第一話 私の自由時間は、あと二年以内で終了
「アリス、大事な話がある」
王太子妃教育の合間、ぐったりとソファに沈んでいた私――アリス・ローゼンタール公爵令嬢は、目の前に立つ婚約者、ラインハルト王太子の言葉に片眉を上げた。
大事な話。
その言葉に、胸がときめくほど私は乙女ではない。
なぜなら、彼がこの言葉を口にするたびに、だいたい碌なことにならないからだ。
「なんやねん、また『公務が忙しくて挙式は来年になりそうだ』とかいう引き延ばし工作ですか?もう聞き飽きましたわ」
思わず素の口調が漏れる。
私たちが婚約して、はや三年。
当初は「成人したらすぐに」と言っていたはずが、なんだかんだと理由をつけて、挙式は延びに延びていた。
しかも、この三年間。
彼からの手紙は、ほとんどが事務連絡だった。
『王妃教育の進捗について確認した』
『来月の式典は同席できない』
『護衛を一名増やす』
以上。
甘い言葉もなければ、贈り物に添えられた恋文もない。
手を握られたのだって、公式行事で必要に迫られた時くらいだ。
世間では「王太子は公爵令嬢を嫌っている」だの、「他に愛する女性がいる」だの、「婚約破棄の準備を進めている」だの、好き勝手な噂が飛び交っている。
おかげで、私の婚約者期間という賞味期限は絶賛更新中だった。
しかし、今日のラインハルトはいつもと違った。
彼は私の隣に腰を下ろすと、真剣な眼差しで私の手を取った。
……手?
三年間、必要最低限しか触れてこなかった男が、急に?
嫌な予感がした。
「すまなかった。今まで待たせすぎたのは自覚している。だが、ようやく準備が整った。……あと二年。二年以内には必ずすべてのケジメをつけ、君を正式に妻として迎え入れる。籍を入れる準備を進めてほしい」
「……ほう」
なるほど。
つまり、こういうことね。
私の自由時間は、あと二年以内で終了。
それまでに逃げなきゃいけないってことね。
OK、把握しましたわ。
私は満面の笑みで答えた。
「分かりましたわ、ヴィル様。あと二年の猶予ですね。承知いたしました」
「……分かってくれたか。アリス」
なぜかラインハルトは、ひどく安堵したように目を細めた。
「愛しているよ」
感極まったような顔で、彼が私を抱きしめる。
……待って。
今、なんて?
愛している?
三年間ほぼ事務連絡だった男が?
婚約者を放置し続けた男が?
急に?
その背中で、私は冷徹に計算を開始した。
よろしい。
向こうが『ケジメ』とやらをつけて逃げ道を塞ぎに来るなら、私はその前に『失踪』という名のゴールテープを切るまで。
だが、ラインハルトは私の肩口に額を寄せたまま、低く、逃げ場のない声で囁いた。
「……言っておくが、逃がさないよ。絶対に」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あれ?
今の、甘い愛の囁きじゃなくて、捕食者の鳴き声じゃなかった?
それからの私は早かった。
表向きはしおらしい婚約者を演じつつ、裏では着々と国外逃亡の準備を進めた。
まずは資金調達。
手元の宝石を少しずつ換金する。
次に身分の確保。
隣国の商人の娘『リサ』として、偽造書類を用意する。
最後に逃亡ルート。
国境付近の宿屋に、ひそかに部屋を押さえた。
完璧だ。
――と、思っていた。
ラインハルトは相変わらず忙しそうだった。
だが、なぜか最近、私の周りに『影』が増えた気がする。
夜、自室で脱出ルートを検討していると、窓の外の木が揺れた。
ふと目を向けると、王室直属の隠密が枝に刺さっているように見えるほど自然に同化していた。
「……気のせいよね。風が強いだけだわ」
私はそっとカーテンを閉めた。
翌日。
私はお忍びで、街の商人と会う約束をしていた。
変装して裏口から出ようとした、その時。
「アリス、どこへ行くんだい?その……ずいぶんと質素な、いや、動きやすそうな格好で」
なぜか裏口に、フル装備の王太子が立っていた。
「……あ、あら殿下。今日は地方視察では?」
「君が心配でね。そうだ、その格好。街の調査かな?僕も同行しよう」
「いえ、あの、これは」
「大丈夫。護衛は離れてつけるように言ってある。君の邪魔はしない」
そう言いながら、彼は自然に私の手を取った。
結局、デートになった。
逃亡用の裏ルートを確認するはずが、美味しいパン屋を巡るハメに。
ラインハルトは終始にこやかで、パンは美味しかった。
悔しいことに、とても美味しかった。
だが、私が路地裏に入ろうとするたびに、彼は音もなく背後へ回り込み、道を塞いだ。
その動きはもはや忍者のそれだった。
「……殿下、歩くのがお上手ですのね」
「君が転ばないように見ているだけだよ」
「私は赤子ではありませんわ」
「分かっている。君は僕の大切な婚約者だ」
笑顔がまぶしい。
怖い。
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