共の方です。」
演技ではなく、本当に悔やんでいる。そうと誰が見ても分かるお父様に、小父様が顔が歪ませ、横に何度も首を振ってみせました。
「我が家の方からどうしてもと、大切なお嬢さんをお預かりさせて頂いておりましたのに、このような事態を起こしてしまった。『適応障害』というのは、ストレスの源となっていう環境や事態に直面していない場合では症状が治まるものだと、こちらの説明に書いてあります。ならば、気づかなくてはいけなかったのは、私達こそです。」
小父様が仰ったように、『適応障害』という病気は、環境や出来事にストレスを感じて、それに適応出来なくなることで症状が出るそうです。
実をいうと、今も少しだけ、息苦しさを感じ、耳の奥にバクバクと早なる鼓動が響きます。宮成の屋敷に入ってからずっと感じている不快感。
でも、これは何時ものことで。甘え、なのだと思っていました。不甲斐ない自分が出来ないことから逃げ出そうという思いが生み出している、仮病のようなものだと。ずっと、そう思っていました。だって、家に帰れば治るのです。学校でもそうなってしまうこともありましたが、それもすぐに治まったのです。だから、ただの弱さなのだと思っていました。
でも、そうではないのだと、何人ものお医者様が仰って下さいました。
これは『適応障害』という病気の症状、もう頑張らなくていいのだと、限界を迎えた身体と心が合図を出しているのだと、仰って下さいました。
『適応障害』は"誰がなってもおかしくない病気"で"大変な思いをしたくないからと甘えているわけではなく"、むしろ"甘えてはいけないと頑張りすぎてしまう"せいでなってしまう病気。
透子は真面目過ぎたのよ、と彰子姉様も仰いました。
「そうだよ。反省すべきなのは父さんよりも僕だ。学校での様子を見ていたのに、それを見過ごして何もしなかった僕が、馬鹿だったんだ。」
静観なんて決め込まずに動いていたら、と璃玖は何度も何度も謝ってくれました。
-そうね。でも、本当に悪いのは、頑張りすぎた透子でもなく、見過ごした璃玖でもなく、そこまで透子を気遣うこともなく追い詰めた人間達でしょう?それに貴方よりももっと、この事に気づけた人間がいるじゃない。物心ついた頃から近しい付き合いがあって、宮成の家内の様子も学校内の様子も知り得ることが出来た、そして止める事も可能だったお馬鹿さんが。
彰子姉様がそう口を挟んでくれなければ、璃玖はずっと診断書を手にしたままだったかも知れません。
そう、今の貴一様のように…。
でも、診断書と私を、厳しい目で交互に見る貴一様の顔に浮かぶそれは、璃玖には無かったものです。
怖い、と胸が苦しくなります。
「私共がもっとしっかりと、仕事の忙しさにかまけてばかりではなく家内にもしっかりと目を向けていれば、透子さんの様子の変化を気づくことが出来た筈です。義母の様子にも気づくことも可能だったのです。」
誠に申し訳御座いませんでした。
小父様と小母様がまた、頭を下げました。
そして、診断書を睨みつけていた貴一様の頭もまた、小母様によって押さえつけられるように、床へと沈みました。
義母。婿養子として宮成に入られ、先代亡き後に当主となられた小父様にとってそれは、清花刀自のこと。
貴一様が会場を後にして小母様と共に家に帰ってこられたのは、祖母である清花刀自が倒れた、という理由。この場に姿が無く、そして気配さえも感じられない彼女は、一体何処に居るのでしょうか。ただの表向きの理由としてのそれとばかり思っていましたが、まさか本当に御倒れになったという事なのか。
宮成家のことは自分が取り締まらなければ、とその威光を宮成の屋敷の隅々まで、宮成の名に連なる方々の末端まで轟かせていらっしゃった清花刀自がこの場に姿を見せていない理由など、本当に御倒れになったとしか思いつきません。
「御祖母様は御倒れになったと…」
「えぇ、今回の事態によって、あの人は倒れてしまったの。今は、奥の離れでお休みになって貰っています。」
小母様の手を払い顔を上げた貴一様も、私と同じことを思ったのでしょう。清花刀自の居場所を問いました。
信頼出来る人を付けてあるから、こちらの事など気にすることもなく休めているだろう。
そう口にした小母様の目が鋭く光り、直視することは出来ない、敷地の奥にある小さな滅多に使う方が居なかった"奥の離れ"と呼ばれる建物がある方角に視線を向けました。
「本当に、もっと家内に目を光らせておけば良かった、と悔いております。そうすれば、母の病にも気づくことが出来たでしょうに。」
「病?」
最後にお会いした際には、とてもお元気そうな、何時もと変わらない御姿でしたのに。
それに、清花刀自に何か異変があったのなら、貴一様や最近お付き合いが頻繁にあったという沙希様がお気づきになれる筈ですのに。
貴一様も驚いている様子を見れば、小母様の言葉は貴一様にも意外なものだったのだと思います。
「お医者様が診断してくれました。『認知症』ですって。それが透子ちゃんに対して言い訳にもならないとは重々分かっていますけど、あの人の透子ちゃんに対する常識外れな行いも、今回の一連の可笑しな行動と言動も、それが原因であると考えれば、少しは心を落ち着けることも出来るわ。」
決して、それを言い訳に馬鹿な主張もしないし、私や春乃家に対して足を向けて寝るような真似はしない。そうご夫婦で宣言して下さったお二人の顔と、その目には、"心を落ち着けることが出来る"という言葉とは裏腹に、怖いくらいに強く、険しい光を放っていました。
「御祖母様が『認知症』!?」
そんな馬鹿なことがあるものか、と貴一様が叫びました。
「御祖母様にそんな様子は無かった!俺とも、沙希とも、しっかりと会話出来ていたし、可笑しな行動を取ったことだって無い!家に帰っても来ない人間が、勝手なことを…」
「そう。"お医者様が判断を下され、正式な診断として宣言して"下さったのよ?お前は、専門家である医者の判断に間違いがあるとでも、言うつもりなの?」
「そう。透子と同じ様に、医者による診断を受けてそう診断が下ったのなら、信じて対処するしかありませんね。この場に居る俺達の誰一人として、その診断を覆すだけの知識も経験も無いのですから。」
これまで口を挟むことなかった晃お兄様が、冷たい声で貴一様の反論を抑え込む小母様の言葉に、場違いにも思える様なにこやかな声を上げました。
「話は中断していましたが、宮成清花さんの成年後見人制度の利用についての申立書の作成などは、当方に任せて頂けるということでよろしかったでしょうか?」
「えぇ、勿論よ。前橋さんなら、安心してお任せ出来るわ。費用の程が如何様になるかなんて、素人には分かりませんから、後程請求して下さいね。」
「戸籍謄本に登記事項証明書、それと今回の診断書が必要ですから、また後日受け取りにまいりますので、御用意下さい。成年後見人は、奥様でよろしかったでしょうか。」
「結構です。よろしくお願いしますわね、前橋さん。」
「成年後見人?」
って何、と璃玖の小さな声が、お父様に向かいました。聞き慣れない言葉に私も思っていたことなので、私もお父様に目を向けました。
「正常な判断が出来ないと意思に判断された人の代わりに、財産や不動産の管理や福祉サービスの申し込みをする事を、法的に任される事だ。刀自が自分名義の不動産や財産を使おうとしても、それを止める事、結んでしまった契約ならば破棄する事が出来る権利を得られる、簡単に言えばそういうことだよ。」
「先代が突然亡くなってしまった際に、色々と手違いと混乱で、母の名義になった財産がそれは多くてね。お恥ずかしい話ですけど、その後も色々とあって、それらがまだ母の名義のままでした。それらが不当な用途に扱われない為にも、今後は私がしっかりと管理させて貰いますわ。」
宮成が代々受け継ぎ、築き上げてきたものですもの、宮成の為になる用途にしか使わず、しっかりと管理してみせましょう。
小母様の力強く宣言しました。
「あっ、そうだわ。透子ちゃん。こんな事を貴女に頼むのは恥知らずと言われてもしょうがないと分かっているのだけど、ちゃんと話しておかないといけない事だから。」
頼みがあるのだと、小母様が仰いました。
「頼み、ですか?」
なんでしょうか、と答えながらも不安を覚え、チラリとお父様や晃お兄様に目を向ければ、二人は笑って頷いていました。晃お兄様に至っては、座卓の影に隠れる場所で親指を立てて、その顔では片目を瞑ってみせました。
その二人の反応によって、これもまた先に話し合って決まっていたことなのだと、不安を消すことが出来ました。
「祖父が、つまり婚約を決めた先々代が、貴女に残した財産があるの。それは、嫁である立場にある母曰く、宮成の嫁がしっかりと管理していくもの、だそうなのよ。だから申し訳ないのだけれど、こうなってしまっては透子ちゃんではなく、川添沙希さんが受け継ぐべき、でしょう?」
「え、あ、はい。」
「だから、貴女からそれらを宮成が買い取りたいと思っているの。お願い出来るかしら?ちゃんと、専門家も交えて時価で、いいえ、言い値で買い取らせてもらうから。」
「そういうことで、透子。これに署名と捺印。すでに、保護者である叔父さんのはしてあるから。」
座卓の上に晃お兄様が置いたのは、数枚の書類。
その一つには、宮成の曾御祖父様が作成されたという、私が相続するのだという財産の目録がありました。
そこには、覚えのある名前ばかりが並んでいました。
別邸に保管されている、宮成家の宝とも言える、古美術の品々の名前。手に触れて扱うだけで恐ろしさを感じて震えてしまった、大皿の名前もあります。掛け軸の名も、茶器の名も、ずらりと並ぶその名の数々は全て覚えのあるものでした。
「ちょっと待ってよ。相続する、ってどういうこと?先々代はもう亡くなってるんだから、もう姉さんが相続しているんじゃないの?」
「先々代は、春乃との縁談という念願がついに叶うと少しはっちゃけちゃってしまってね。」
こうなってしまうと分かっていたら、迷惑だって殴ってでも止めれば良かったわよね。
全くです、と小母様の呟きに璃玖がはっきりと、それでも一応潜めた声で答えました。璃玖、と注意しましたが、当然の思いです、と聞き入れてはくれません。それどころか、そういう思いをこれからはちゃんと口に出してください、という注意を受けてしまいました。
「これらを、ある条件をつけて透子ちゃんに相続させるんだって、遺言信託という方法をとって亡くなったの。」
「条件、ですか?」
「えぇ、そうなの。その条件というのが…」
迷惑な、面倒臭い事を、という呟きが全員(若干一名は除きますが)の溜息と共に吐き捨てられました。
親衛隊の小話は移動しました。
はぅ、なシーンがある話の後書きに御座います。
次回更新は、あまりお待たせはしないと誓います!
次回は、宮成家の決断の本丸となります。




