表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

第四話

次の日から、おれは気付くと権田原さんを目で追うようになっていた。


もちろん、あまりにも視線を向けていると周りに気付かれて揶揄われるかもしれないと分かっているのでそれとなく、だ。


理由は分からない。あのちらしの作者が権田原さんと分かったからか、エビフライコッペを大口あけて幸せそうに食べていたからか、自分に笑いかけてくれたからか、理由は本当にわからない。


権田原さんはクラスメイトと話すこともあるが、基本的に休み時間は自分の席に座りどこか虚空を見つめながらぼーっとしている。そして、ふとしたときにスケッチブックに何かを描きつけている。その時は彼女の神聖な時間だと思い、おれはあまり話しかけないようにしている。本当は何を描いているのか訊きに行きたいが、その衝動を抑え込んで無理やり長崎くんや増島くんにどうでもいいことを話しかけている。二人を不埒な感情を霧散させる媒体にしているのが酷く申し訳なく思えてくる。


「あ、そうだ、俺は今日にでも入部届出してくるつもりだけど、二人はどうする?」


長崎くんがそう言いだした。


何日か前に放課後三人で陸上部を見学しに行った。おれたち以外、10数名見学しに来ていたが、仮入部で新入生は皆400メートルを走ってみることになった。正直、中学の時に陸上部で県大会までは出場したことがあったが、それまでで、高みを目指せるよう日頃からあまり走りこんでいなかった。


走るとはいっても、土日の早朝に数キロ軽く走るくらいであらためて自分の速さと向き合うことを忘れていた。


長崎くんは短距離、増島くんは長距離をメインで中学時代にやっていたそうだ。


クラウチングスタートで重心を前に掛ける。地面がぐらぐらと揺れているようだ。それくらいの緊張感が押し寄せる。重力を使用して倒れこむようにスタートする、おれは低い姿勢をキープしながらひたすらに前を見据えて手足を動かした。


全速力で誰かと並んで走るのは久々だった。手足を動かして前に進んでいるはずなのに、今おれの足は本当に付いていてきちんと動いているのか感覚がなくなってくる。だけど、体全身に風がぶつかり、加速しているのが分かる。


おれは今、どこにいる?


5人ずつで走っていたが、おれはどうやら2位着だったらしい。汗を腕で拭う、見覚えのない同じ1年の男子がちらり、とこちらを見た。


「1位は3組の寺塚くん。すごい、53秒台!トップクラスの速さだよ!」


耳の下で二つ結びにした先輩がストップウォッチ片手にそう叫んだ。


「2位は、1組の多田くんだね。54秒43。寺塚くんも多田くんも中学時代に陸上やってた?県大会レベルだよ」


「はい、おれは短距離をやっていました。あまり、いい成績を残せなかったんですけど」


おれはおそるおそるそう話すと、1位の寺塚くんはふうっと息を吐いて


「俺は、二年の始めくらいに陸上やめました。部活の中で嫌がらせを受けてうんざりしたんで。今日も仮入部というか湊浜の陸上部がどんな感じか見に来ただけなんで。陸上辞めた人間が1位だなんて、今後の見込みが薄いなぁと思いました。あと、全国レベルに通用するなら46から47秒くらいは叩き出さないと、難しいですよね」


さらっとそんなことをのたまった。


その瞬間、2年の先輩たちも同じ1年もどこかぴりっとした緊張感が走った。明らかに好意的な視線を向けられていないのに、寺塚と呼ばれた男子はタオルで額を拭ってふうっと息を吐いた。そして、余計なお世話なのかもしれないが、この他人を見下すような態度で中学時代を過ごしていたのならば部活内でいじめの標的になってもおかしくないのかも、とも思ってしまった。


彼自身が、部活内の雰囲気を意図的ではないとしても悪くしていたという自覚を持たない以上、団体競技に籍を置くのは難しいだろう。これから高校時代、部活で切磋琢磨をしてタイムを上げていったとしても。


周りの空気を察したのか、声を掛けてくれた女性の先輩はそれ以上寺塚くんを勧誘することはしなかった。他の1年生のところへまわって、色々とアドバイスをしているようだ。


一度走って満足したのか、寺塚くんはそのままバッグを担いで帰ってしまった。


おれは自然と彼の背中を目で追っていた。もう彼はこの陸上部には来ないだろう。だけど、もうちょっと一緒に走ってみたかった。


そんな数日前のことを思い出していると、「おーい、多田くん、訊いてる?」と長崎くんに声を掛けられた。


「あ、ごめん、入部届のことだよね。そうだなぁ、おれも出しに行こうかな」


「よっしゃ、多田くんめっちゃ速かったもんな。俺ももっと走りこんで好成績残すようにしないと」


「俺はごめん、ちょっと悩んでいるかも」


増島くんの言葉に「えー!?」と長崎くんが残念そうに声を上げた。


「この前は400だけだったけど、話聞いてると長距離も凄い先輩ばっかりでさ、頑張っても埋もれるばっかりで大会さえ出られるのも怪しいし」


「いやいや、大丈夫だって。まだ俺たち、始まってさえいないじゃん」


「いや、俺さ、実は中学時代に長距離やってはいたけれどほぼ補欠で地区予選すらも予選落ちだったんだよ。多田くんみたいに、スタートから有望じゃないっていうか。この前の走り見て、ちょっと自信なくしちゃって。ごめん。もうちょっと俺は考えてみるわ」


えへへ、とどこか道化のように笑う増島くんに、俺の心の中をちりっとした痛みが走る。おれも、別に速いわけじゃない。あの日はたまたま翼が生えたように体が軽かっただけで、中学の大事な大会の時もゴールを見据えるのが怖くて、体が緊張で縮こまり、いつものように風を切って走れることがあまりなかった。


上手く行く時と上手くいかない時の落差が激しすぎて、応援してくれる先輩方の表情が落胆に暗むのをずっと見てきた。


だけど、高校ではその落差を埋めたい。常に翼を生やして、風とと共にゴールまで突っ切りたい。自分の奥深くに沈む昏い気持ちと向き合って、常に良いコンディションで走り抜きたい。


劇的な気持ちの変化があったのは、今も壁に飾ってある彼女の絵があったから。受験の燻った気持ちもあったけれど、昏い海に浮かぶゴンドラに乗り続けていたら、おれは昏い海が世界のすべてだと思っていたはずだ。世界は、こんな暗闇ばかりが広がっているわけではない。必ず、この事態を打開する光があるはずなのだから。


そして、その光は待っているだけでは差し込んでは来ない。自分から光の世界へ飛び込めるよう、気持ちを切り替えて新たなものにしていかなければならない。


自分勝手な解釈かもしれないが、おれはそんな教訓をあの絵から貰った。


だから、高校でも陸上を続けて、ずっと平坦だった自分の気持ちを少しでも上に向けられるよう挑戦したい。


そう思わせてくれるようになった。




彼らと別れ、おれは昇降口に向かった。秋人は先日のことなど何もなかったかのように普通に接してきたが、どこか明るさの中にふっと何かを考える仕草を挟むようになった。だけど、そのことに関して、おれは一切口を挟まないようにしている。友人とはいえ、すべて土足で入り込んではいいとは思っていないからだ。パーソナルスペースみたいなものは誰だって必要としていて、おれはそこから黙って俯瞰するようにしている。


秋人は部活に入るつもりはないようで、今日は流石に一人で先に帰ったようだ。昇降口に向かう途中に、煌々と光が廊下に漏れている教室があった。覗いてみると、キャンバスに向かい合って黙々と絵を描いている権田原さんがいた。会いたかった人に会えて、思わず「権田原さん」と声に出してしまった。


彼女の神聖な時間を汚してはいけないと今日誓ったばかりだったのに、思いがけなく大きな声が出てしまい、おれは口を手で覆った。


だけど、彼女におれの声は届いていなかったようだ。ただひたすらにキャンバスに向かい合っている。教室を見ると、そこは美術室だった。なるほど、彼女は美術部に入ったのか。納得しながらゆっくりと教室に入ると、どこかつんっとした臭いが鼻を突いた。臭いの元が分からずあたりをきょろきょろしていると、「油絵の臭いはちょっと独独かもな」と声を掛けられ、びっくりして後ろへ後ずさった。


権田原さんはふふっとどこか楽し気に笑いながらこちらを見上げている。


「こっそりと入ってくるなんて良くないな。私は絵に集中しすぎるとまこっちゃんの呼ぶ声も判断できなくなるんだ」


筆をくりくりと回しながらそう話す彼女は、何故か色などついていないのに極彩色の光を帯びている。おれの彼女フィルターが勝手にそうさせているのかもしれない。


「いちを、名前を呼んだんだけどね」


おれがそう言うと彼女はきょとん、とした表情をし、「それは悪かったな」と何の悪びれもせず言い放った。


「権田原さん、美術部に入ったんだね」


「もちろん、湊浜の美術部に入るために湊浜に入ったといっても過言ではないぞ」


「誰か、先輩に知り合いとかいるの?」


おれがそう聞くと、少し権田原さんは慌てたような表情をした。


「うん、中学の時に絵の指導をしてくれた先輩がこの美術部にいるんだ。また先輩と一緒に絵が描きたくて、追いかけてきた」


少し嬉しそうにそう話す彼女に、おれは少し心がもやっとするのを感じた。


「その先輩って……」


「ごんちゃーん、お待たせー」


教室の入り口を見ると、ふわっとした栗色の髪を背中あたりまで流した女子が立っていた。


「あれれ、ごめーん、知り合い?お腹空きすぎて購買部行ってきたんだけど、肉まんが2つしか残ってなかったんだよねぇ。がっくしー」


いちいち語尾に顔マークが付きそうな独特の喋り方をする人だ。


「喜久乃先輩、ありがとうございます。私の肉まんを多田くんと半分個するので、問題ないです」


「え、おれはいいよ。もう帰るし」


「そんなこと言わずー私は彼ピが待っているから帰るところだし。女の子一人で夜道は危ないから一緒に帰ってあげてねーんじゃ、ごんちゃん、また明日ねーばいびー」


肉まんを一つ権田原さんに渡すと、喜久乃先輩と呼ばれた人は額で人差し指を構えて去っていった。キャラが濃すぎてどう反応すればいいのか一瞬迷ったが、とりあえず「肉まん、ありがとうございます」とお礼を言った。


「―――もしかして、あの人が憧れの先輩?」


「うん、有瀬喜久乃先輩だ。喜久乃先輩の絵は本当に素晴らしいんだ。題材もさることながら、躍動感臨場感、すべての筆致が神がかっているんだ」


修道女のように祈りをささげるような格好でうっとりとする権田原さんに、おれは「そうなんだ」と返事をするしかなかった。


「5月に春の展覧会が近辺の高校の美術部が集まって行われるんだ。それに向けて、私も急ピッチで作品を描き始めている。だけどな、ちょっと描きたいものが違うというか、軸がぶれているというか、何か齟齬を感じて仕方ないんだ」


権田原さんは筆を握りながら考え込んでしまった。


「テーマとかは何か決まっているの?」


「テーマがあるものと、テーマがないので今回は分けられている。私はテーマがないので描こうと思っているんだが、なかなかこれだというものに出会えなくて……」


今となると何故そんなことを提案してしまったのか不思議になるが、でもその提案をしていなければおれたちの関係性が変わることはなかったのかもしれない。


「あのさ、もしよかったらだけど、今度の土日どっちかにそのテーマを探すのを手伝おうか?」


「探すのを、手伝う?」


言葉の意図が分からず、権田原さんは首を傾げた。


「公園とか、動物園とか、植物園とか……テーマが見つかりそうなところに、おれと出掛けない、ってこと、なんだけど」


言ってみて気が付いた。


もしかしてこれは、相手にとってはデートのお誘いだと思われるのかもしれない。そう思われてしまったらどうしよう。思われてもいいのか、いや、だけどまだただのクラスメイトだし、一緒に公園でパンを食べただけの関係で、それ以上の関係はまだなにも。


まだ、何も。


権田原さんは一気にぱあっと表情を変えた。


「いいのか!多田くん。私と一緒に、絵のテーマを探してくれるのか!」


彼女は、そんな邪推を一切しなかった。心の隅っこで少しだけ落ち込んだが、「おれでよければ」と返事をした。


「ありがとう!凄く、嬉しい!」


権田原さんに両手を掴まれ、全身全霊で感謝された。その後で、「あ、絵具!」と慌てたように手を放した。彼女は平身低頭したが、おれは全く構わなかった。おれの手に、オレンジや赤の油絵の具がべっとりと付いていて、その汚れや臭いは洗っても洗ってもなかなか落ちなかったが、権田原さんとの他人の知らない見えない絆のようで、家に帰ってからもそのにやけが口元からなかなか抜けることはなかった。


その気持ち悪さに、桜良からしばらくの間遠巻きにされていたことは、言うまでもない。



少し関係性が進んだかな、と思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ