手の内
――風の便り
「竹の爺さまの笊、けさ炊ぎ屋で試したら、団子が芯までふっくら蒸せたそうな」
「よその回収屋さんも、ちゃっかり一つ前払いでもろうとったで」
「稲さんとこでは、宵が爺さまの昔話を横から直しとったらしい。どっちが話し手か分からんなあ」
「竹の娘は、今年もやぶの広場の草刈りや。毎年、だれより早い」
燕が抜けていった炊ぎ屋の棟を、しばらく見上げていた。
ゆうべ巧が語ったのは、十五夜の前の晩のことだ。
あの棟を指さして「慌てて駆け上がって」と、その指先をするすると上へのぼらせる。
「巣に届く前に」と両手を宙で泳がせて、「どすんっと」その場に座りこんでみせた。
炊ぎ屋の横手の壁は三角にとがって、そのてっぺんが棟になっている。
すぐ下から突き出した太い梁の端に、燕の巣が泥を盛り上げたように載っていた。
まわりの家の屋根より、まだずっと高い。
――届く前、ってのがどの辺りか。
そばまで行って、見てくるか。
坂の上り口で、爺さまがこっちを振り返った。
「回収屋さん、戻るで」
「先に戻っててくれ。昼過ぎには戻る」
爺さまはこっちの顔を少し見てから、ひとつうなずいた。
「竹は、逃げん」
それだけ言うと、爺さまはひとりで坂を上っていった。
炊ぎ屋の戸口では、襷掛けの若い衆が釜を洗った湯を表の溝へ流していた。
「あの棟の下まで上れる梯子は、あるか」
相手は空になった手桶を下ろして、目を丸くした。
「あるにはある。
裏に寝かしてある古いのが一本。
……けど、なんでまた」
「あの巣を、そばで見たい」
「けったいなもんを見たがるお人やなあ」
若い衆は首をひねりながら、戸口の奥の釜へ目をやった。
「昼の分を炊き上げて、火を落とすまで待ってくれるか。
これから釜に火を入れるで、湯気が棟まで上がって、上は蒸し風呂になる」
それから戸口の脇に伏せてある桶を二つ、あごでしゃくった。
「その代わり、水を汲んでくれんか。
昼までに、大釜二つぶんいる」
「借り賃か」
「そういうことや。桶の借り賃は、まけとくで」
若い衆はにっと笑って、奥へ引っこんだ。
◇
井戸と炊ぎ屋の間を、桶を提げて何度も行き来した。
三度目に井戸へ向かうと、隣の戸口から小さな手桶を抱えた宵が出てきて、後ろからついてきた。
「わたしも汲む。
かいしゅうやさんの、手伝いや」
宵は手桶に水を半分だけ入れると、両手で抱えてそろそろと歩きだした。
それでも一歩ごとに水がはねて、炊ぎ屋に着くころには底に少し残っているきりだった。
「……ちょっと、こぼれた」
「ちょっとな」
「月見の晩はな、おっかあが団子を山ほど蒸すんよ。
そやから、水はなんぼあってもええのや」
宵は中身の減った手桶を振ってみせると、もう一度井戸のほうへ駆けていく。
二つめの大釜が水で満ちたころ、戸口から稲が顔を出した。
「回収屋さん、水まで汲ませて、すまんなあ。
この子まで、くっついて回って」
稲は麦湯を満たした椀を腰掛けの端に置いてくれる。
「ありがたい」
ひと息に飲みほすと、冷ました麦湯が喉にしみた。
昼どきには炊ぎ屋の前がひとしきりにぎわって、それも畑へ戻る人たちといっしょに引いていった。
最後の桶を戻して表へ出ると、軒下に人の背中が見える。
朝は姿の無かった男がいつのまにか戻ってきていた。
持ち手の割れた柄杓を膝に載せて、細い竹を添えては紐を巻きつけている。
若い衆が炊ぎ屋の裏から長い梯子を引きずってきた。
太い竹を二本並べて段を渡しただけのもので、どの段も雨風にさらされて灰色に乾いている。
「助かる」
梯子の脇にしゃがんで、手近な段を押してみる。
乾いた竹が、みしりと音を立てた。
段に手を掛けたまま、若い衆を見上げた。
「傷んだ段は」
「十年前に一つ折れて、継いだ、いう話や。
どの段やったかまでは、知らん」
若い衆は梯子の脚を土に立てながら、軒下のほうへ目をやった。
「折れたんは、かいなしが落ちたときや。
よっぽど慌てとったんやろな。
それからずっと、寝かせたきりや。
燕が巣をかける家は、ご飯がよう炊ける、いうてな。
巣のある棟へ上ろういう者は、もとからおらんでな」
軒下の男は紐を巻く手を止めなかった。
巻き終えた端を小刀で切って、脇へ置く。
右の手は、置いたあとも握ったままだった。
二人で梯子を起こして、炊ぎ屋の横手の壁に立てかける。
梯子のてっぺんは、巣の載った梁の端より下で止まった。
上のほうの段に立てば、梁の端に手が届く。
根もとの土は、釜を洗った湯が流れてきてまだ黒く湿っている。
奥から「弥平」と呼ぶ声がした。
相手は戸口へ向きかけて、こっちへ顔だけ戻した。
「巣には、手ぇ出さんといてや。
燕が来んようになったら、炊ぎ屋の名折れや」
「ああ。見るだけにしておく」
若い衆が戸口へ駆けこむのと入れ違いに、隣の家から宵が飛び出してきた。
「梯子や。かいしゅうやさん、上るん?」
「巣を見てくる」
「巣にはな、燕の子がまだおるんよ。
二度めの子や。
もうじき、親といっしょに飛んでいってしまうけど」
宵は少し離れた所にしゃがみこむと、両手で頬を挟んで見上げた。
「落ちたらあかんよ。落ちたら、かいなしやで」
言い終わると、ゆうべの語りの「どすんっ」を思い出したのか、宵は頬を挟んだまま、くくっと肩を揺らした。
その語りのどこまでが本当か、巣のそばまで行って確かめたい。
目の高さの段に手を掛けて、片脚をいちばん下の段に載せ、体を預けた。
そのとたん、梯子の根もとが湿った土の上でずるりと滑る。
とっさに、地面についたままの足で踏んばる。
そのとき横から手が伸びて、滑った側の太い竹をつかんで止めた。
目をやると、すぐそばに男がいる。
いつ軒下を立ったのか、まるで気づかなかった。
右の脚を引きずって、ここまで来たらしい。
男のほうへ、小さく頭を下げた。
「すまん」
男は片手で梯子を押さえたまま、こっちの顔ではなく段の並びを見上げる。
「上から三つ目は、踏むな」
――どの段か、覚えてるのか。
段を一つずつ上っていく。
男はもう一方の手も梯子に掛けて、両手で支えた。
削り仕事で荒れた指が、竹の梯子にしっかりと食いこんでいる。
竹がきしむたびに、下で梯子がぐっと押さえこまれた。
上るにつれて、湯気の名残りのような生ぬるい風が顔に当たる。
見下ろすと、しゃがんだ宵の頭がもうずいぶん小さかった。
半分ほど上ったところで、二羽の燕が鋭い声を上げて耳もとをかすめていった。
巣の親鳥らしい。
首をすくめた拍子に、肩に何かがぺたりと落ちてくる。
見ると、白いものが袖まで筋を引いていた。
「当たった。かいしゅうやさん、糞もろうた」
下で宵が手を打った。
「落とし物なら、持ち主に返すところだがな」
言い返すと、宵は腹を抱えて後ろへひっくり返り、土の上を笑い転げた。
戸口の奥からも、若い衆の吹き出す声が聞こえてくる。
男だけは笑わずに、下で支えつづけていた。
やがて、上から三つ目の段がすねの前まで来た。
その一本だけ竹に縦のひびが走っていて、古い紐がぐるぐると巻きつけて締めてある。
継いだのは、この段らしい。
その段をまたいで、すぐ上の段へ両の脚を移した。
梯子が大きくしなったが、下の手がすぐに揺れを止めてくれる。
この段に立つと、梯子のてっぺんの段はもう膝より下で、手で握れる所が無い。
頼りになるのは、胸の高さに突き出た梁の端だけだ。
そこへ両手を掛けると、顔のすぐ前に巣があった。
泥と枯れ草で固めた巣で、ふちから黄色い口が四つそろってのぞいている。
肩ごしに振り返ると家並みの屋根が低く並んで、その向こうに坂と竹やぶが見えた。
巣のすぐ脇では、梁に古い綱が二度巻きつけて結んであった。
竹の皮をよった綱で、黒ずんであちこちがささくれ立っている。
結び目の先は大きな輪になって、梁の上に置かれていた。
人の胴が一つ通るくらいの輪で、腰に回して体を預けるためのものらしい。
巣に触れないよう、左の手だけを梁の角に残して、結び目に顔を寄せた。
結び目のどこからも、端が出ていない。
爺さまの、あの結び方だった。
指を掛けて引いてみると、かえって固く締まる。
ここまで上ってきて、落ち着いて結ばなければ、こうはならない。
――慌てて駆け上がって、届く前に落ちた、か。
語りとは、合わないな。
そのとき、親鳥が正面から突っこんできた。
思わず顔をそむけた拍子に、左の手が梁の角から滑る。
背中が宙へ傾く。
かかとが段から浮いた。
とっさに右の手で輪をつかんだ。
ささくれた竹の皮が掌に食いこむ。
焼けるような痛みが走ったが、輪はこっちの体を受け止めてびくともしなかった。
「かいしゅ――」
下から宵の声が跳ね上がってきた。
梯子の脚が土の上でいっそう強く押さえつけられる。
もう片方の手で梁の角をつかみ直し、体を引き寄せる。
浮いていたかかとが、ようやく段の竹をとらえた。
それでも、右の手はすぐには輪を放せなかった。
止めていた息を吐いて、こわばった指を一本ずつ輪からはがす。
開いた掌に、赤い筋が一本、斜めに深く走っている。
巣のふちでは、燕の子が何ごともなかったように口を開けていた。
下りるときも、上から三つ目の段はまたいだ。
切れた手では、段が握れない。
手首を竹に引っかけて、左の手だけで一段ずつ下りていく。
竹に触れるたびに、傷口が引きつれた。
土に降り立って見上げると、綱は梁の陰に隠れて、下からはまるで見えない。
宵が駆け寄ってきて、こっちの手をのぞきこんだ。
「血ぃ出とる」
言うが早いか、宵は炊ぎ屋の戸口へ駆けだした。
「おっかあ、布。
かいしゅうやさんが、手ぇ切った」
腰の手ぬぐいを掌に巻きつけながら、振り返った。
男はまだ梯子の脚に両手を掛けたままでいる。
「押さえててくれて、助かった」
男は答えなかった。
目は、こっちの手もとに向いている。
巻きつけたそばから、血がしみ出してくる。
戸口の奥で、稲が布を探して棚をかき回す音がした。
手ぬぐいの下で、切れた掌がずきずきと脈を打っている。
あの高さで体を支えていたのは、この手一つだった。
男が梯子から手を放した。
肩が下がって、長い息がひとつ漏れる。
その右の手へ、目を移す。
小刀を置いたあとも握ったままだった手が、いまは開いている。
「十年前、あんたが上ったとき。
……その手の中に、何があった」
答えは返ってこなかった。
男はこっちを見ないまま、右の手をだらりと下げる。
その指が、ゆっくりと閉じていった。
――手の内、と言ってね。見せんのが、勝負の心得だそうな。
けど、勝負でもないのに、ずっと握ったままの手もある。
……握っとるのが、物とはかぎらんのさ。




