第二話 プライバシーの概念、どこへ捨ててきましたの?
それから半年。
私の逃亡計画は、驚くほど進まなかった。
なぜなら、ラインハルトの『過保護』が、いつの間にか『監視』へと進化していたからだ。
宝石の換金先は、すべて王家御用達だった。
偽造身分を頼んだ書記官は、ラインハルトの元学友だった。
国境付近の宿屋は、なぜか王家の直轄地に建っていた。
どうして。
いや、なぜより先に、怖い。
「アリス、新しい護衛を増やしておいたよ。彼らは有能だ。君が庭に出る時も、街へ行く時も、目立たず見守ってくれる」
「……プライバシーの概念、どこへ捨ててきましたの?」
「愛ゆえだよ」
言い切った。
この男、言い切った。
ある日、私はついに強硬手段に出ることにした。
夜会。
大勢の人が集まる混乱に乗じて、バルコニーから抜け出し、用意していた馬車で逃げる。
ドレスの下に動きやすい服を仕込み、いざバルコニーへ。
しかし、手すりに手をかけた瞬間、暗闇からすっと手が伸びてきた。
「アリス、夜風は冷える。風邪を引いたら大変だ」
ラインハルトである。
なぜ。
あなた、さっきまで隣国の使節団と乾杯してたよね?
瞬間移動でもしたの?
「殿下……あ、あの、ちょっと月が見たくて」
「そうか。奇遇だね、僕もなんだ」
ラインハルトは穏やかに微笑むと、私の腰に手を添えた。
「二人で少し話そうか。……逃げ出したいなんて、思っていないよね?」
耳元に落ちる声は甘い。
甘いのに、逃げ場がない。
これ、ラブコメのヒーローがやっていい温度感かしら。
完全にストーカーでは?
逃亡計画開始から一年半。
私は悟った。
この男、私が右足を動かそうとすれば、それが『歩くため』か『逃げるため』かを本能で察知している。
「もう無理だわ……」
私は自室のベッドで大の字になった。
監視は完璧。
協力者だったはずの商人は「王太子殿下から、アリス様をよろしく頼むと直々にお願いされまして」と寝返った。
しかも金ではない。
王太子に頭を下げられて感激したらしい。
やめて。
人望で逃げ道を塞がないで。
そこへ、ラインハルトがやってきた。
彼は私の横に腰を下ろし、ひどく嬉しそうに笑う。
「アリス。あと半年だ」
「……ええ、そうですね。もう逃げる気力もありませんわ」
自暴自棄になって言うと、彼は私の髪を優しく撫でた。
「なぜ、そんなに逃げたがる?僕は君を愛しているのに」
「だって、殿下は三年も私を放置したでしょう。手紙は事務連絡だけ。会っても公務の話だけ。挙句に『あと二年待て』。そんなの、他に好きな人がいて振られたのか、もしくはその人と一緒になるための準備期間だと思ったんですもの」
ラインハルトの手が止まった。
彼は絶句した後、深く息を吐き、片手で顔を覆った。
「……そうか。そう見えていたのか」
「違うんですの?」
「違う。逆だよ、アリス」
「逆?」
ラインハルトは、私の手を取った。
今度は逃がさないためではなく、きちんと言葉を届けるためのように。
「この三年、僕は君を王宮へ迎えるために、反対派の貴族を一人ずつ黙らせていた。君を王太子妃にふさわしくないと言った者。君の実家を利用しようとした者。婚約破棄を狙って、別の令嬢を押し込もうとした者。全部だ」
「……全部?」
「ああ。中途半端な状態で籍を入れたら、君が傷つく。君を王宮に入れた瞬間、牙を剥く連中がいると分かっていたから」
「でも、それなら、そう言ってくだされば」
「言えば、君は自分のせいだと思っただろう」
言い返せなかった。
たしかに。
私は、そう思ったかもしれない。
「だから全部片づけてから、迎えに行くつもりだった。君が何も心配しなくていいように。誰にも文句を言わせないように。……ただ、僕が黙りすぎたせいで、君を不安にさせた」
ラインハルトは、私の指先に唇を寄せた。
「それは僕が悪かった」
その声音は、いつになく真摯だった。
この男、怖いくせに、こういうところだけ真面目なのだ。
「君が逃げようとするたびに、心臓が止まる思いだった。だから、君の動向を把握せずにはいられなかった。怖がらせたなら謝る」
「では、もう監視はやめてくださいますのね?」
ラインハルトは微笑んだ。
「それはできない」
「謝罪とは?」
「君が逃げないと約束してくれるなら、護衛の人数は減らす」
「取引になっている!」
私は思わず叫んだ。
「だいたい、ストーカーみたいな真似はやりすぎですわ!」
「ストーカー?心外だな。僕はただ、愛する妻になる女性の安全を二十四時間体制で守っていただけだよ」
「言い方を変えただけですわ!」
言い方を変えただけだ。
ラインハルトは楽しそうに笑った。
三年間、あれほど読めなかった男の顔が、今は腹立たしいほど分かりやすい。
この人は私をからかっている。
心配している。
愛している。
そして、たぶん少しだけ、いや、かなり重い。
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