宮本栞の偽名
周囲に落下している粉々になったガラス片。目の前では栞が出入りしていた探偵事務所が文字通り炎上している。まさかあの事務所の中に藤岡がいるのではないか。そんな予感がして栞は思わず悲鳴を叫ぼうとした。しかしその彼女の口は誰かの手によって塞がれてしまう。黒いスーツの裾が彼女の瞳に移り、栞は両目を大きく見開く。
「一緒に来てほしいっす」
背後から先程出会った黄色いネクタイの男の声が聞こえ、栞は立ち上がり黒ずくめの男と共に野次馬から離れた。
それから栞はなぜか近所のカラオケボックスに連れてこられた。夏休みということもあって、満員ではないかと思っていたが、運よく一部屋は確保されている。
二人は受付を済ませ、カラオケボックスという密室に籠る。
「どうしてカラオケボックスなんですか?」
二人にしては広すぎる十畳以上ある部屋に通された栞は、適当に座り首を傾げる。
「奢るから別にいいっすよね」
「そういう問題ではありません」
「一般人の情報協力者とは、こうやってカラオケボックスで接触することが多いっす。スパイの基本っすね。仲間は爆破事件の調査で出かけてるから、今のところ二人きりっす」
「そう」
短く答え栞の正面に黄色ネクタイの男が座る。その後で栞は携帯電話を取り出し、藤岡に電話した。しかし電話は何度かけ直しても繋がらない。栞は嫌な予感を覚え、視線を男に向けた。
「爆破事件って藤岡さんの探偵事務所が爆破された事件のことですか?」
「そうっすよ」
「それにしても、対応が早過ぎませんか。事件が発生したのは数分前のことでしょう」
「暗部絡みの事件が発生したら、警察よりも早く真実を突き止めて、事件自体を迷宮入りさせる。それも組織の仕事の一つっす」
黄色いネクタイの男が堂々とした態度で説明する。その直後黒スーツ男の携帯電話が鳴り、二つ折りのそれを開き耳に当てる。
『俺だ。どうやら探偵事務所から男性の焼死体が発見されたらしい。被害者は男性一名。焼き焦げたドアの鍵穴には外側から抉じ開けたような痕もあって、室内には曲がった針金もある。以上だ』
赤ネクタイの男の電話は一言で切れ、黄色いネクタイの男は顎に手を置く。
「問題は誰の仕業かっすね」
黄色いネクタイの男が視線を栞に向けると、助手席に座っている彼女の体は小刻みに震えていた。その両目には涙が溜まっていて、今にも泣きだしそうだ。
「どうしたっすか」
「探偵事務所から男性の焼死体が発見されたんですよね。それが藤岡さんだったとしたら、怖くなって。犯人は暗部の人間だってことは分かるのに、悔しい」
「随分と大雑把な推理っすね。今は現場に潜入している仲間からの情報待ち……」
「残りの二人。青いネクタイとピンクのネクタイの男はどこにいるんですか?」
栞は涙を溜めながら、黄色いネクタイの男の声を遮り、尋ねる。
「ピンクはアジトでハッキング中っすよ。防犯カメラの映像を抜き取って映像を解析しているはずっす。青は爆破現場の周辺で聞き込み捜査っす。赤は現場に乗り込んで潜入捜査っす」
「結構本格的な捜査なんですね。それで黄色いあなたが私を保護する役割ということですか」
「正確には二人で協力して警察よりも早く真実を推理するのが役割っす」
「現役女子中学生に事件の捜査をさせるなんて……」
栞が最もなことを口にすると、黄色いネクタイの男は人差し指を立ててみせた。
「今年の四月に殺人事件の捜査をしたこともあるって聞いたことがあるっすよ。的確な推理で犯人を追い詰めたって。あの暗号を解読するほどの実力があるから、ただの女子中学生だとは思っていないっす」
「ただの女子中学生はこっちの世界に首を突っ込まないでしょう。ところであなたは私の名前を避けて私と会話しているけれど、どうして?」
「言いにくいからっすね。コードネームがあったらそれを呼べばいいっすけど、末端構成員ともなると呼び方に困るんすよ」
男の言葉を聞き、栞は藤岡の言葉を思い出す。
「暗部では本名を明かす習慣がないからな。普通はコードネームか通り名で呼び合う」
最初に探偵事務所で行われたやり取りが蘇り、栞は首を縦に振った。
「それだったら通り名で呼んでください。暗部では本名を明かす習慣がないんでしょ」
真顔で言った栞の言葉を聞き、黄色いネクタイの男は笑みを零す。
「通り名というのは、自然に出来上がる物で自分から作る奴じゃないんすよ。ここはポピュラーに偽名を名乗った方がいいっすね」
「偽名」
栞は一言呟き、瞳を閉じる。暗部を知らない人々を巻き込むわけにはいかない。周囲の人々の平和を守るためには、宮本栞とは別の名前と経歴が必要になるだろう。
そんなことを考えていると、突然彼女の頭にある名前が浮かんだ。
「小早川せつな」
「誰っすか?」
黒スーツの男が首を傾げる。
「私の偽名ですよ。何か咄嗟に浮かんだ苗字と名前を合わせただけですが、どうですか?」
「小早川せつな。いいんじゃないっすか。今度から小早川さんって呼ぶっす」
爆破事件のことを忘れて楽しそうに会話していた栞だったが、一瞬何かを忘れているような気がした。栞はそれが何なのかが分からず、眉間にしわを寄せる。
隣に座る黄色いネクタイの男が栞のことを心配していると、突然彼の携帯電話が振動する。
「なんすか。小早川さんと楽しく話していたのに」
少々キレ気味に黄色いネクタイの男が受話器越しに電話相手に話す。
『誰ですか? まさか仕事をサボって可愛い女の子とデートしているのですか?』
受話器から漏れて来たのは、青いネクタイの男の声だった。
「違うっすよ。数時間前に会ったウリエルの娘の偽名っす」
『あの女と合流できましたか。それでは本題に入ります。爆破事件が発生したのは、午後三時頃。今のところ不審者が現場付近にいたという情報はありません』
「それだけしか分からないんすか」
『車内で安楽椅子探偵をやっているあなたに言われたくありませんね。警察に気づかれずに目撃者を捜しているので、苦労しているんですよ』
栞が探偵事務所に駆け付けたのが、午後二時頃。その直前に爆発音を栞は聞いていた。だから青ネクタイの証言は正しいと栞は思った。しかしそれとは裏腹に、妙な違和感を栞は覚えた。
違和感は栞が忘れていることに繋がっているような気がする。そう思った栞だったが、まだ謎の正体は分からない。
「そんなことよりザドキエルの足取りを調べた方が……」
黄色いネクタイの男の言葉で、栞は違和感の正体を突き止めた。栞は突然受話器を取り上げる罪悪感を覚えながら、隣の席に座っている黄色ネクタイから携帯電話を奪う。
「すみません。一つだけ教えてください。藤岡さんは自動車を持っていますか?」
『持っていませんよ』
「それでは現場付近にタクシーは停車していませんでしたか?」
『そんな証言はありませんね』
「ありがとうございます」
栞は図々しく携帯電話の通話ボタンを押し、電話を切った状態で、それを黄色ネクタイに返した。
「どういうことっすか」
「裏組織の幹部は警戒心が強いから、爆弾で死ぬはずがない」
断言した栞の表情を見て、黄色ネクタイが笑う。
「偏見が混ざった推理っすね。確かに幹部クラスの連中は異常に警戒心が強いっすけど、万が一ってこともあるっすよ」
「それでもおかしいですよ。私が自宅に帰ったのは午後一時三十分。それから二十分間叔父さんと話して、午後一時五十分に家を飛び出した。そして事件発生時刻は午後二時頃。私が自宅に戻った時に藤岡さんとマンション前ですれ違ったから、その後で探偵事務所に戻ったはずなんです。事件現場の探偵事務所と私が暮らすマンションの距離は、信号で止まる時間を考慮して二十分程。私のように走って探偵事務所に行ったら十分程に短縮されるけど、いずれにしても十分間以上二十分未満の空白が生まれるんです。その時間帯。彼は何をやっていたのでしょうか?」
「分からないっすね」
「それに現場のドアは外側から抉じ開けられていたんでしょう。警戒心が強い人だったら、この場合ドアを開けるはずがないと思います。誰かが忍び込んでいてるかもしれないっていう心理が働いて」
「それは偏見っす」
「現場に残された曲がった針金はどう思いますか? もしかしたら犯人が残した遺留品かもしれません」
「犯人がそんな分かりやすい遺留品を残すはずがないっす。きっと爆破したら証拠が残らないって思って回収しなかったんじゃないっすか」
「本当にそうでしょうか?」
栞は爆破事件が仕組まれた物ではないかと疑っている。何かがおかしいと考え込んでいる栞の横顔を見ていた黄色ネクタイの男の携帯電話が震えた。男は慌てて携帯電話を耳に当てる。するとピンクネクタイの男の声が聞こえた。
『事件現場の1階エントランスホールに設置されていた防犯カメラの映像の解析が終わりましたよっと。残念ながら他の隠しカメラは修理中らしいから、これで精一杯ですよっと』
「それだけっすか」
『容疑者を特定しましたよっと。爆破事件発生五分前。午後一時五十五分頃、一人の男が探偵事務所を訪れたっぽいですよっと。ちゃんとエレベーターに乗り込んだところも映っているし、今頃警察は容疑者の男を探しているはずですよっと』
「ああ、警視庁の鑑識の中には防犯システムの解析が上手い奴がいるからっすね」
電話の声が漏れたためか、栞は話したそうに上目遣いで男の顔を見つめた。男は自分の携帯電話を差し出し、それを彼女に渡す。
「一つだけ教えてください。防犯カメラの映像には藤岡さんは映っていませんでしたか?」
『そういえば映っていなかったですよっと。もしかしたら非常階段経由で出入りしたのかも。あの映像には容疑者が爆破直前に探偵事務所から脱出する様子も映っていなかったから、犯人も非常階段を降りて現場から立ち去ったと思いますよっと』
「ありがとうございます。えっと。もう話すことはありませんよね。黄色い鴉さん」
「そうっすね。とりあえず容疑者の男の写真を送ってほしいっす」
『もちろん送りますよっと』
黄色いネクタイの男の声もピンクネクタイには聞こえていたのかと思い、栞は目を点にした。電話を切り、男は助手席に座る栞と顔を合わせる。その直後、男の携帯電話にメールが届く。
メールは文面がなく、黒いスーツを着た大柄な体型に坊主頭の男の写真が送付されていた。
「この男が容疑者っすね」
黄色ネクタイの男が何となく呟き、栞は男の携帯電話の画面を覗き込む。
「えっ」
栞は驚きの表情になり、思わず画面を二度見した。
「どうしたっすか」
「勇伯父さんです。どうして……」
沈黙の空気が数秒程流れ、栞は男に右手を差し出す。その顔付きは驚きではなく、何かを思いついたかのようだった。
「ピンクネクタイの方と青ネクタイの方に連絡してください。気になることがあります」
「何っすか?」
そう言いながらも男は携帯を操作して、ピンクネクタイの男に電話した。ワンコールで繋がると、そのまま携帯を栞に手渡す。
『もしもし』
「単刀直入に聞きます。現場から半径一キロ以内の防犯カメラの映像を全てハッキングで入手できますか?」
『そんな無茶ブリできませんよっと。でもサマエルならできるかも』
「サマエルに連絡して映像を入手してください。その映像を頼りに容疑者の足取り捜査をお願いします」
栞は指示を与えた後に、青いネクタイの男に電話する。
「容疑者の男の写真は入手しましたか?」
『ピンクから受けとりましたよ』
「それなら話が早いです。防犯カメラが設置されていない裏路地をメインに、この男の目撃証言を調べてください」
栞は携帯電話を切り、黄色ネクタイにそれを返す。
「まさかここまで大がかりな捜査をするとは思わなかったっす」
「やっぱり使える人が使わないと。ところでサマエルというのは誰ですか?」
栞は笑顔を聞き返す。
「ああ、組織の天才ハッカーっすね」
「その方に会えたら、御礼を言いたいです。これで捜査が進展しますから」
退屈な時間が数十分間流れる。会話も付きカラオケの器械に黄色ネクタイの男が手を伸ばそうとした瞬間、机の上に置かれた携帯電話が振動する。
「もしもしっす」
男が慌てて電話に出る。その相手はピンクネクタイの男だった。
『映像の解析が終わりましたよっと。事件発生直後、近辺の防犯カメラ全てに、容疑者は映っていませんでしたよっと』
「分かったっす」
男は電話を切り、目の前の席で退屈そうにしている栞に報告しようとする。しかし栞は納得したように腕を組んでいた。
「やっぱり。これで事件を解決するために負うべき謎が何なのかがハッキリしましたね」
「サッパリ分からないっす」
「どうして勇伯父さんは藤岡さんの探偵事務所を訪れたのか」
大きな謎を呟いた栞は、真剣な視線で目の前にいる男の顔を見つめた。
次回は最終回です。