CHAPTER-58
「あともう少し、だな」
裕介が言うと、少女はガラスの向こうで可憐な笑顔と共に応じた。
「うん、いつも来てくれてありがとう。裕介君」
水色の入院着に身を包み、赤みの強い茶色の髪を長く伸ばした女の子。彼女の名は、群崎水琴。1ヶ月程前の事件にて裕介を襲ったが、裕介の尽力によって救い出された、悲壮な思いから解き放たれた少女だ。
水琴は、続ける。
「それと、今回の事も……あなたには本当に、いくらお礼を言っても足りない」
あれから水琴は、事件の黒幕である男によって投与された、薬剤やナノマシンを除去する治療を行ってきた。
そして、彼女は裁判を受けた。その結果、水琴が行ってきた犯罪は全て無理強いされたもの、本人の意思に反してさせられた事であり、彼女に罪は無いとの判決が下された。水琴は完全なる被害者である、それが全面的に認められたのだ。
証言者は、他でもない裕介だった。
「礼なんて必要ないさ。そもそもお前は、何も悪くなんてねえんだから」
裕介が応じると、水琴はくすりと微笑んだ。アクアティックシティ医療刑務所に入った頃は沈みがちだったが、次第に彼女は笑顔を取り戻しつつあった。
彼女の笑顔を見ると、不思議な事に裕介は嬉しさのような気持ちが湧いてくる。水琴を通じて、彼女の父であり、同時に裕介が実の父のように慕っていたRRCAエージェント、ジーノ・カルデローネの姿を思い浮かべるからだろうか。
「ううん、ここから出たらちゃんとお礼をさせて? じゃないとわたし、気が済まないから」
優しげで穏やかな、水琴の口調。しかしそこには確固たる思いが篭っていて、安易に拒否する事は出来ない。
裕介は少し考えて、
「だったら……お前がちゃんと治療を終えて、ここを出るって言うのがお礼って事でいいよ」
水琴は無罪判決が出たが、釈放されるにはある条件があった。
それは彼女に投与されたナノマシンや薬剤を除去し、治療を完全に終える事。それまでは、彼女はアクアティックシティ医療刑務所の病棟にて、監視下に置かれる事となっているのだ。
一刻も早く、裕介は水琴に自由になって欲しかった。自由になり、そして奪われてしまった彼女の幸せな時間を取り戻して欲しかったのだ。
「裕介君……」
自身の名を呼ぶ水琴を他所に、裕介はポケットを探る。取り出した物を手の平に乗せて、彼女へ差し出す。
「この髪飾り、早く返したいからさ」
裕介が取り出したのは、水琴の宝物。彼女が父から、ジーノから貰った水滴型の髪飾りだ。
水琴は頷いた。
「うん。わたし、負けないから……だから少しだけ待っててね、裕介君」
裕介は、少女の瞳に確固たる決意と揺るぎない自信を見出した。
◇ ◇ ◇
「クライヴ、お前……本当に使うのか?」
友人からの問いかけに、クライヴ・アディンセル(CLIVE ADDINSELL)は一片の迷いもなく、頷いた。
「ああ……これを使えば、俺も……俺も……!」
クライヴは震える様な声で、自身が手にするスマートフォン、『Y-Phone』を見つめる。
液晶画面には沢山のアプリが表示されており、設定や電話、メール、コミ等、ありふれた物が大半を占めていた。
しかし、その中に一つ。宝箱のようなアイコンで描かれた、『ΠΑΝΔΩΡΑ』というタイトルのアプリがある。クライヴが視線を釘付けにしているのは、他でもないこのアプリだ。
「けど、それ使ったら危険だって噂もあるんだぞ? 最近の学生の昏睡事件にだって、そのアプリが関係してるって聞いた事も……!」
「うるせえエディ、お前に言われたって嫌味にしか聞こえねえんだよッ!」
凶変したクライヴは、友人に怒声を張り上げる。
そして彼の人差し指が、ゆっくりと、しかし確実のそのアプリへと近付く。傍らに居る友人がまた何かを言った気がした。けれど、クライヴはそんな事は気にも留めない。
「このアプリを使えば、俺も……俺も……!」
喉を鳴らしつつ唾を飲み下し、頬に冷汗を伝わせながら、クライヴは人差し指でついにそのアプリを、『ΠΑΝΔΩΡΑ』をタップした。




