10 ケーキバイキング
新宿のとあるビルの高層階にあるそのレストランに入ったとき、僕は強烈な既視感におそわれた。
「わー、すごいすごい。綺麗ー。景色いいー」
僕の戸惑いなどお構いなしにはしゃぐ鳴美に腕を引っ張られ、ホール内に足を踏み入れる。
主に女性客で賑わう休日昼のレストラン。暖かい色のライトに照らされた落ち着いた雰囲気のホール。花の盛られた飴色のテーブルたち。色とりどりの可愛らしいケーキがところせましと並ぶカウンター。あの地獄ラーメンとは正反対だけど、やはり僕ひとりでは絶対にこないような場所だ。
「どうしたの? ぼーっとして」
不審に思ったのか、鳴美が目をぱちくりしながら顔を除きこんでくる。
「なんでもない。ほれ。お望みのケーキを心ゆくまで堪能するがいい」
そうそう。今日はなんの目的もない。ただの鳴美の付き添いだ。ついでに僕も久しぶりに優雅な気分にひたるとしよう。
〇
はたからみたら、こういうのはデートというふうに映るのだろうか。おしゃれなレストランで若い男女が向かい合ってテーブルに座っている。それだけで、そういった甘酸っぱい雰囲気を想像する人は多いのかもしれない。
しかし、僕と鳴美の場合は別だ。そんなデートと呼べるような、どこかくすぐったい恥じらいを含む言葉を、我々のテーブルを見て思い浮かべる人は希少だろう。
「おまえ。しかしそれはとりすぎじゃないか」
山のようにケーキの盛られた鳴美の皿をみて、僕は思わず苦笑してしまう。宝石箱のような可愛らしいケーキたちが、無造作に積み重ねられた鳴美の皿。僕にはわかる。彼女はこれからそれを獲物を捕らえた豹みたいにむさぼり食うんだ。甘いものならなんでもいいと言わんばかりに。これじゃあ、シェフも浮かばれない。なんか今から、僕の方が胸やけしてきそうだ。
案の定、鳴美はおよそ乙女とは思えぬ食いっプリで、僕ばかりでなく休日の優雅な午後を過ごさんと集った淑女たちを唖然とさせた。
「ほれ、ふっごくおいひぃ~」
本人は己に向けられる視線も、このテーブルをドーナツ状に取り巻くしらけた空気も気にすることなく、頬張ったチョコケーキの甘さに目をとろけさせる。
「行儀が悪いぞ。口にものを入れてしゃべるな」
「へへー。ひひひゃないろ。おいひいんらからそのかんろうを……」
もはや解読不能の言語を吐き出しつつ、次のイチゴのムースにフォークを突き立てる。今、口に入るのか、それ。という僕の懸念はどこ吹く風で底無し沼のように彼女の口はその薄ピンクの塊を吸い込む。
あっという間に一皿平らげて、彼女はまた次の獲物を求めてカウンターへと向かってゆく。
そんな彼女の姿を眺めながら、僕はむしろ感嘆の声を漏らしてしまう。やれやれ、あいつの腹は無尽蔵かよ。ここまでくると、いっそ清々しい。
そのペースについてゆく気にもなれず、コーヒーカップを脇に置いた僕は鞄からルーズリーフを一枚取り出した。以前牧野から押し付けられた広報部の依頼記事だ。大体書き上げてあるがちょっとここで手をいれておこう。
「なにそれ。スピーチの原文?」
戻ってきた鳴美が、脇から僕の手元をのぞきこんだ。
「いいや。ごめんよ。違う頼まれもので、挨拶文に取りかかる前に片付けちゃおうと思ってたんだ」
そう答えながら、僕は黙々とペンを紙に滑らせる。いいぞ。言葉がするする出てくる。この文は削って、ここの表現は訂正。この言葉はもうちょっと違う単語に置き換えて……。
静かなのが気になって顔をあげると、いつのまにか席についていた鳴美と目があった。彼女はテーブルに頬杖をついて目を細めて僕のことを見つめていた。
「どうした?」
僕の問いかけに彼女は満面の笑みで応え、うふふーんなどと気持ちの悪い笑い声を漏らした。
「べっつにー。いい顔してるね、ヒロポン。その調子で挨拶文もたのむぞ」
「おうよ。まかせておけ」
新たなケーキを口に詰め込んだ鳴美は、頬をリスみたいに膨らませたまま、また目を細めた。その顔がおかしくて、僕は思わず笑い声をもらす。
口の中のものを飲み込んだ鳴美も、楽しそうに頬をほころばせる。
「ヒロポンはもうごちそうさま?」
「うん。お腹一杯だ」
「君は少食になったねぇ。もうひとつ食べなよー。糖分とって、脳に栄養をいきわたらせるのだ。いい文章書けるようにね」
そう言って、自分の皿から僕の皿にショートケーキをのせてくれる。乗り出した彼女の顔が近づき、ショートボブの髪がゆれ、クリームの甘い香りと一緒にシャンプーの爽やかなにおいが鼻先をかすめる。また、僕の胸が鼓をうつ。
「おまえへのお礼のつもりだったけど、これじゃあ、僕の壮行会もかねてるみたいだ」
僕の軽口に、身を乗り出したままの鳴美は上目遣いに僕をみて、愉快そうに目を細める。
「いいね。いいねー。じゃあ、そういうことにしよう。それじゃあ、ヒロポンの壮行会あんど、なるミンへのお礼ということで、カンパーイ」
椅子に座り直した鳴美はコーヒーのカップをとって酒のグラスみたいにかかげてみせる。それにならって僕も、己のコーヒーカップをかかげる。
お互い笑い合い、コーヒーをすすりながら、僕は思う。
ああ、数週間前には全く想像できなかった場面だな、と。笑ったり、はしゃいだり、怒ったり……。そういったいろんな感情を僕はかつてすっかり失っていた。僕は生きていたけれど、僕の感情は死にかけていた。その死にかけの心に、鳴美はまた命を吹き込んでくれた。まるで枯れかけの花に水を与えるように。多少強引だったけど、鳴美と再会してこの数週間、僕はどれだけ彼女に救われてきただろうか。
そのときふと、学生時代の一場面が僕の脳裏によみがえった。
そう、あれは、大学三年のクリスマスの時だった。当時付き合っていた子にふられた僕は、絶望にうちひしがれて何日も学校を休んでいた。そんな僕を心配して外に連れ出してくれたのが、浩一だった。そして二人で行ったのが、こともあろうにクリスマス客で賑わうケーキバイキングだった。
このお店に入ったときの既視感は、それだったのか。
ようやく納得しながら、僕は噛み締める。僕は、友達に恵まれたのだな、と。うちひしがれたとき、こうやって、僕を救い出してくれる人がいる。それはなんてありがたいことなんだろう。僕は、なんて恵まれているのだろう、と。
「どうしたの、ヒロポン?」
鳴美の声で僕は我に返る。
「もうひとつ、コウちゃんとのエピソードを思い出していた。結婚式が終わったら、今度、コウちゃんとも来ような」
「そうだね」
柔らかくほほ笑んだ鳴美が、フォークでケーキの欠片をいじりながら視線を下げる。その表情がなぜか、とても寂しそうなものにみえた。あの公園でリコーダーを吹いた日、その理由を聞いたときに見せた表情のように。
しかしその表情をみせたのは一瞬で、すぐに鳴美は満面の笑みで皿をもって立ち上がった。
「よし。じゃあ、コウちゃんの分まで食うとするか」
「おいおい。このままじゃ、この店つぶれちゃうよ」
そして目をあわせ、何事もないように笑いあった。
〇
「それじゃあ、今日はありがとね。ヒロポン」
ぞんぶんにケーキバイキングを堪能した後、御苑をぶらぶらしてから、新宿駅の南口の前で鳴美とわかれた。
結局、あの寂しそうな笑みのこともきかなかった。時間をおいてみると、表情の角度がつくる錯覚だったと思えた。
改札で別れるとき、何となく離れづらくて、まだ話したいことがある気がするのに、なにも言えなかった。改札に向かう彼女の背中に何度も声をかけようとして、しかしそのたびに飲み込む。そうやってためらっているうちに、彼女の姿は人混みに紛れて消えてしまった。
ありがとう。
その一言だけでもかけるべきだったのに。そんな後悔がひとりになってからわきおこったが、無理矢理胸におさめた。たぶんまた会えるだろうから、少なくとも結婚式で会うだろうから、そのときに伝えればいい。そう、自分に言い聞かせて僕もまた、私鉄の改札へと向かった。
〇
何回目かのコール音が途切れると、記憶にあるのと変わらないバリトンの声が、その声の主の名を名乗った。
「はい。佐山です」
「コウちゃん。俺だよ。博文だ」
僕が自分の名前を言うと同時に、スマホの向こうの声は喜びを含んでワントーン高くなった。
「おお。久しぶり。元気か」
「うん。まあまあだね。遅くなったけど、結婚、おめでとう」
「ありがとう。あと、挨拶も引き受けてくれてありがとうね」
学生の頃と変わらない、親愛に満ちた声に、僕の胸はちょっと熱くなる。
「こちらこそ。精一杯つくるよ。ああ、そのためにひとつ知りたいことがあって。君の奥さんは、どんな人?」
少し考えるふうに間があって、やがて笑い混じりの声で彼は言った。
「親友のような人だね。君と鳴美を足して二で割ったような」
僕も思わず吹き出してしまう。
「なんだよ、それ」
「なつかしいな。鳴美も、元気かな」
「最近ときどき会うよ。挨拶文をつくる手助けをしてくれているんだ」
「楽しみだよ。また会えるのが」
「僕もだ。じゃあ……」
電話を切るために挨拶を言おうとして、しかし僕はそれをいったん飲み込んだ。その前に伝えておきたい言葉があったから。
「……ありがとう。この役に僕を選んでくれて」
スマホを机の上において自室の窓を開けると、湿り気を含んだ初夏の夜の涼しい風が穏やかに吹き込んできた。その空気を大きく吸い込む。新鮮な空気と共にいろんなことが血液にのって脳を駆け巡る。学生時代の想い出、最近鳴美と一緒に見聞きしたこと……。それらのものを大事に抱きながら僕はまた机に向かう。ボールペンをとり、紙の上にはしらせる。結婚式はもうすぐに迫っていた。