第百十話 厚き情け
「ワト、行こうか」
「はい、井戸の魔法師の所へっすね」
ジュンはワトを見て笑顔を浮かべる。
「水の妖精の所へだよ」
「あ、そうだったっす」
外から見えなかった島の大きさは、島にいると分からない。
ただ、二人が海辺に背を向けた先には、木々が生い茂り、さらにその先には山が一つ、裾を緩やかに広げていた。
「アネモスの所と違って、魔物の気配はあるね。大きい気配はないけれど」
「島っすから、鳥系は確実にいると思ったっすけど、ここも結界っすかね?」
「うん。僕らには島が見えなかったからね。これだけの自然があるから、魔物の役割もあるんだろうね」
二人が奥に進む間に、魔物の姿は見かけたが、ほとんど襲ってはこなかった。時折襲ってくる魔物を排除しながら二人は進んだ。
丸一日掛けて、二人は山の麓にたどり着いたが、何の情報もない島で何かに出会うには、余程の強運が必要であると思い知らされたようである。
「主、明日は山に登りませんか? 高い場所から島を見るのはどうっすか?」
「そうしようか。この高さならゆっくり登っても、半日ほどだね」
二人は山の麓でテントに入った。
「明日は、頂上でお弁当を食べよう」
「サンドウィッチっすか? ハンバーガー?」
「たまに、米はどう? 子供の頃に食べた弁当が食べたくてね」
「それは、興味があるっす。オレ、拠点では主の次に、米好きっすから」
次の日はいつものように、早朝のトレーニングを終えたジュンは、弁当の支度に取りかかる。
「弁当は開ける楽しみがあるからね。ワトが起きる前に作りたい」
ジュンはポテトサラダとナポリタンを同時進行で作り、卵焼きを焼いた。
白身魚に下味を付けてデンプン粉を付けて揚げてから、色取り取りの野菜を炒め酢豚の味付けで魚と合わせる。
「弁当のおかずは色を考えて、最低四種類あると形になる。今日のメインは主食の方だからね」
ジュンは二口ほどの米を俵型に握ると、肉を巻き始めた。
それを焼いて甘辛く味付けをする。
「肉巻きおにぎりは、二口サイズが好み。できるだけ長方形に焼くと、弁当箱に収まった姿が美しいね。彩りに野菜は敷くと昼にはまずくなるからパスだね。僕は果物は別容器派だ。よし、男弁当の出来上がり!」
ジュンは弁当を作り終えると朝食の準備をした。
「主。おはようございます」
身支度を整えたワトが、テーブルに着いて笑顔を見せる。
「どうしたの?」
「弁当が楽しみっす。オレの好きな匂いが残っているっす」
ジュンは小さく笑った。
「換気はしていたのに。すごいねワトの鼻は」
ワトが朝食の後片付けをしている間に、ジュンの身支度も整い、二人はテントをでた。
登山者用の道や、街道が通っている訳でもないので、逆に山頂に向かいやすい。
山頂は見えているのに、途中の何かを見逃すのをおそれたのだろうか、ジュンは転移を使わない。
それでも楽しそうに、ワトと薬草や木の実を見ながら山頂を目指した。
「主、あれを見てほしいっす!」
数歩先に山頂に着いたワトが見つめる先には、遠くに青い海が見え、この山を囲む深い緑がある。
ワトが見ているのは、その緑の中に穴があいたように見える、青い場所だった。
「湖かな? 上から見ているから大きさは分からないけど、あまり大きくないよね」
「そうっすね。でもあそこ以外に水のある場所はないっすね」
「正反対の場所にあったんだね。見つからない訳だよ」
ジュンはカバンから木の椅子とテーブルを出して、弁当を広げた。
「お昼にしよう」
「うわぁ、楽しみっす」
やや大きめの弁当のふたを開けて、ワトは嬉しそうな笑みを浮かべた。
ジュンは熱い緑茶をいれた。
「うまいっす。この味が忘れられないのは分かるっす」
「でしょお? でも楽しく作る事ができるのは、三人前までなんだよ。なぜか四人前から面倒になる不思議な弁当なんだ」
ワトは真顔でジュンを見た。
「四人で作ったら十二人前できるっす」
ジュンは小さく笑った。
「そんなに作って、どうするのさ」
「え? ボックスに入れておけば良いっす。これ、きっと皆が好きになるっすよ」
弁当に満足した様子のワトに、ジュンは冷やしたパングにスプーンを添えて差し出した。
「冷たくしておいたよ」
「最高っすね」
「うん。良く眠って、体を動かして食事をする。当たり前の事なんだけど、その均衡がうまく保てると、思考が安定して気持ちに余裕ができる気がするよ」
ワトは楽しそうに言った。
「主との旅は、どの任務より重要な問題を抱えているのに、追い詰められている気がしないのは、そのせいだったっすね。休憩も睡眠も食事も、テントがあるからどこでもできるっす」
「うん。僕だけ苦労知らずで、ずるいよねぇ」
後片付けをしながら、ジュンはそう言って笑った。
「湖のそばまに転移するよ」
「了解っす」
転移した湖には、人と会話をしない老婆がいるはずだった。その老婆は人との接触も好まないようなので、二人は老婆を探す予定でいた。
しかし、二人の転移先を知っていたかのように、一人の少女が不機嫌な顔を隠そうともせずに仁王立ちになって待ち構えていた。
「遅い! ここに来るまで三日?! お前たちは幼虫か何かなのか?!」
「遅くなって、すみません。初めましてジュンと申します。あなたが水の妖精でしょうか?」
いきなり怒られて、ジュンは少々動揺を見せたが、挨拶をした。
それを見て、ようやく我に返ったワトが続けた。
「お目に掛かれて光栄です。ワトっす」
少女は機嫌の悪い顔のまま言い放った。
「知っておるわ! その程度の情報を知らぬわらわではない!」
「……」
「……っす」
目の前でクルリと背を向けて歩き出した少女を、ジュンとワトはあぜんと見ていた。
「井戸の魔法師……の孫っすか?」
「いや、本人だ……と腕輪が言っている……」
少女は立ち止まり振り向きもせずに言った。
「付いて来ないとぬれるぞ」
「「はい!」」
二人は少女も後を追った。
湖から数歩入った場所には、小さな木の家があった。
「失礼します」
「お邪魔するっす」
入り口に入って、二人は驚いたように振り返った。
外は突然、音を立てて激しい雨が降り出した。
「二日遅れたが、これで島も元気になる」
少女の言葉で、ジュンは小さく息を吐いた。
「僕たちのために、雨を降らせるのを待っていてくださったのですね?」
「人の子は弱い。雨や風でも、日照りでも病になって命を落とす。ただですら、短い命なのに、小さな妖精よりはるかに弱い」
ジュンとワトは黙って少女を見つめていた。
彼女は二人に目だけで椅子を勧めると、茶を入れて二人の前に置いた。
山小屋風の木の家。リビングキッチンだろうか、十歳ほどの少女が暮らすのであれば、狭くはない。
ジュンとワトは、初めてのハーブの香りを胸の奥まで吸い込み、優しい茶を味わった。
「あなたはなぜ、老婆の姿で人里に行かれるのですか? 人族を嫌ってはいないのでしょうか? 助けられた人々は、感謝をしていますが」
ジュンの言葉に彼女は初めて、ジュンたちを見つめた。
白色に近い水色の髪と、美しい青色の瞳が白い肌によく合っている。五戦士だと知らされていなければ、はかなげな少女にしか見えない容姿である。
「名はヒュドーラじゃ。わらわは人を嫌ってはおらん。ダーバンの戦士たちとイザーダの民は違うであろう? ただ、妖精族であり既に生を持たぬ身。わらわは人と交流をしてはならぬ者なのだ」
ヒュドーラはそう言うと、長いまつげを伏せた。
「嫌いじゃないなら、人と暮らせば良いっすよ。井戸の魔法師は、どこでも大歓迎されるっす」
ワトは元気付けようと言ったのだろうが、ヒュドーラは首を振った。
「それはできぬ。ジュンなら分かるだろう」
ジュンはうなずくと言った。
「大きな力は歪みを生みますからね。争いの種にはなりたくないですよね」
「力を使わずに、人の中で暮らせるといいっすが、ジュンもヒュドーラも困っている人がいると、放っておけないっすからね」
ヒュドーラは立ち上がって言った。
「わらわはジュンほど阿呆ではない! 思い出した。怒っておるのだ」
「え? 怒る理由がまだあったのですか?」
ジュンは不思議そうに首をかしげた。
「ある! ある! 大ありだわ! どんだけお人よしなのだ?! なぜ引き受けた?! なぜ断らなかったのだ。スプリガンに断れば良かったであろう。生身の人の子が命など、簡単に掛けるものではない」
ジュンは少し困った顔をして言った。
「簡単にではありませんでしたよ。僕には大切な仲間や友人、かわいい婚約者もいますからね」
「ならば、なぜだ!」
ジュンはヒュドーラを優しく見つめた。
「誰なら良かったんですか? 掛けても惜しくない命など、ありませんよ。ならば、生きる可能性が少しでも高い者が、引き受けるべきですよね。世界樹の腕輪が僕を選んだのは、そう言う事だと思いました。ノーアのガーディアンであるスプリガンが、イザーダを守る機会をくれた。それは……『この世界が壊れるおそれがあるからですよね?』」
ジュンは最後の言葉だけを、高魔力交信で告げた。
ヒュドーラはふとワトに視線を移してから、ジュンを見た。
「馬鹿者だな……。大馬鹿者だ。水竜の長が言っておった通りの者だな。彼はわらわの友人だ。助けてくれて感謝をしておる。外に出よう」
ジュンはヒュドーラに付いて雨上がりの湖まで来た。
「腕輪をだすのだ」
ジュンは腕輪の腕を前にだした。
「守りのスプリガンの力を継ぐ者よ。その厚き情けでこの世界を守れ」
ヒュドーラは剣を湖に向けた。
横の湖に巨大な渦ができて、ヒュドーラの剣が一瞬、虹色に輝いて美しい青い玉が現れた。
その玉は世界樹の腕輪の穴に、静かに収まった。
「ありがとうございました」
ジュンの言葉にヒュドーラは悲しい顔で笑った。
「妖玉を与える事しか出来ぬわらわを、許せとは言わぬ。恨め。憎め。そして、生きよ、ジュン。忘れてはならない。生きてこその勝利だ。われわれ五戦士は、ジュンの勝利を心から望んでおる」
「はい。頑張ります」
笑顔で告げるジュンを見て、ヒュドーラは落ちる涙を慌てて拭った。
「ご心配をいただき、ありがとうございます。大丈夫ですよ。僕は死より、愛する人たちを悲しませる事の方が、はるかに怖いと思っていますから」
そう言ってほほ笑みを浮かべるジュンに、ヒュドーラは言った。
「そうだな。ジュンはそう言うやつだな。ワトと共に送ってやろう。この島から転移はできぬのでな」
ジュンとワトは、ヘルネーの森の浅い場所に送られた。
「優しい妖精だったっすね」
「そうだね。妖精の霊は皆、心配性だよね。さぁワト、拠点に帰ろう」
ジュンはワトに、とびっきりの笑顔を作って見せた。
「あなたがジュン様でしょうか? 初めまして。私はゲーと申します」
ジュンとワトは同時に振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった……。




