13 鳴美をもとめて
「おいおい。もうやめなよ兄ちゃん。このままだと本当に地獄に行っちゃうよー」
地獄ラーメンの店主大仏君が、その髭むくじゃらの顔をくしゃくしゃにして僕を制止してくる。だが僕はその哀願を振り払い、二杯目の血の池ラーメンに箸をつけた。正確にいうと、隣の客の残したラーメンに。
これで地獄に行けるならいってやる。そんな気持ちだった。そうすれば鳴美にまた会えるかもしれない。いや、彼女はきっと天国にいるだろうからやっぱり会えないか。でも同じあの世なんだから、たぶん機会はあるだろう。
しかし地獄に行く前に、僕の体はこの食べ物を口にいれることを拒んだ。前回あんなに苦戦したこの激辛ラーメンは、今回もやはり僕の舌と脳を発火寸前までに追い詰める。二杯目の一口をすすると僕はそれを飲み込むことができずに咳き込んで、前回と同じくカウンターに倒れこんだ。
そういえばあのときの鳴美は、五感が麻痺しているみたいにうまそうにこのラーメンを完食したな。やはりあれは彼女が幽霊だったからか。でも、あの食べているときの表情も息づかいも、本物だった。彼女は確かに僕の隣で、このラーメンを一緒に食べたんだ。
「なんだってそんなに頑張るんだい。景品なんて出てこないぜ」
店主が困ったように眉を八の字にしてきいてくる。
「景品のためじゃないんだ。これでもし、彼女がもどるならと、思ったんだ」
わかっている。こんなことをしたって彼女には会えないことを。本当はただ、彼女が確かにそこにいたことを確かめたかった。だけど、それも自信がなくなってくる。今はもうそこにいないから。僕の記憶の中の彼女は時間と共にどんどん遠ざかり、あやふやなものになっていくのだろう。
僕は自嘲しながら、カウンターにお勘定をおいて立ち上がった。
「おい、大丈夫か。足がふらついているぞ。そんな体たらくでどこに行くつもりだい」
「新宿に。ケーキバイキングの店に」
無駄なこととはわかっている。しかし確かめずにはおれなかった。今の僕には、彼女と一緒にいったところをたどることしか、すがるものがなかったから。
〇
僕の話を聞き終わると、風間は思案気にランチのパスタを一口すすった。大学の学食は、僕の気持ちなんかと無関係に今日も賑やかだ。
「話はわかった。それで、俺に何をしてほしいんだい」
「お前さんは通信工学が専門だろ。その……死者と、通信する方法って、ないのかな」
地獄ラーメンとケーキバイキングをはしごした翌日、僕は仕事の空き時間を使って大学を訪ねた。鳴美との思い出をたどるためと、風間に会うために。風間ならこの現象にたいして何らかのヒントをくれるかもしれないと思ったのだ。そしてもしかしたら、科学の力で再び鳴美と交信できるかもしれない。そんな期待をも抱いていたのだが……。
しばらくの沈黙のあと、黙々とパスタのすべてをを腹に納めてから、彼はおもむろに答えた。
「ないね」
口調には、いかなる異論もさしはさめない断固としたものを感じた。たしかに、科学者がこんなことを肯定することを期待するなんて、馬鹿げているかもしれない。
「でも……」
それでも僕はなおも食い下がろうとする。でも、実際に僕は、死んだはずの鳴美と一緒にいたんだ。
「ちょっと落ち着きたまえよ君。ちょっと頭のなかを整理しよう」
僕が熱くなっているのを感じ取ったのか、風間は柔らかい声でそう言って、鞄からノートサイズのカレンダーを取り出した。
「鳴美さんが亡くなったのが四月三十日。君が彼女と再会したのが五月七日……」
彼の細い指が、カレンダーの数字の上を指してゆく。
「……君が最後に彼女と会ったのが六月十三日。そして、佐山君の結婚式が六月二十二日」
そしてしばらくカレンダーをにらんでいた彼は、やがてうめきながら顔をあげて僕を見た。
「この事から俺が考えられることはふたつだ。ひとつは、君が一緒にいた鳴美さんは、鳴美さんによく似た別人だった」
その仮説に僕は首を降る。僕が鳴美を見間違えるわけはない。ちなみに彼女には姉妹もいない。
「もうひとつは」
「もうひとつは、彼女はやっぱり亡くなっていて、でもこの世に思い残したことがあって君に会い、四十九日に成仏した」
そしてカレンダーの一点に指を置く。六月十七日。鳴美の命日から数えて四十九日後の日付。浩一の結婚式の五日前だ。
「鳴美さんの名が浩一君の結婚式の出席者リストになかったのは、彼女が招待状の返事を出す前に交通事故で死んでしまったから。そして君と行動を共にしたはずの彼女が結婚式に姿を現さなかったのは、その日にはもう彼女が成仏していたから。……そう考えることができる」
「成仏したなんて。じゃあ、もう僕は彼女には……」
どのみち彼女には、会うことができないということなのか。
風間の仮説は仮説でしかない。しかし彼女の死が現実のものならば、そう考えることが一番救われる気がする。彼女は望みをかなえて安らかに成仏したと。でも、僕はそれを受け入れたくなかった。彼女の死も。もう会えないということも。
「なあ。鳴美さんのことは気の毒だと思うし、君の気持ちもわからんでもない。だがな……」
身を乗り出した風間が、テーブルに頭をつけそうなほどにうつむく僕の肩に手をおいた。
「受け入れてあげることも大事なんじゃないか。彼女が成仏したことを」
〇
風間と話をしたその次の日は、会社を早退して公園へと向かった。
嫌な顔をするかと思った部長は意外にも気遣わしげに了承し、ついでに僕の広報部への転属の話をした。以前牧野に押し付けられた書き物がどうとか言っていたが、今の僕には興味もないことだった。もう、仕事をする気にもならない。鳴美がいないこの世界で、いったい何を頑張ればいいというのだ。
今日は梅雨の晴れ間で、この広大な緑地公園にも久しぶりの日差しが惜しげもなく注いでいた。五月に鳴美と来たときよりもさらに緑は濃くなり、草も葉もうっそうと生い茂っている。晴れていても大気はどこか湿っていて、葉や土の醸し出す香りが強く肌に絡み付いてくるようだった。
あの日鳴美と歩いた林の中の遊歩道を、今度は僕独りだけで歩いてゆく。歩道上に捺された木陰はあのときよりも濃く、そこに揺れる木漏れ日はさらに明るい。歩道の両脇に咲き乱れるのはツツジではなくアジサイだ。でも、風が頬をなでるたび、頭上で葉がささやき緑の甘い匂いが鼻先をかすめるたび、まるであの日の彼女が今も隣にいるような錯覚におそわれる。
「久しぶりだねー。昔よくここにきてぶらぶらしたよね。あのころと変わんないね」
「私も、好きだったよ。ヒロポンの吹くリコーダーの音色。特別だと思った」
「吹いて。これは君のリコーダーだよ」
「ごめんね。うまくいえないんだ」
「ありがとう。吹いてくれて。やっぱりダメかと思ったんだ。でも、どうして吹いてくれたの」
目を閉じれば思い出す。鳴美のかつては見せたことのなかったあの寂しそうな笑み。あの笑みの意味は、それだったのか。死んでいたから。自分がもう、この世のものではなく、もうすぐ消えてしまわねばならないから。やっぱり彼女は幽霊だったのか。だとしたら……。
遊歩道から芝生広場を抜け噴水わきのベンチに座った僕は頭を抱えた。
鳴美が見せた表情。五月晴れの笑顔。そして彼女の息づかい。触れた手の感触。賑やかな声……。そのすべてを僕は鮮明に思い起こすことができる。この手に、目の裏によみがえらせることができる。あれが幻だったなんて思えない。この手が、目が、耳が覚えているんだ。確かに彼女はあそこにいた。僕のとなりにいて、笑い、食べ、そして歌ったんだ。
そのとき突然、僕の心の叫びに反応するように、ポケットの中のスマホが振動した。
慌てて取り出したそのスマホのディスプレイをみて、僕の体は硬直する。そこに表示されていたのが、鳴美の名前だったから。