01 鳴美との再会
「お前、あの資料作成にいつまでかかってんだ!」
静かなオフィスに部長の怒鳴り声が響く。何度くらっても慣れない怒鳴り声。反射的に肩をすくませた僕は言い訳を試みるも、声が喉につかえてうまく出てこない。
「い、いや。で、ですから電話対応と……」
僕がようやく絞り出した言葉はしかし、部長の押しかぶせるような声によってあえなく潰される。
「うるせぇ。だいたいお前は何するにもとろいんだよ。顧客対応も全然なってねえし、数字も全然取れねえ。いったい何年この仕事やってるんだ」
僕はうなだれて、神妙に部長の説教を拝聴する態勢に入った。こうなるともう、一時間は彼のデスクの前に釘付けだ。部長は自分のデスクを丸めた資料で時々叩きながら小言を続ける。背後からは同僚からの嘲笑と憐れみの視線。きっと若い人なら耐えられまい。だが僕にはいつものことだ。この会社に入って十年。すでに三十を超えた僕は、この地獄のような時間を半目で修行僧のようにやり過ごす術を身につけている。部長の手から丸めた資料を奪い取ってその薄くなった頭をぶっ叩いてやるのは、妄想の中だけにしておく。
ようやく説教が終わって自分のデスクに戻ると、パソコンの上に見覚えのない紙の束が置かれていた。
「ああ、それ。俺の今度のプレゼンの資料です。俺忙しいから、先輩コピーとっておいてください。そんぐらいの仕事はできるでしょ」
振り向くと隣の席の牧野が僕を見上げて、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。その偉そうな顔に、僕は手にした彼の資料の紙束を投げつけて……と、それはいつものように妄想にとどめておこう。実際は何も言い返せず、ため息とともに後輩に指図されるまま、すごすごとコピーを取りに行くのだ。まるで負け犬のように。
……いや、負け犬のように、ではない。僕は実際、正真正銘の負け犬だ。この会社に営業職として入って数年、僕はさんざん自分のだめっぷりを思い知らされて生きてきた。ノルマは達成できない。命じられた仕事は遅い。商品の説明がうまくできなくて顧客から失望されたことは数限りない。おまけにコミュニケーションが下手で同僚ともうまく連携が取れない。部長の小言は全部あたっている。僕は社会人として失格……、いやきっと社会人としてだけではなく、人としてどうしようもないダメ人間なんだ。
夢だとか希望なんかない。僕なんかきっと、死んでしまったほうがいいに違いない。だけどそんな勇気もなく、ただ疲れ切った心と体を引きずって、死んだように生きていく。
〇
「今日、ちょっと飲んでいこうぜー」
「この前地下街にできたカフェレストランがさー」
仕事から開放された同僚たちの弾んだ声が、就業後のオフィスビルのエントランスホールに響いている。人生を謳歌している人々の、エネルギーに溢れた足取りと声。もちろんそれは僕とは無縁だ。これからアパートに帰って独りコンビニ弁当を食べ、寝る。それだけ。そして朝起きて、会社に行き、怒鳴られ蔑まれバカにされるのに耐えながらのいち日を過ごす。その毎日の繰り返し。考えることなんてその日の夕飯は何弁当にするかぐらい。
……だから、ビルから夜の歩道に出たとき、僕はその声を一度聞き逃してしまった。だって思いもしていなかったんだ。こんな毎日の繰り返しの中で、僕を呼び止める人がいるなんて。
しかし彼女は何度も呼びかけてくれた。だからうかつな僕でも、気がつくことができた。
「ヒロポンでしょ。やっぱりそうだ。ヒロポンだ。久しぶりー」
立ち止まってようやく振り向いた僕の顔を覗き込んだ彼女は、そう言って子供のように飛び跳ねた。ヒロポン。僕の学生時代のあだ名を連呼して。懐かしそうに目を細めて。
「……なるミン、か」
何年ぶりかに呼ばれたあだ名の響きと、その女の顔の懐かしさに、僕も思わず彼女をあだ名で呼び返す。なるミン。安田鳴美。彼女は僕の幼馴染だった。
〇
「そうそう、それでさ。かばんの底に忍ばせてたのに、結局お酒みつかっちゃって、没収されたよね。あんときのヒロポンの顔がおかしくってさ。未だに忘れらんないよ」
鳴美はそう言って二杯目のジョッキを飲み干すと、ケタケタと笑い声を上げた。駅前の居酒屋は週末ということもあってにぎやかだ。居酒屋なんて入るのはいつぶりだろう。テンションの高い人の集まるこの場は、今の僕が最も避けねばならないエリアだったから。しかし渋る僕を半ば無理矢理にここに連れ込んだ彼女は、昔のようにとりあえずビールを二杯頼んで思い出話を始めた。
鳴美と会うのは大学を卒業して以来だ。彼女は鎌倉に住んでいて、僕のアパートのある街は東京郊外の埼玉との境辺りだから、あまり会う機会がなかった。ここは神奈川への交通の便が悪く、近いようでいて鎌倉とは遠いのだ。さらに社会人になってからのすさんだ心が、かつての同級生と会うことを拒んでいた。今の自分のことなんか聞かれたくもないし、話したくもない。だが、ありがたいことにお互いの近況報告は、
「ヒロポン今何してるの」
「会社員」
「そっか。私フリーター」
で終わってしまった。鳴美が今のことを根掘り葉掘り聞き出そうとせずに、学生時代の話をしてくれることはありがたかった。だから、逃げ出さずに一緒に飲もうという気にもなれたのかもしれない。
鳴美はあの頃と変わらずに明るくてあっけらかんとしていて、その笑い声を聞いていると一瞬あの頃に戻ったような気にもさせられる。昔のようにショートボブの髪の毛先をゆらして。大きく口を開けて。
「お前。相変わらず食べるの下手だなあ。どうしてただのいちごのタルト食べるのにこんなにテーブルが散らかるんだ。しかもビールにタルトって……」
「え? いいじゃん美味しいよこれ。ほらほら、ヒロポンももっと食べなよー。肉食え、肉。肉食べないと死んじゃうよ」
死ぬかよ。そう言い返す僕の頬が思わず緩む。その刹那、懐かしさがぬくもりをもって僕の胸の底に灯る。こんなどうしようもない僕の、つかの間の現実逃避。
しかしその考えは甘かった。現実逃避の時間は、鳴美の発したある人物の名前により終わりをむかえた。
「そういえば、コウちゃん結婚するんだってね。おめでたいねー」
コウちゃん。佐山浩一。僕の学生時代の親友。大学卒業してからもはじめのうちはたまに会っていたが、次第に連絡を取らなくなり、今ではすっかり疎遠になってしまった。理由は僕だ。仕事がうまくできなくて、少しも成長できずに落ちこぼれていく自分が恥ずかしくて。順調に会社と仕事に順応して成長していく彼と一緒にいると、なんだか自分がますます惨めで、情けなくて。僕の方から距離を取るようになった。
そんな彼から結婚式の招待状が来たのは先週のことだ。やっぱり彼はしっかりしている。経緯はわからないけど、仕事だけでなく恋愛も順調にして、順調に結婚もして……。僕とはあまりに違いすぎて、羨ましさを通り越して妬ましい。結婚式には行くつもりはなかった。そんな順調な彼の羨ましい姿を見て、ますます惨めな気持ちになりたくなかったから。
「ねえ。ヒロポン、頼まれたんでしょ。友人代表の挨拶」
鳴美の言葉に、ジョッキを握ったままうつむきかけていた僕は、はっと顔を上げた。彼女も空っぽのジョッキを握りしめ、真剣な表情で僕を見つめている。
「な、なんでお前がそんなことを」
「ねえ。書いてよ。挨拶」
「で、できない!」
反射的に答えた僕はジョッキに残っていたビールを飲み干して立ち上がった。
「悪いけど、先に帰る」
財布からお札を一枚出してテーブルの上に叩きつけてから、僕は店を飛び出した。
〇
鳴美は追ってこないだろうと思っていたのに、駅ビルに入る直前で追いつかれた。
「なんだ。釣りはいらないぞ」
「はあ? 逆なんですけど。千円札一枚で何いばってんの。払ってくださいあと三千二百六十円」
むう。一万円出したつもりが千円だっとは。何たる恥晒し。そそくさと財布の中を弄る僕の耳元で、鳴美は心配そうな声を出す。
「ねえ。書いてよ。あんなに仲良かったじゃん」
「……今は、違う」
「でも……」
「お前に、今の僕の何がわかるってんだ!」
大きな声を出してしまった。駅に出入りする人々が顔をしかめて僕を見る。そんなことは構わずに、僕は鳴美をにらみつける。悲しそうに眉をひそめる彼女の鼻先に五千円札を突き出して、僕は言い放った。
「ありがとう。今日は楽しかったよ。でも、もう僕には関わらないでくれ」
お札を彼女の手に押し付けて、僕はその場から走り去った。もう僕のことは構わないでくれ。僕のことはほおっておいてくれ。こんなだめな人間のことなんかどうかもう、忘れてくれ。僕はもう、君たちとは違うんだ。君たちと同じ光の中にはいないのだから。そう胸のうちで叫びながら。
駅のホームでようやく振り返る。鳴美はもう、追ってこなかった。
〇
翌朝、僕はいつものように朝ごはんを食べ、顔を洗い歯を磨き、着替えを済ませてアパートを出た。なるべく前の晩のことは思い出さないようにして。鳴美からいくつかメールが来ていたが全て無視した。どうせすぐに忘れる。小石を投げ入れて水面にできた水紋のように。彼女のことを考えたって、僕の人生は変わりはしない。今日も明日も、同じようなつまらない日がいつまでも続くだけなのだ。ただ心を殺して今日という日を凌ぐだけ。そのためには鳴美と……過去と関わっても、しょうがない。
降り注ぐ五月の明るい日差しに思わず彼女を思い出しそうになるが、頭をふってアパートの外階段を一気に降りる。しかし道に出たところで、僕の体は硬直して動かなくなった。
「な、なんでお前がここにいる」
「へっへー。ちょっと、付き合ってほしいんだー」
そう言って鳴美はニヤリと笑った。