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Period 1 『転校』 前半

 八方を山脈に囲まれた"ベラン山"は、三つの尖った峰を持ち、それらが寄せ合う姿は独立峰のようだった。反り返った裸婦(らふ)のような山塊を真南から見る時、最も高い中央峰の頂から広がった等辺が、西峰と東峰のものと重なり、ある者はそれを日本の古い文様である()鱗紋(うろこもん)と見た。森林限界で禿げた中央峰の頂から、またある者はそれをピラミッドのベンベン石と見た。ちょうど三つ鱗の中央に空いた逆三角の位置に、村の家屋が大鋸屑(おがくず)のように散らばり、その下は針葉樹が斜面を埋め尽くすばかりだった。真横に伸びた層雲が、この巨大な神聖図形を空中に浮かび上がらせていた。雲を境に更に下は闊葉樹(かつようじゅ)地帯が広がり、その更に下は段々になった葡萄(ぶどう)畑が格子模様を麓まで広げていた。

 その更に手前、地上に広がるオレンジ屋根の家々の町を、1本の路面電車がとぼとぼと走っていた。茶とベージュの車体に "C-V" と刻印された二両編成。パンタグラフが互いに腰を曲げて向かい合う前方車両の屋根の下、まばらに座った白人たちに混じって、東アジア人の親子が、同じく窓を挟んで向かい合い座っていた。

 路電は山麓のある小駅に着いた。この駅において列車は、"変容"をするのだった。しばらく停車した後、進路変更された線路を逆走して、車輪はアプト式ラックレールと噛み合い、以降は登山列車として急勾配を登っていくのだ。前方が後方となり、後方が前方となり、上へ上へと引き揚げられていく。突然の方向転換に、アジア人の母親は列車を間違えたものかと明白(あからさま)に動揺したが、山に入っていくのを視るに、その挙動を落ち着かせた。

 こうして列車は、葡萄畑の石垣を抜け、青々とした木々の葉の蔭へと姿を消すのだった。

 ガタンゴトン—— ガタンゴトン——。

 

 列車は、深い霧に覆われた森を走っていた。おそろしく傾いた薄暗い車両の中、山上(やまがみ)和暉(あいき)は、憂鬱な面持ちで車窓を眺めていた。車内放送もない中、列車は山間の小駅への停車を繰り返し、今や何番目なのかさえ分からなくなっていた。

 ぼんやりとした影の塊が、目の前で明確な細部を持った実体となったのも束の間、再び白いもやの中へと消えていく。そんな現象が親子の間を繰り返していた。痩せた青年は背をもたれ、くせ毛の黒髪の下の黒い瞳がそれを追う。彼の(まと)う白いブレザーも、この霧の中へと溶けてしまいそうなのであった。

「もうすぐで着くね」

 列車の軋む音が響く静寂の中、母親が口を開いた。

「…………」

 和暉の視線は、窓を眺めたまま動かなかった。

「うん……」

 しばらくの沈黙の後、ようやく彼の口から出た言葉はあっけなかった。

「ねえ和暉、あんたさっきからずっと暗い顔してるじゃん」

「…………」

「もう高校生なんだからしっかりしなさい 先生の前ではちゃんとして」

 列車は車体をくねらせながら、石造りのトンネルの真っ黒な口へと向かっていた。

「ねえ、そんなんじゃ社会でやってけないってえ! 母さんが子どもの時なんか……

 ゴオオオオォォォォォォォォォォォォォォ———。

 暗闇は車内を包み込み、反響する轟音(ごうおん)は母親の叱声(しっせい)をかき消した。暗黒は視覚と聴覚をも支配し、車窓はただ黒の虚空(こくう)を映すだけだった。


 ——電線が張り巡らされ、道路標識や店の看板が点在する雑多な夜の住宅街。四角く切り出された白石の小綺麗なマンションの一画、明かりの灯った窓からかすかに声が漏れていた。

「あんた、恵まれてるんだよ」

 山上和暉は、暗がりのベッドの狭い柵の中、赤子のようにうずくまりながらスマホを見つめていた。全開にされた扉から差し込んだ真四角の白い光に映された声の主の影は、床と壁を伝って彼の身体とベッドを覆うように伸びていた。

「あんたはまだ子供で社会に出たことがないから分かんないだろうけど世の中にはあんたくらいの子で海外に行きたくても行けない子なんて山程いるんだよ」

 和暉の沈黙に構わず、声は矢継ぎ早に話し続けた。

「何度も言ってるけど今の日本にいても何もいいことないんだって。物価が上がり続けてるのに賃金が変わらないなんて先進国で日本くらいなんだよ。ねえ母さんは経営者だから分かるけどもう終わりなんだよこの国。あんたには将来国際的に活躍する人間になって欲しいの! ねえ、聞いてんの人の話!」

 そして、ブルーライトに照らされて闇に浮かんだ和暉の頭に、この言葉は響くように反芻(はんすう)されるのだった。

 「母さんは和暉のことを思って言ってるんだよ!」——。


 ォォォォォォォォォォォォ———。

 ヒュン——————。

 暗黒を抜けて視界は白くかすんだ光に包まれた。列車は霧に浮かんだ石造りのアーチ橋を登っていた。橋は伝統的な山小屋風の駅舎へとつながっている。側面の壁に付けられた青の板には、"VERNAYE-Village"と白文字で書かれていた。霧が立ち込む閑散とした駅で、黒いスーツを着た一人の男が立っていた。列車が線路を登り、ホームへ入っていく様子を見守りながら——。

「あーハハ 山上さん!お久しぶりです!」

 列車を降りると、男は大きな口を開きながら出迎えた。オールバックの頭、角張った四角い顔、四角いメガネ、屈託のない笑顔、そして小柄だが、がたいの良い体型。この何度か見かけたことがあるような親しみのある、近代日本のオヤジの姿を見た山上守見子(すみこ)は安心した様子で応えた。

「森先生、お久しぶりです」

「切符は無事に買えましたか?!」

「自販機の言語の切り替えができなくて、Goggle翻訳で何とか‥ハハハ」

「ハハハ、そうですか!」

 森先生は、再び大きな口で豪快に笑った。あとから和暉が大きなスーツケースを両手で持って、段差に気をつけながら降りてくる。

「おお!和暉くん元気にしてたか! 横浜での入試の時以来か、ええ」

 和暉の肩をぽんぽんと叩く。和暉は、なんと応えるべきか分からずただ、はい——などと言いながら作り笑いを浮かべた。

「いやあ、お二人ともようこそスイスへ!ようこそヴェルネイへ! それじゃあ早速向かいましょう」

 森先生は少し大げさに両手を広げてセリフを決めると、和暉のスーツケースを引いて歩み始めた。

 キャスターがガラガラ音を立てて回転する。一寸先も見えない霧の中、森先生がかき分ける後を二人が続く。見えるのは道路のアスファルトの表面や、近くの木々のみで、和暉たちは自分たちがどこを歩いているのか分からない。そんな景色がしばらく続いた。

 途中、少し霧が晴れた場所へ出て、はじめて崖際を歩いていることに気づくのだった。守見子がつぶやく。

「すごい、雄大な景色ですね」

 崖の下は霧がかってその高さを不明瞭にし、山の斜面をなぞって遠くまで続いていた。その先に、千の鳥が群がったような雲海が、青々とした峻険(しゅんけん)たる山並みを根本から覆い、一座の頂のみを(くう)に残していた。眼前から遠方へ、延々と広がる白は彼らの遠近感を狂わせ、もはや霧と雲との見境は付かなくなっていた。自分たちの足が地に付いているのかすら分からない。そんな光景に、山上和暉の不安な心は更に曖昧模糊(あいまいもこ)なものへと誘われていくのだった。

「あのテッペンの白いところは万年雪ですよ」

「はあ、すごいですね」

 守見子がため息を漏らす。その後、深く息を吸ったあと、満足そうに大きく吐いた。

「にしてもここは本当に空気がおいしいですね」

「ハハハ!皆さん来た時、必ずそうおっしゃいますよ。ここらは大体海抜1350mありますので!ええ! 今日はあいにく霧が濃いのが残念ですが、いつもは麓の町までよく見えるんですがね、ハハハ」

「いつもこんなに霧が出るんですか」

「いやいやいや、今日はホント珍しいですよ。1年に1回あるかないか——、いやあ、お二人ともある意味ツイてますよ」

「あははは」

 守見子に合わせて、和暉も乾いた笑いをしながら歩いていると、前方の霧の中から二つの影がこちらへ向かってくる。双子だろうか。身長も格好も全く同じ、片側のお団子頭だけが左右反転したかのような横並びのシルエットだった。濃い霧のせいで、目前まで来てもその顔はぼやけたままだった。

「こんにちは〜」

「おぉ!こんにちは!」

 日本語だった。二人組の声はきれいに重なっていた。すれ違いざまに森先生がそれに応える。守見子と和暉も少しぎこちなく会釈した。

「うちの生徒ですよ」

 和暉は少しふり返って、ちらりと見てみる。

「あれ?転校生の子かな?」

「じゃない?」

 そんなささやき声を残して、二人組は白い霧の中へと消えていくのだった。

 どれほどの道を歩いたのだろう。どこまでも続く急勾配に、肌寒い気候にも関わらず守見子と和暉は汗を流し、息を切らしていた。しかし、森先生は大きなスーツケース片手に汗ひとつ流さず、声も歩調も変わらなかった。

「ここが広場です」

 気づけば足は、いかにもヨーロッパ風な石畳の上を踏んでいた。和暉は顔を上げた。

 山小屋風の建物が並び、フランス語の店名が掲げられている。どんぐり形のランプの街灯が立ち、窓辺には時々、赤いゼラニウムの花の塊が吊り下げられていた。スイス国旗の隣には、村章だろうか、緑の山に黒鷲が重なった旗がなびいている。広場の中心には、この二本の旗ポールと、花壇に囲まれた小さな石の噴水があった。中央の石柱に付いた四方の蛇口からは水が流れ、上には三段の土台に立ち、片手の剣を下ろした天使が、慈悲の眼差しでこちらを見下ろしていた。しかし、このメルヘンな村も、深い霧に沈んだ今は荒涼としていた。

「ここまで来れば、あとはもう楽ですよ」

 このような風景は、低地でも見てきた和暉だったが、いまだ遊園地の一画のように思えるのだった。

 

 ブロロロロロロロロロロロロロ——。

 ナットがいくつも付いたタイヤが回転する。一同は、シャトルバスに乗っていた。森先生と母親が学校についてしゃべり続けているかたわら、和暉は窓から外を眺めていた。かわいらしい家々に混じって、ある建物に目が留まる。大部分は木々に隠れていたが、頭巾のような鐘楼が飛び出ていた。

「次で降ります」

 バスは坂道の石段の前で止まる。降りた後、森先生は運転手に手を振った。バスは道の向こうへと走り去っていった。石垣の上の芝生の看板には、エーデルワイスのロゴと"Kimishi Academy of Switzerland"と、書かれている。一同は林の中の石段を上っていく。奥にそびえた建物は、霧と木々に遮られながらも、近づくにつれその全貌をあらわにした。

 建物は三棟が横並びになっていた。やや古びたベル・エポック様式の中央棟。くすんだ赤い瓦屋根と、モルタル壁の五階建て。正面中央、石のアーチが付いた突出部の上の三角屋根に、鐘楼が口を開けていた。各階からは、ロッジアの唐草模様の鉄柵が張り出している。先を細く伸ばした、背の高いイトスギの群生が、この棟の背後で炎のように揺らめいていた。中央棟の左右には同じ直方体の建物が二つ構えていた。

 正面入口の上には、小さく紋章が掲げられている。紋章の盾は四分割され、右上と左下には白十字と赤い太陽、左上と右下には黄色の線がそれぞれ左上から右下へ流れていた。そして、中央にはエーデルワイスが分割線をまたいで咲いている。和暉の左胸元のワッペンと同じものだった。

「どうぞ、中へ」

 そうして、森先生は厚い両面扉を手前に引いた。

 

 独特なカラーリングは、いつかに観たアメリカドラマの高校だった。真っ白な壁と天井。ところどころにカラフルなポスターやアートが貼られ、奥からは生徒のざわめきが響く。物々しかった外観とは打って変わって、清潔で明るい。突然の現代的な空間は、彼らの時空を切り替えた。

「おや、山上さんですね」

 奥からスーツを着たメガネの紳士が、こちらへ歩いてくる。

「お待ちしておりました、校長のエドワード・ベーレンスです」

「は、初めまして」

 汗も乾き切らないうちに、山上守見子は突然の英語に少し動揺しながらも握手をする。180cmはある高身長に、二人は顔を見上げていた。

「お二方、どうぞこちらへ」

 ベーレンスは、"PRINCIPAL"と書かれた扉を開いた。部屋には、窓を背にした法壇のような事務机の前に、小さな椅子が置かれていた。が、その横奥にある長机へ、ベーレンスは手を伸ばした。

「どうぞこちらにお掛けになって下さい」

 二人は、手前の椅子を引く。奥の壁には、縦三つに分割された大きなちぎり絵が掛けられていた。左は太陽、右は月の二つの円が描かれ、中央には湖を背にして黒い木々をまとった岩塊がそそり立つ。ベーレンスのセンター分けにされた、二つの弧を描いたブロンド髪の間に、その頂は収まった。

 和暉は座る寸前、端に揺れる黒いふわふわしたものに気がついた。荒い呼吸が近づいてくる。

 ハァハァ—— ハァハァ——。

「その子はリオンです」

 黒い大型犬が、白い鼻筋を向けて赤い舌を出している。黄色の眉の下の澄んだ瞳があまりにこちらを見つめるので、和暉は背をかるく撫でてみた。リオンは変わらぬ調子でどこかごきげんだ。やわらかな毛並みと、手に付いた臭い匂いは、彼をほんの少しだけ慰めた。守見子が言葉を挟む。

「人見知りしないんですね」

「ええ、とても人懐っこくて、やさしい子ですよ」

 こうして三者面談はゆるやかに始まった。ベーレンスは上流階級なまりで、速すぎず遅すぎず、単語を一音ずつはっきり発音しながら話した。中学英語を修めた者に、突破できなくもないセンテンスを和暉に振る。こうして彼は新入生に、少々の覚悟と歓迎を平等に与えるのだった。応えるのに必死な和暉が、この紳士の気遣いに気付くのはまだ先のことなのであった。

「彼の英語は高校生にしては無難なレベルだと思いますが、ここでの学校生活を通して更に良くなるでしょう」

「そうですか」

 金メッキの付いた黒縁メガネの奥から、青い瞳が慈しむように彼を見つめた。

「ヤマガミ アイキ……」

 ベーレンスが彼を呼んだ声が頭に響く。英語特有のイントネーションで呼び掛けらたことで、これまで意識してこなかった自分の名前の新しい響きに気付かされたような気持ちになった。これからは"和暉"ではなく、"アイキ"として過ごすと思うと、どこか不思議な感覚がするのだった。

「とうの昔に卒業していますが、以前にもあなたと同じ名字、同じ下の名前の生徒がいました…」

「…………」

リオンは机の脚のそばで、尻尾を丸めて眠っていた。

「ともあれ、あなたはこれから私たちの新しい家族の様なものです。

 キミシ・スイス学園へようこそ」

 そうして、ベーレンスは山上アイキの手を取って握手をするのだった。


 

 後半へ続く——。

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