CHAPTER-30
『続いては、こちらの数列です』
数学の授業を行うルーシー、空に浮かぶように構成された彼女のイメージの側には大きなモニターがあり、ルーシーの意思によってそこに数列が表示される。
本来、ルーシーは学生生活を補佐する役割を与えられてウエストサイドハイスクールに配備されたAIである。しかし、担当教員が用事や病欠で授業を行える状態にない場合、代理として彼女が授業を行う事もあった。
ルーシーには全科目の知識がインプットされている為、基本的にはどのような授業にも対応可能である。
『0,1,1,2,3,5,8,13,21……では、この次に入る数字は何か。皆さん考えてみて下さいね』
そんなルーシーの声を、裕介は聞いた気がした。
彼の思考は今、昨日の晩に玲奈から聞いた事で埋め尽くされていたのだ。自分が今関わっている兵器密売事件、その黒幕の組織が、『ゾンネ』というテロ組織であるという事に。
(信じたくねえけど……)
彼の右手の人差し指が、机の上の教科書を規則正しく叩く。
そう、ゾンネの暗躍は彼には受け入れ難い事なのだ。何かの間違いであって欲しいとは思うが、玲奈がデータスティックから発見した彼らのエンブレムといい、IMWの構造が一致している事といい――ゾンネの仕業だという事を裏付ける証拠も存在する。
(本当にゾンネが活動し始めたのか、けど奴らは前に……)
と、裕介の思考を切る声が発せられる。
『裕介君、考えていますか?』
「……へっ!?」
突然のルーシーの言葉に、思わず素っ頓狂な声を漏らす裕介。周囲の生徒――玲奈やネイトを含めた少年少女達が、一斉に彼に視線を向けた。
裕介は焦る。
「も、勿論! 考えてる考えてる!」
『……本当に?』
ルーシーが目を細めて問う。人間の手で作られた人工知能とは思えない程、彼女の表情はリアリティを帯びている。
裕介は不自然に、何度も頷く。すると、ルーシーは発した。
『視線の向き、表情筋の動き、アドレナリン分泌量の増大。これらを考慮して裕介君、96%の確率であなたは授業とは関係の無い事で、何か思い悩んでいると推測します』
(ふぐっ……!)
裕介は、冷水を背中に流し込まれたような気分になる。
ルーシーはむっとした表情を浮かべて、続けた。裕介は彼女と目を合わせられない。
『さらに、毎分120回程度の割合で人差し指で机を叩く行動、そして先程の不自然に何度も頷く行動……前者はあなたが大きな悩みを抱えている時、後者は何かを誤魔化そうとしている時に取る行動であると、私のデータにプロファイリングされています』
「ぐ、んな事まで……」
自身の癖まで言い当てられ、追撃を受けたような気持ちになる裕介。
「流石ルーシー、裕介の事良く分かってるね」
隣の席で、玲奈がいつもの快活とした笑みと共に言う。『感心するな!』と裕介は突っ込みたかった。
『RRCAのお仕事が大変なのは分かりますが、今は授業中。メリハリを付けて下さいね』
そう裕介に言うルーシーの表情は、いつもの穏やかな物だった。
『私で宜しければ、後ほど相談に乗りますよ?』
「いや、大丈夫。ありがとうルーシー」
自身の事を慮ってくれているルーシーに、裕介は素直に感謝する。一先ず考え事はさて置き、授業に参加する事にした。数学の単位を落とされては、元も子も無いだろう。
教室の中を見回すルーシー、やがて彼女は選んだ。
『それでは……ネイト君。この次に入る数字、それとこの数式の事はご存知ですか?』
天才のネイトが相手故だろう、ルーシーの質問は答えに留まらず、数式自体に関する事も言っている。
裕介にはどちらも見当が付かないが、ネイトは頷き、応じた。
「34。フィボナッチ数列です」
◇ ◇ ◇
昼休みの時刻。既に昼食を終えた裕介はテラスのベンチに腰を下ろし、空を見上げていた。
青空に浮かぶ雲が、風に揺られてゆっくりと流れていく。太陽が雲の陰に隠れ、辺りが微かに暗くなる。雲の浮かぶ青空と、靄の掛かった今の自分の心。どこか共通しているように思えて、裕介は瞳を細めた。
ベンチの背もたれに身を預け、裕介は本革から写真を取り出した。幼い少年を抱き上げて笑みを浮かべる男性に、裕介は思いを馳せる。
(ジーノ、もしも本当にゾンネの奴らが動き始めたなら、オレは……)
写真の男性は答えない。答えてなど、くれる筈は無い。
それでも裕介は、写真の男性――『ジーノ』の顔を見つめていた。もう写真以外で見る事は出来ない、それでも一生忘れる事は無いであろう彼に、救いを求めるように。
「……やめだ、考えてても始まらねえや」
裕介はベンチから腰を上げる。
今一度写真を見つめて、それを本革の中に戻す。ただ座って考えていても何も進展しない、1時間程もある昼休みを無為に過ごす手も無い。そう思った彼は、体を動かす事に決めた。
(『悩んだら体を動かせ』、だったよなジーノ)
テラスを去り、裕介が向かった場所は体育館だ。部活動や授業、また清掃等の際は使えないが、それ以外の時間帯は自由に使えるようになっており、備品も貸し出されている。
入口の側のスイッチを入れると、薄暗かった体育館内を照明が照らし出す。どうやら、他には誰も居ないようだ。裕介は誰も居ない体育館内に踏み入り、用具室の扉を開ける。籠の中から1個のバスケットボールを取り出して一旦地面に置き、ポケットから音楽プレイヤーを取り出して、そこから伸びたイヤホンを両耳に嵌めて再生ボタンを押す。
プレイヤーに入れられた300曲にも及ぶ洋楽の中から裕介が選んだのは、『YELLOWCARD』の『GIFT AND CURSES』。
(さあて……)
軽快で爽やかな音楽に鼓膜を揺らしつつ、バスケットボールを拾い上げる。「ふんふんふふーん……」と曲のメロディを鼻歌で奏でながら、スリーポイントラインの側まで歩み寄った。
ドリブルしながら、彼は壁に据え付けられたゴールへと勢い良く走り――ボールを放る。しかしボールはバックボードに弾かれる。跳ね返ったボールをキャッチして再びシュートするが、今度はゴールリングに弾かれた。
(カンが鈍ったか、久し振りだしな)
今日のように時間が余ったり、また授業が急遽休みになった際。裕介は友人と共に体育館で時間を過ごす事が多かった。一緒に来るのは大体が耀だったが、玲奈やリサ(彼女達は中々スポーツに長けている)と来る事もあるし、たまにネイトも。頻度としては多くはないが、5人全員、更には他の友人も伴って来る事もあった。しかし、今日は専攻している授業の違いで皆と会う事は無かった為、1人なのである。
(ま、いいさ)
周りに誰の姿も無い体育館で、好きな音楽を流しつつ1人ボールを追う。友人と一緒にスポーツをするのも楽しいが、裕介にはこちらも悪くはなかった。
ボールを拾って呼吸を整え、裕介は再びドリブルし、放る。
――計3度目のシュート、ボールはゴールリングの間を綺麗に通過し、ネットを揺らした。イヤホンをしていて分からないが、『パサリ』という耳心地の良い音が奏でられた事だろう。
「よし……!」
裕介の表情に笑顔が浮かぶ。イヤホンからは、人の心を落ち着けるような弦楽器の間奏が流れている。
その後も、裕介は何度もドリブルとシュートを繰り返した。上手くシュートが決まる事もあれば、バックボードやゴールリングに弾かれて決まらない事もある。しかし、いずれにしても彼はボールを追い続けていた。生き生きとした面持ちを浮かべつつ、一心不乱に、まるで自分の心に渦巻く靄を振り払うかのように。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。何度目か分からないシュートを決めた後、裕介はボールを拾って体育館のベンチに腰掛けた。
「ふー……」
イヤホンを外し、微かに額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。
思い切り体を動かしたお陰だろう、先程までの鬱々とした気持ちは薄れていた。
(ジーノ、あんたにバスケ教えてもらってた時の事……思い出すよ)
その頃の自分自身の姿を、裕介は見た気がした。
まだとても小さい裕介が両手でバスケットボールを抱え、ゴールリングに向けて必死に放っている。けれどボールは入る所か、リングの高さまで届きすらしない。何度投げても、何度投げても届かない。
小さな裕介は半泣きになって弱音を吐く。すると、彼の側に居る男の人――とても大きくて、格好良くて、そして優しげな眼差しを持つ彼はしゃがんで、真っ直ぐに小さな裕介と視線を合わせる。
“諦めたらゴールは決まらない、俺達RRCAも同じだ。そんな風に立ち止まってたら、何も救えやしないぜ?”
何年前に聞いたのかすら思い出せない、彼の言葉。
それでも裕介が決して忘れる事は無いであろう、信念の言葉。
裕介は微かに口元に笑みを浮かべる。そして、体育館の天井を見上げた。
(なあ、ジーノ……)
心中で、問いかける。
(あんたが今のオレを見たら、何て言うんだろうな)




