第百六話 風の谷
ジュンは一人で、テンダル国の城の一室を訪れていた。
風の谷を見に行った。パーカーとトレバーの行った先が、地図上では正反対の場所だったのである。
風の谷は未知領域にあると言われているだけで、正確な場所が判明されていないようで、ジュンは風の谷の場所をダンに調べてもらったのである。
「そもそも三方向が山に囲まれている、鉱山の国なんだよ。地図に名のない山や谷がどれほどあると思っているんだい?」
その言葉で、ジュンはダンを見つめた。
「風の谷はないの?」
ダンは優しく笑みを浮かべる。
「ジュンが私を頼ってくれたんだ。そんなお粗末な結論をだす訳がないだろう。君が動いているのは、遊びや趣味じゃない事も分かっているからね」
ジュンは少し困った顔で言った。
「全部を話して協力をお願いできると良いんだけど、ダン、ごめんね」
「謝る必要はないよ。風の谷とか風の丘と言われている場所は結構あるみたいだね。ジュンの知り合いの行った場所も、確かにそう呼ばれている。しかし、この資料を見てごらん」
ダンが広げたのは、変色した紙に手書きの文字や、地図が描かれていた。
「これって……」
「そう、持ち出し禁止の資料なんだけれど、城内ならと父上の許しがでてね」
そう言って小さく笑うダンの言葉に、ジュンは見て見ぬ振りをしてくれたのであろう、テンダル国王に感謝をした。
「すみません。貴重な物を。王に感謝します」
「いいんだよ。それより、どうやって行く気だい? 鉱山の後ろにある山脈を越えて、その先の山と山の間にあるよ。その後ろの山脈を越えたら外海だから、未知領域の真ん中にあるようだ」
「行ってみます。どうしても手に入れなければいけない物があるんです。その可能性がある場所なら、ためらってはいられません」
ダンはため息をついた。
「君は無理ばかりする……。無事に戻って来るんだよ。婚約者殿はさぞ心配されているだろうからね」
ジュンは視線を落として、口元に力を入れると顔を上げた。
「……言っていませんよ。彼女が心配して泣いてくれても、事は片付かないですからね。それなら、幸せに笑っていて欲しいと思うんです」
ダンは笑顔でゆっくりとうなずいた。
「なるほどね。では、絶対に無事に帰ってこなくてはね?」
「はい」
ジュンは再度、ダンに感謝を伝えると、王城を後にした。
ワトとの待ち合わせの場所は、王都の広場の露店だった。
「お疲れさまっす。うまいっすよ」
串に刺さっている焼いた腸詰めを手渡され、ジュンは思わずかじり付く。
「うん、おいしい。ごめん、待たせた?」
「転移場所がここの近くだったっす。ここの腸詰めは有名なんすよ。ちょうど買い終わったとこっすよ」
「取りあえず、王都の外でテントだね」
ジュンはワトに触れて転移したのは、かつて、テンダルを訪れた時にテントを置いた場所で、木立の中に懐かしい川が流れていた。
テントに入り、ワトが冷蔵庫に腸詰めを入れてから、椅子に座った。
ジュンは紙をだして、覚えてきた地図を書いてワトに見せた。
「風の谷はここらしい」
「え……。主、未知領域に入って山まで行くのも大変っすが、この辺りの山は熟練者が付いていたって、登れる山じゃないっすよ?」
地図を見て、難しい顔をしているワトに、ジュンは言った。
「僕は高い山に一度も登った事がないよ。山道とか付いていないだろうしね」
「オレもっす。ダンジョンに潜るのなら、何とかなるっすけど」
情けなさそうにうつむくワトのそばで、ジュンは首をかしげた。
「谷全体を見下ろせる低い山があるかなぁ? この地図じゃあ分からないよね。山の中腹でもいいのかぁ。それなら行けるか……」
「どこへっすか?」
「風の谷だよ。山登りは二人とも熟練に達するまで、修行している時間はないでしょ? 僕は山登りの経験はないけど、山頂にはよく行くんだよ」
「どうやってっすか?」
キョトンとした顔をしているワトに、ジュンは笑った。
「竜王の山だよ。頼んでみようと思うんだ。風の谷が見える所までね」
「無理っすよ。空の上は極寒で、息をするのもままならないっすよ。厳しい訓練に耐えた竜騎士隊が、魔導具を付けて竜に乗るっすよ」
真剣に説得しているワトに、ジュンは言った。
「飛竜じゃないから、乗れないよ。テントの石を持って飛んでもらうんだよ。拠点の場所もそうやって決めたんだよ」
「竜王にそんな事させたっすか?! 人の王にだって頼めないっすよ」
どうやら、ワトにとって竜王は人の王より位は上のようである。
ジュンはワトを連れて、竜王の山を訪ねた。
漆黒の竜王と真っ白なその息子は、のんびりと眠っていたようで、薄らと目を開けた。
息子は二人の姿を見てドタドタと駆け寄ってきた。
『ジュンとワトだ!』
「こんにちは。眠っているところをごめんね」
二人の体に鼻先を押し付けて甘えるシロを、ワトが目を細めてなでる。
「シロ、久しぶりっす。元気だったっすか? 皆も会いたがっていたっすよ」
『元気だったよ。また遊びに行くよ』
ジュンの通訳がなければ、シロの言葉がワトには分からない。
だが、シロに直接返事をする方法を教えたのはワトだったのだ。
シロは片足を持ち上げ、ワトに丸を作って見せた。
『ジュン。何かあったのか?』
竜王は顔を上げてジュンの表情を見る。
「こんにちは。今日はお願いしたい事があってきました。横にいるのは、仲間のワイアットです」
「主の共で参りました。ワイアットと申します。お会いできて光栄です」
『息子が世話になっておるようだな。これからもよろしく頼む』
ジュンの通訳でワトの表情は明るくなった。
ジュンは竜王に、妖精がいるかもしれない、風の谷の話をして、地図を見せた。
『ジュンとワトの手伝いがしたいけれど、そこにはいけない……』
「そんな大変な所なんですか?」
竜王は首を振った。
『いや。あの辺りには儂の古い友がおってな。少々かわいがり過ぎて、息子に嫌われておるのだ』
ジュンはワトに通訳をしながら笑った。
「不器用なんすね。適当なところで止められず、泣かせる大人っすね」
ワトもそう言うと笑ってシロを見た。
『儂が連れて行こう。石の家を運べば良いのだろう? だが、雲より下になる山はあの辺りにはないぞ』
「山の中腹でも良いんです。風の谷の雨が降る場所が知りたいのです」
竜王は分かったとばかりに首をゆっくりと振った。
『それにしても風の谷と名付けるとは。あのような場所に、行った者がおるのも驚きだがな』
「どう言う事ですか?」
ジュンは不思議そうに尋ねた。
『あの場所は高い山々が多く、風の動きが変わる。だが、ジュンが行こうとしている場所には風がないのだ。周りがどんなに強風であろうともな。それにあの地を谷と判断するのは人族だけだろうな』
ワトは大きくうなずくと言った。
「谷と名前が付くいている場所は世界中にあるっす。山の間で人が住む場所があれば山間で、人が住めない場所を谷と呼んでいるらしいっす。でも、もそんな穏やかな場所だと、魔物も多いっすよね」
ワトの言葉に竜王は小さく息を吐いた。
『穏やか? あのあたりの谷には川が必ずあるのだ。だが、四方を山で囲まれているあの場所には川がない。翼を持たない人族の身で行ったと聞いて驚いたのだ。生還できたのならば、陣を持っておったのだろうな』
竜王の言葉にジュンは首をかしげた。
「ワト、陣って定員があったよね? 未知領域に行くパーティーが二人って事はないでしょう?」
「昔は個人でも、陣が買えたようすっからね。貴族か王族の関係者っすかね。本人の記録が残っている訳でもないっすからね。考えても答えはでないっす」
竜王はジュンを見て言った。
『結界を張れそうな場所を見つけたら、石を置いてからたたいて合図をしよう。あの辺りは結界すら破る奴がいるから、なるべく石からでない事だな』
「はい」
ジュンとワトは、シロに見送られて、石ころテントに入った。
「うわぁ。空を飛んでいるっす!」
ワトの言葉にジュンは笑った。
「前はこの窓がなくて、天井から下を見ていたんだ。具合が悪くなったよ」
「これなら、行けない場所はないっすね」
「竜王にそんなに頼み事はできないでしょ?」
「それはそうっすね。メンバーが知ったら、羨ましがるっすよ」
その言葉にジュンは小さく笑った。
「人は空を飛びたいと思うのかなぁ?」
「自分で飛ぼうなんて思わないっすよ。地上より空の魔物が強い事なんて、子供でも知っているっすよ。それでも空に憧れはあるっすよ。飛竜騎士団は世界中の子供が憧れる騎士団っす。魔人族しか入れないっすけどね」
のん気に窓の外の空を楽しんでいたジュンとワトは、そこで息を飲んだ。
「あ、主! き、聞いても良いっすか?」
「うん。一つだけにしてね」
震える声のワトにジュンは何とか返事をした。
「このテント。落ちたらどうするっすか?」
「とりあえず……びっくりする」
「オレ、もうすでに驚いているっす」
「奇遇だね。僕もだよ」
窓の外の景色が一瞬止まったのである。
そのすぐ後に現れたのは、巨大な猛きん類の足が二本。その後ろには、猫科の魔物の後ろ足がある。
それが一頭の魔物の足であると知らされるまでの時間に、二人は驚き、その正体を想像して、テントが墜落する絶望まで味わったのである。
「グリフォンすね」
「うん」
「にらみ合っているっすかね?」
「挨拶しているのかも……。ないよね」
「ないっすね」
竜王の足に握られている石ころテントの窓からは、銀色の鳥の胸羽と金色の獅子の体、広げられている大きな翼が見えている。二頭は空中で長時間停止する事はできないのか、同じ場所を旋回しているようだったが、やがて、グリフォンは背を向けて飛んで行った。
「え? 追いかけるの?」
ジュンの言葉に、ワトの顔色は優れない。
「戦うなら、どこにでも良いっすから、置いていって欲しいっす」
「大丈夫だよ、ワト。相手はグリフォンだよ? 敵に背を向けたりはしないよ」
「グリフォンは味方っすか?」
「敵じゃないと思うけどなぁ」
そんな会話をしている二人は、すさまじい音と共に再び沈黙した。
グリフォンが行く手にある山の頂を、吹き飛ばしたのである。




