約束 岸田篇
『忘れないで』
俺に囁いている。
『忘れないから』
小さくか弱い、あの時の声で。
『忘れない、から』
たった一つの小さな約束。俺は多分、その約束に縛られ続ける。
『わたしを忘れないで』
「――ファッ!?ウーン……」
微睡の揺り篭から岸田は意識を戻し、あの夢から解放された。
ふと見渡せばどうやら視界は机の上。ゆっくりと頭を上げると徐々に視界と記憶が明瞭になっていく。
南千住における様々な勢力……轟扇組はもちろん、轟扇組内での反乱組織や自然災害的なアスタロス、それに最近現れたという“森”を名乗る男。
最早カオスと化したこの南千住の勢力分布図を作成中に、岸田は夢の世界へと意識を落としていた。しかし、彼が見れたのは悪夢ともいえるような内容だった。
――忘れないで。
岸田の頭の中でその言葉がぐるぐるしている。水銀でも流し込まれたかのように、重い。そう、この夢を見る度に彼はこの感覚を味あわなければならなかった。
「……あくしろ」
次いで頭に軽い衝撃―― 頭の重さがとうとう痛みを孕んだのかと錯覚した岸田だったが、背後にいる一人に気配にその錯覚は潰された。
「とっとと仕事終わらせろ、教祖サマ」
岸田の部下、腸流が丸めた紙束で岸田の頭を小突いていた。敢えて“教祖サマ”の部分を強く主張しながら。
ただそれでも、岸田の思考の中ではあの言葉が渦を巻いていた。
「……綿流、今日って何日だ?」
不意に彼から出された言葉は脈絡から外れたモノだった。が、腸流はその一言で彼の見た夢を察した。毎月起きるこの問いの意味を彼が語ってからだ。
「……2月の16日」
「だよな……はぁぁぁぁクソ過ぎるだろ16日……」
毎月16日、彼はいつもいつも悪夢を見る。忘れたい、しかし忘れてはいけないあの言葉とあの約束。
――忘れないから、忘れないで
16日は、眠れない。
ある年の8月、少年が山を駆ける。柔らかい小さな手を掴み、木々の茂る森の中を走っていた。
少年の格好は少しおかしなものだった。森の中を走るには向いていない、上質そうな和服に身を包んでいた。しかし、やはりというか当然と言うべきか、その着物は既に泥まみれになっていた。
暫く走り回ってから、サッと脇の茂みに飛び込む。引いていた手の主も茂みの中に引き込み、小さな声でその主に釘を刺す。
「静かにしてろ……」
こくこくとその人物は頷いた。少年は息を殺し、耳を澄ます。遠くはない距離で大人の声が響いている。それが自分に向けられている言葉だというのは分かったうえで、少年はじっと気配を殺す。
段々と声が遠くなり、やがて森が静寂に包まれた頃。少年は二、三度ほど辺りを見渡してから立ち上がった。
「やったぜ。もうあいつら居ないぜ。」
その言葉を聞いて、茂みの中からひょこりと顔が現れる。肩まで伸ばした艶やかな黒髪に付いていた葉っぱを、少年がやさしく払い落とした。
ぺこぺこと頭を下げるのは、小さな少女だった。真っ白なワンピースと細く白い肌が少女の雰囲気を清楚に纏め上げている。
二人は何方からという訳ではなく、吹き出した。
少年の名は、岸田という。彼は岡山の県北にある名門、川土手下一派に連なる岸田家の御曹司である。古くから、岡山の県北にて強い影響力を持つ岸田家の当主の一人息子という理由で、蝶よ花よと育たれてきた。それ故に、遠くに遊びに行く事はおろか、屋敷から出る事も憚られた。
当然、遊び盛りの彼にとってその暮らしは余りに退屈なものだった。それから使用人の目を盗んで屋敷から抜け出すようになるのは自然な流れであったし、本人に後ろめたさ等は何もなかった。
そして抜け出した先、彼が出会ったのは口の利けない同い年の少女であった。
少女は岸田家の言うならば“お坊ちゃん”だった岸田を特に恐れる様子もなく遊び始めた。
世間知らずな少年と、怖いもの知らずな少女。
口が利けないその少女との交流は、岸田にとって輝かしい程に楽しい事だった。長年の夢だった鬼ごっこを遊び、影踏みを楽しみ、山の中を探検した。
少女もまた、楽しそうに岸田と遊んでいた。それが岸田にとって何よりも嬉しく感じられ、そして安堵した。
気付けば二人は毎日遊ぶようになっており、岸田も少女もそれが楽しみとなっていた。
しかし今日になってとうとう、少女と遊んでいる所を買い出しに出掛けていた使用人に見られてしまった。そのまま森の中へと逃げ込み、息を潜めて、そして現在。
「こんな俺と泥まみれで走り回らせてごめんな、疲れただろ?」
ぶんぶんと首を振る少女。
「マジかよ、じゃあもう少し泥まみれで泥遊びしないか。」
こくこくと首を振る少女。
「やったぜ。じゃあ川の方行こうぜ。」
少女が口を利けない事は岸田にとって些細な事だった。ただ時折、彼女が紡ぐ声はどんな声なのか、考える時はあった。
聞きたい、そう、彼女の声を聞いて遊べたらどれほど楽しいか。幼い少年にとって、彼の抱くその感情が恋慕に近いものだとは気付く事は難しかった。
歩くこと数分、不意に福の裾を少女が掴んだ。振り返る岸田に少女はピッと指し示す。
指の先には、背の高い向日葵たちが太陽の光を浴びていた。凛として、それでいて明るい。岸田にはその姿に何処か少女の姿が重なってるように感じられた。
少女は指差したまま、俯いた。その顔は耳まで赤くなっており、指先は少し震えていた。
岸田は彼女の伝えたい事を気付き、そして素早く彼女の腕を掴んだ。
「アッツイアッツイ、日差しアッツイ。少し休憩しような」
顔の赤くなった少女の手を取り、木陰まで歩く。つないだ手は仄かに熱を伴っていた。
予想通り、彼女は日射病になって太陽を指差したのだと岸田は納得した。それと同時に女の子の伝えたい事を汲み取り、行動に移せる自分に胸を張った。
が、少女はぶすっと頬を膨らませて彼に腕を取られていた。その後も不機嫌な様子は続き、帰路に着くまで頬を膨らませたままだった。
幼い少年は、首を傾げる事しか出来なかった。
次の日、岸田は現当主に呼び出されていた。
とうとう死ぬほどの勢いで怒られる物かと腹を括っていたが、父親から言い渡された事は意外なものだった。
あの少女が喋れるように出来るという。
岸田は目を丸くしながら、父親の話を聞いていた。
彼女は老夫婦に拾われた孤児で最近その夫婦が亡くなった事。
この家であの少女を養う事はとても簡単だという事。
そして、彼女の口を利けるようにする手段があるという事。
穏やかな顔の現当主はそう言って、微笑んだ。
父親が何を考えているのか、岸田には分からなかった。だが、その提案は魅力的で拒む事など考えなかった。
そして次の日、彼は後悔した。悔やんでも悔やみきれないほどの感情が渦巻いた。
父親に認められた彼女との交遊は、彼の歩みを強くしていた。屋敷から抜け出すのではなく、正門から堂々と外に出れた。いつもは止めようとする使用人たちも幼い少年に見送りの挨拶を掛けるだけであった。
いつもの場所……川の土手の下に彼女は居た。岸田の姿を認めると笑みを浮かべて走り寄って来た。
瞬間、背後からの鈍い一撃と共に岸田の意識は途切れた。
岸田は元の様に屋敷での暮らしとなった――否、軟禁状態で暮らすことを要求された。
初めて岸田は大人という存在の恐怖を知った。我が子でさえ陥れる、その容赦の無さに。
そして8月の16日、父親――もはや岸田にとっては“只の”現当主が、彼の部屋に足を運び入れた。
淡々と語られていた。時間にしては数十分だが、岸田が部屋を飛び出るまでは、まるで時の流れが動く事を拒んだかのように、長い時間が流れたように思えた。
彼女は依代になったという。岸田家が岡山の県北で振るい続けた権力の為に。
『獣扇杯耶』なる生物の為の苗床になったのだと。彼女はこれから、岸田家の繁栄の為に働き続けるだろうと。
悲鳴ぐらいなら、利けるようになるだろうと。
「クソが!クソ過ぎるだろ!!」
無我夢中で走り回った。何人もの大人たちが辺りを走り回っている。多分、俺を捕まえるために。
早くあの子に会いたい、その一心で俺は屋敷中を探し続ける。何処にいるのか、見当も付かないから本当に只走り続ける。
目頭が熱い。アッツイアッツイ。でも立ち止まる事は無い。彼女に、何としても会わなきゃいけない。泣く事など、許されない。
「ヤバい、足に重みを感じる。マジで死ぬかも……ん?」
ふと、昔の記憶が浮かび上がった。物心ついた時から、決して近づくなと言われ続けていたとある場所。
地下室――その扉が、行く先で口を開けていた。
「……此処だ」
確信だった。この先にあの子が居て、俺を待っている。そう、絶対に。
扉をくぐるのに躊躇いは感じなかった。
「っ!? 何だよこれ……」
茶色。床も壁も、只々茶色。
きたない、くさい――様々な負の感情が身体に圧し掛かる。
何かが此処に居て、これをばら撒いている。その何かは、親父――いや、当主様から聞いた得体の知れない生き物。
奥に進んで、話し声が聞こえた。多分曲がり角の奥から。バレない様にギリギリまで近付いて聞き耳を立てる。
「フンッ今年の苗床はとても優秀なんだよね。余りにも適性が高すぎて草不可避ってやつ?」
早口だ。介入を許さないかのようにその男の声は止まらない。
「これだけの苗床があれば生物兵器T20も簡単に構築できるんだよね。君たちの言う獣扇杯耶のお陰って感じ?そうそうもう直ぐ第一子が生まれる予定だからすぐに準備した方が良いんだよね。それ一番言われてるから」
男が何を言ってるのかまるで理解できなかった。けど、ただ一つ分かったことがある。この曲がり角の奥に、あの子がいるんだ。
聞こえはしないが、ずっと俺を呼んでいる。
そっと、角から中の様子を覗く。そう、あの子が今どうなっているか確かめ――
「ファッ!?ウーン……」
そこには白衣の男達の後ろ姿と、見慣れない腕章を付けたパーカー男。
それと、もう一人。
居たのはあの子じゃない。
あの子な訳がない。
そんなはずがない。
だって、今、檻の中に入れられているソレは茶色で汚い化け物だったから。
あの子とは違うから。
違う、違う、違う、あれは、あの子じゃ
「アーイキソ……」
「そろそろみたいだね」
化け物がゆっくりと息を吐く。苦しそうな顔で息を荒くしているが、それが人の表情と同じ意味を持つのかが分からなかった。
そして聞こえる、咆哮。
「ンアーッ!!」
空気が震え、地面が揺れた。
恐ろしく躍動するその姿に岸田は恐怖を覚えた。
だけど、恐怖を感じたのは俺だけじゃないらしい。
白衣の男の一人が、白い粘液の様な物で埋もれていた。この化け物のまた元から吐き出されたらしい。
「フンッこのタイミングで攻撃反応……こんなの予想外過ぎるんだよね。まあ予想外も醍醐味って奴?」
白衣を着た男たちは肩を震わせていた。しかし、卍の腕章の男だけは静かに笑っていた。
俺も震えていた。
あの化け物の口元から、あの子の白い腕が見えたから。
「約束……」
声。
そう、永遠に聞こえないと思っていた声が聞こえた。
あの子の様に柔らかくて、あの子の様に明るい色。
「忘れないで……」
まるで、死人へ手向ける言葉の様に
「忘れないから……」
いや、消えかける彼女が、最後に俺に掛ける言葉のように
「忘れない、から……」
最後になって、気付いた。
喋れない彼女の最期の言葉は、これが最初で最後だと。
――そして
「わたしを、わすれないで」
俺との約束だと。
「……クソ過ぎるだろ」
岸田の呟きは、白霧へと昇華した。南千住の夜に一瞬紛れるが、直ぐに消えていった。
あれから岸田は家を飛び出し、岸田教団という不良への道を歩みだした。あの事件の真相を探るため、父親に復讐する為。
あの子を、元に戻す為。
あの子の笑顔と化け物のイキ顔が脳裏にこびり付いたまま、もう数年が過ぎようとしていた。その間に分かった事は、とても少なかった。
南千住の不良グループ、轟扇組の参謀があの謎の腕章の男にそっくりだと言う情報。そして、T20という兵器が此処に封印されていた事――これが解放されたのは、最早周知の事実であった
それと一つ、向日葵の花言葉だけ。
『私はあなただけを見つめる』たったそれだけの意味。
「……クソが」
奇妙な運命の歯車が、彼ともう一人、これまた数奇な運命に流された男である腸流を連れて南千住へと誘ったのだ。
「なあ、腸流」
岸田は、密かに闘争心を滾らせていた。不良グループとして力を付けて、そしてあの子を助ける術を見つけ出す――絶対に。
「……なに?」
余りにも巨大な陰謀と恐怖。しかし、岸田教団はそんなものに押し潰される程に弱い組織ではないのだ。
「糞塗れで殺ってやろうや。」
「ウィイイイイス……」
小さな不良グループ、岸田教団。
今日も彼らは“教え”を貫く。
腸流篇に続く




