眠れぬ夜のブランデー
失敗した魔宝石を作ったあとも、ずっと魔宝石についてラチイさんから話を聞いていたら、あっという間に一日が終わってしまった。
すっかり日も暮れた頃、夕食をいただいて、お風呂にも入って充実した一日の最後。
「ラチイさん、おやすみなさーい」
「はい、おやすみなさい」
スマホの時計を見れば寝るにはちょっと早い気がしたけど、明日は早起きをして森に行く予定なので、私はラチイさんとおやすみの挨拶を交わして部屋に引っ込んだ。
お父さんとお母さんにもおやすみメールを入れて、と。一応、約束だからね!
いつものようにスマホでネットサーフィンしようかなぁと思ったけど、明日も早いことを思い出してやめておく。スマホを放り出して、ベッドに潜りこんだ。
しばらく目をつむって、暗闇の世界でじっとする。
ごろり。
ごろごろ。
もぞりこ。
「……眠れなーい!」
ガバッと身を起こす。
目をつむってるのに、全然眠気がやってこない!
これはよろしくない! よろしくないよ! 明日早いのに!
やる気を起こして寝ようとしても、目が冴えてしまってるから寝つけない。
月明かりだけの部屋の中でごろごろとしていれば、ふいに部屋の外からガチャッと音がした。
それから少しだけ木の軋む音。
ラチイさんかな?
おやすみの挨拶をして、同じように自室に入っていったはずのラチイさんだけど、ラチイさんもまだ、起きているっぽい? ラチイさんも寝つけないのかな?
そわそわと考え出せば、さらに眠気が遠のいて。
結局。
「……」
キィ……と、静かに扉を開けて、私も廊下に出る。
そろそろと廊下を歩いて階段のところまで行くけれど、階下の部屋には明かりはなくて。
奥の工房かな?
明かりがないので、足を踏み外さないようにゆっくりと階段を降りる。
そっと大窓のある部屋を覗けば、暗い部屋の中に、銀の輝きが見えて。
それが、グラスを片手にソファーに座って、何か考え事をしているラチイさんの姿だと気がついたのは、琥珀の瞳がまっすぐに私を捉えてからだった。
「……智華さん?」
「えっ、あっ、はいっ! 智華です!」
声をかけられたのにびっくりして、つい意味もなく敬礼をしてしまう。
ラチイさんはくすりと笑うと、ソファーのスペースを空けるようにちょっとだけ横にずれた。
「どうしましたか? 何か忘れ物でも?」
「えぇっと……いや、まぁ。ただ単に眠れなくてね?」
「寝心地、悪かったですか?」
「いや、そういうんじゃないよ! ただ普通に、なんだか落ち着かないだけで……っ!」
顔の前でパタパタと手をふりながら、否定しておく。ベッドの寝心地は抜群だと思うよ!
「そういうラチイさんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「俺は……まぁ、智華さんと同じです。寝つけなくて」
ラチイさんが頬をかきながら、少しだけ笑う。
いつもの笑顔なんだけど……なんだかその笑顔が、今はちょっとだけいつもと違う気がした。
「……ラチイさん、元気ない?」
「どうしてそう思うんですか?」
「なんとなく」
ラチイさんの座っているソファーに歩みよりながら答えれば、ラチイさんの目がお月様みたいにまん丸になる。それからへにゃりと眉尻を下げて、手に持つグラスへと視線を落とした。
「……貴女って人は本当に」
「ラチイさん?」
「いえ、何でも。こちらにどうぞ。眠れないなら、ホットミルクでも淹れましょうか」
ラチイさんが小さく何かを呟いた。うまく聞き取れなくて聞き返すけど、ラチイさんははぐらかすようにグラスをテーブルに置いて、キッチンのほうへと向かってしまった。
暗い部屋の中にぼんやりと赤色が灯る。
炎のように揺らめかない、赤い熱。
ラチイさんがミルクを淹れたマグカップを魔法陣の中に置いて。
ミルクが温まるまで、私も、ラチイさんも、お互い言葉を発さなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
ラチイさんからマグカップを受け取って、二人でソファーに座る。
ラチイさんはテーブルに置いていたグラスをもう一度手に取った。
「ラチイさんが飲んでるのは何?」
「ブランデーですよ。お酒なので智華さんは飲んじゃいけません」
カランコロンとグラスの中の氷を鳴らして、ラチイさんはくすりと笑った。
むぅっ、子供扱い!
「お酒なんて飲んで、明日早起きができなくても知らないからね!」
「そんなに飲みませんよ。グラス半分をゆっくり味わうくらいがちょうどいいんです」
ラチイさんがグラスを傾ければ、氷がグラスとぶつかってカランと涼しげな音を立てて、ほんの少しだけブランデーのかさが減る。
グラスに口づけるたびに、ラチイさんの琥珀の瞳が、蜂蜜のようにとろりと溶けた。
月明かりの中、夜闇にとけてお酒を飲む、憂いを帯びた男の人の顔。別にそれがどうしたって感じなんだけど、なんだか、ちょっと……うん。
宝石を前にした時のように、心臓がとくとくと早鐘を打つ。でも、宝石を前にした時よりもずっと優しく心臓が鳴っている。
いつも見ているラチイさんとは、違う表情の人。
なんだかおやすみを言ったあとの一人の時間よりも、もっと落ち着かない。
「そういえば智華さん」
「へっ? あっ、なに?」
ぼんやりしていたら、ラチイさんが話しかけてきた。思わず上ずった声で返事をすれば、ラチイさんがくすりと笑う。
「ご両親にメールはされましたか?」
「う、うん。したよ? さっき部屋に入ったあとで」
「そうですか。俺が言うのも変ですが、ご両親にご心配だけはかけないようにしてくださいね」
「まぁ、それは当然……」
今回のお泊まりに関しては最初こそなんだかんだ言われたけどさ、でもちゃんと心配はかけないようにメールのこととか他にも色々約束したから大丈夫だと思うんだけど……。
「………もしかして、渡した手紙に何か変なことでも書いてあった?」
「変なことなんて何も。まぁ、普通の社交辞令でしたよ」
「うっそだぁ! お父さんとお母さんだよ!? 絶対何か変なこと書いてる!」
まともそうに見えて変なところがある両親だからね!? なんか頓珍漢なことの一つや二つ、書いてるよ絶対!
私が力一杯否定すれば、ラチイさんが肩を震わせて笑った。
「なんで笑うのさ!?」
「いえ、智華さんはご両親と大変仲が良いのだなと思いまして」
「だからって笑われる意味が分からないよ!?」
「十分微笑ましいですよ。……羨ましいくらいに」
カラン、と氷とグラスがぶつかる音が響く。
羨ましいと言ったラチイさんの表情が、また一瞬、憂いを帯びて。
それに気づいてしまった私は、どうしてか、つるりと言葉がすべり出た。
「羨ましいって、どうして? ラチイさんは両親と仲が悪いの?」
ラチイさんの動きが止まる。
無言の間。
あっ……。もしかしてこれは、触れちゃいけない話題だった?
それまで話しが続いていたはずなのに、パタリと会話が途切れてしまった。
かといってどうやって言葉を繋げば良いか分からなくて、私もだんまりをしていると、大窓から差し込む月明かりが段々と絞られていき――月が、陰った。
さっきまで見えていたラチイさんの表情が、見えなくなる。でも真っ暗でもうすらと輝く銀の髪と琥珀の瞳が、ラチイさんとの距離をぼんやりと教えてくれて。
近くとも、遠くに見えるようなラチイさんが、小さく言葉を紡いだ。
「優しい人たちでしたよ。俺のことをいつも大切にしてくれて。仲もよかった。すごく普通の、良い家族でした。でも、俺が…………」
そよ風にカーテンがたなびくように、ゆっくりと月明かりが再び部屋へと差し込む。
月光の影で、困ったように淡く微笑むと、声にならない声で、ラチイさんは小さく唇を動かす。
だけどその声が、私に届くことはなかった。
「……? ラチイさん、今、なんて」
「……いいえ、なんでもありません。ほら、智華さん。早く寝ないと明日に支障をきたしますよ」
あからさまに話題を変えたラチイさん。
釈然としないけど、でも、ラチイさんが話したくないのなら仕方ない。
私はラチイさんが塞き止めた言葉を気にしないふりで、手慰みにマグカップの中身を揺らして遊ぶ。
「えー、そういうラチイさんこそ、早く寝ないとじゃない? お酒も飲んでるんだし!」
「そうですねぇ。ちょうど飲み終わりましたし、お開きにしますよ」
ラチイさんが氷だけになったグラスを持ち上げて見せてきたので、私も慌ててマグカップをあおった。
「慌てなくていいですよ。俺は先に部屋に戻りますが、夜ふかしにはならない程度にゆっくりくつろいでいて良いですから」
「えっ、あ、うん」
「使ったマグカップは流しに置いておいてください。明日洗います」
「あ、ありがとう」
「いえ。それでは…………あぁ」
ソファから立ち上がったラチイさんが、何かを思い出したように、私の顔を見る。
え? なに? 私の顔に何かついてる?
きょとんとしてラチイさんの顔を見上げていると、ラチイさんがふっと目元をゆるめた。
「これを忘れていましたね」
「へ?」
頭上に影がかかる。
ふわりと銀色のカーテンが顔にかかって。
琥珀色の星が、落ちてくる。
「おやすみなさい、智華さん。良い夢を」
熱くて、ちょっとだけ甘い匂いの吐息と一緒に、柔らかい何かが額に触れた。
……?
え、今、何が……?
自分の身に起きたことを理解できずに固まっていると、ラチイさんが「それではまた明日」と言い残して、何事もなかったかのように部屋を出ていってしまった。
は……?
「え……?」
さっきの、なに。
おでこ。
私のおでこに、ラチイさん、何をした?
えっ?
キス、した?
キスしたよね?
えっ?
ええええっ?
お酒なんて飲んでないのに、体が熱くなる。
私はぐいっとホットミルクを飲み干して、だんっと見せつけるようにテーブルに叩きつけるように置く。
うぅ~~~っ!
「ラチイさんの! 酔っぱらい!」
酒癖わっるいよ! もう!




