第二部 第五章「会合」①
殿下、と呼びかけられたのはそんなときだった。誰もいないと思っていた劉貴はぎょっとして周囲を見回す。人影は、ない。
「殿下、落ち着いて。歩き続けてください」
声が言う。聞いたことがない、若い男の声だ。口調は丁寧だが、抑揚に聞きなれない訛りがある。敵意はなさそうだが、何者か分からない。ひとまず歩き続けることにした劉貴の耳に、再び声が届く。
「回廊の先の藤棚に、文が括り付けてあります。ご確認ください」
「お前は何者だ」
低い声で、劉貴は問うた。ここで動揺しないだけの度胸くらいは、劉貴にもある。仮にも一国の皇太子なのだ。一瞬の間があった。若者の声は、
「兄君と妹君からの遣いです」
と言った。
「何?」
兄も妹もいない、そう言おうとして、劉貴は雷に打たれたような衝撃に立ち竦む。
兄と、妹?
同腹ではないが、兄と呼ばれる可能性のある男は一人だけだ。そして、ほとんどの者が知らぬ妹がいることを、この男は知っている。
「歩き続けてください」
淡々と、声は続ける。問うべきことは山ほどある気がしたが、声が出てこない。死んだことになっている劉夢と劉幻の遣いを名乗る者が、ここにいる。この、外部から遮断された場所であるべき王城の回廊に。
「あなたにとっても悪い話ではないはずです。文の確認を」
声は繰り返しそう言った。劉貴は、仮に受け取ったとした場合の、その後の対応を頭に描く。
「お返事は、明日、この時刻にこちらの手の物が受け取りに参ります」
こちらの逡巡を見透かしたかのようにそう言ってから、
「たとえあなたがどこにいらしても」
そう締めくくって声は止んだ。
劉貴がどこにいても見つけ出す力がこちらにはある。警備が厳重な王城の回廊で会話ができていることがその証拠だ。必ず返事をもらう。
そんな主張が込められた語り口に、劉貴はぞっと背が泡立つのを感じた。
彼の視線の先では、件の藤が、今を盛りと咲き誇っていた。
*
ラスクから報告を受けて、ロディはくつくつと楽しそうに笑った。
セディアとフローラは、なんとも言えない表情を浮かべていて、ウィンは遠くを見る目をしている。
ラスクがユンセアを連れてきたあの日から、およそひと月が経ち、初夏の気配が漂い始めた頃、陽国に遣っていた三人が帰ってきたのだ。ロディたちに心配された一全はけろっとして、ラスクの後ろに控えている。
ラスクがユンセアと共にセディアの配下を集めきったのが、十日ほど前だった。ちょうどその頃、一全が偵察から戻ってきた。全員がひとまず怪しいところなしと認められ、互いに紹介され、情報を交換し、再度話し合った結果、陽国に提示する内容は、簡単に言うと次の通りだった。
一、北ノ国皇太子セディアと陽国王女劉幻の婚姻を望む
一、両国の友好の証として国家間の誼を結びたい
一、陽国王太子劉貴の利に協力する準備がある
ついては、この件について話し合う会合を持ちたい
その旨を認めた文を持って、セディアとシルヴィー、一全が南に向かって経ったのが、六日前だ。出立地点よりも合流地点は南よりだったとはいえ、彼らは実に迅速果敢に仕事を成し遂げたわけだ。
「なんというか、お兄さんは隠し事のできない方なのかしら?」
「王城の回廊に侵入者がいるなんて、思いもしなかったんだろ。人前じゃもう少しちゃんとしてると思うぜ」
な?とロディから水を向けられて、ウィンは曖昧に頷いた。
自らの心の動きをぶつぶつと呟いて苛立ちを発散させる兄の姿には覚えがある。特に、姉から解放された時にやりがちな癖だ。だけど、確かに部外者に聞かれるような迂闊な人間でもなかったと思う。
「で、返事は?」
セディアの問いに、ラスクは文を取り出した。
「その様子なら、あいつは受けるだろうな」
セディアが文を受け取り、がさがさと開いている間に、ロディが持論を述べる。
「あいつは自分の立場を強くする大きな一手が欲しい。それこそ、姉に気を遣わなくてよくなるような、軍師殿に一喝をかませるような立場になりたい。今回の件はうってつけだ」
ロディの言う「軍師殿」は、ラスクの話に出てきた向秀明だ。ロディにとっては軍略の師でもある。
開いた文を読んでいたセディアがにやりと口の端をあげる。
「大正解。ほぼ諾の返事だ」
手を組むことを了承する、国境付近での会合にも出席する、詳細については会合の場で議論したい–― 劉貴からの文の内容は概ねそのようなものだった。
「婚姻の件には触れられていない」
「ま、そうだろうな」
「よし。大きな一歩が進んだ。会合が重要になってくるな」
元から重要なんだがな、と一人言のように言添えて、セディアはウィンの背に手を置く。
「動き始めたぞ」
その台詞は、彼女だけに向けられたものだ。彼らの未来がかかった作戦が、動き始めた。ウィンは、こっくりと頷く。
二人の婚姻について、劉貴は言及しなかった。つまり、即答できないと判断したということだろう。
その決定に口を挟むのは、誰か。
父王か、姉か、それとも家臣の誰かか。
文の内容は、遅かれ早かれ彼らに知れ渡る。自分が――劉幻が生きているということも、女として生きようとしていることも、北ノ国の皇太子妃になろうとしていることも。
彼らがそれを知った時の反応を想像すると、背筋が凍る。彼女の中に住み着いてしまった空想の彼らがそれぞれに勝手に動いて、彼女の中で彼女を傷つける。だけど、ここを越えない限り、道は拓けないのだ。
そして、それは遠大な道のりの最初の関門に過ぎない。
列島と統一する。そして、二人でその頂点に立つ。
こんなところで立ち止まっていられない。