第七章 近衛騎士だった男
ユリウスは赤い山羊亭という安酒場に通うようになった。
床には古い酒の染みがあり、椅子はどれも軋み、昼から酔いつぶれている男も珍しくない。
そこでは、彼の過去を知らない者が多かった。
だから自分から話した。
「昔は近衛だった」
初めて聞いた女給マルタは目を丸くした。
「本当に?」
「ああ。陛下の警護にも立った」
「すごいじゃない」
その一言が嬉しかった。
久しく誰からも聞かなかった。
侯爵家三男。
近衛騎士。
若く、剣が強く、女たちから好かれていた。
それが自分だった。
少なくとも、そう信じていた。
マルタは彼を持ち上げた。
「昔の話をもっと聞かせて」
ユリウスは通うようになった。
やがて店の外でも会うようになった。
セシリアが知ったのは、彼の上着から女物の香油の匂いがしたからだった。
「誰なの」
「何が」
「女よ」
「知らない」
「嘘」
セシリアは笑った。
乾いた笑いだった。
「おかしいわね」
「何がだ」
「私たちもこうして始まったのよ」
ユリウスの顔が歪む。
「アルフォンスに隠れて会って、あなたが私を褒めて」
「黙れ」
「今度は私が邪魔なの?」
「黙れと言っている」
「私のために全部捨てるって言ったでしょう!」
ユリウスが立ち上がった。
「捨てたんじゃない!」
狭い部屋に怒声が響いた。
「捨てさせられたんだ! お前のせいで!」
「私のせい?」
「俺は近衛だった! 侯爵家の息子だった! それが今じゃ、お前がどこで稼いだかも分からない金で飯を食っている!」
「その金で酒を飲んでいるのは誰よ!」
「お前さえいなければ!」
二人は黙った。
かつて二人でアルフォンスを邪魔者と呼んだ。
今は互いを邪魔だと思っている。
しかし別れれば、過去の訴えが再審理される可能性がある。
それが怖かった。
◇
グランフェルト公爵邸。
ヴィルヘルムは息子の前に一冊の報告書を置いた。
「二人はかなり落ちたそうだ」
アルフォンスは一度だけ目を通した。
「そうですか」
「ユリウスは酒場の女と関係を持っている」
「私には関係ありません」
「セシリアは夜の店に入った」
アルフォンスの指が一瞬だけ止まった。
それを父は見逃さなかった。
「お前が望んだ結果か?」
アルフォンスは答えるまでに少し時間を使った。
「最初は」
「最初は?」
「あの二人を潰したいと思っていました」
正直だった。
「ですが、何もする必要がありませんでした」
「だから見ているだけか」
「はい」
「止めることもできる」
アルフォンスは父を見る。
「なぜ私が?」
「昔、愛した女だ」
長い沈黙が落ちる。
「愛していました」
過去形だった。
「なら」
「だからこそです」
アルフォンスは視線を落とした。
「父上。私は今でも、十歳の頃のセシリアを覚えています」
歪な花冠。
小さな手。
『アルフォンスはつまらなくなんかないのに』
「あの少女を愛していました」
「……」
「だから、今の彼女を助けることができません」
「同じ人間だ」
「私には、もう同じ人間には見えない」
ヴィルヘルムはそれ以上何も言わなかった。
机の隅には、木彫りの馬がまだ残されていた。




