186話 理の変更を伝える
その夜、里見の館では灯が落とされずにいた。
奥の座敷には、里見義堯、まな姫、そして桜の三人だけが集められていた。
家臣は下がらせ、ここで語られるのは「内々の話」と決められている。
桜は静かに頭を下げ、今日の会談について語り始めた。
「本日、上杉謙信と相対しました。
短い時間でしたが……相手の覚悟と、義の重さは疑いようがありません」
義堯は腕を組み、低く問う。
「噂通りの男か」
「はい。
利で動く武将ではありません。
勝てるか、得かではなく――
正しいと信じたことを、迷いなく選ぶ人です」
まな姫は、思わず背筋を正した。
その言葉に、恐れと同時に、奇妙な敬意を覚えていた。
桜は続ける。
「北条が今川へ攻め込んだこと。
その裏で、物資が枯れ、民が追い詰められていたこと。
謙信は、それを“見過ごされた不義”として受け取っていました」
「だからこそ、動いた……か」
義堯の声は重い。
「はい。
上杉は、北条を討つためではありません。
義を示すために軍を動かしたのです」
その言葉に、室内の空気が張り詰める。
桜は一拍置いて、核心を語った。
「そこで、私は判断を改めました。
これまで行ってきた物価高騰による抑止策を、修正します」
まな姫が小さく目を見開く。
「……修正、ですか?」
「はい。
里見の経済はすでに安定しています。
無理に他国を締め上げ続ける必要はありません」
桜は、机上に置いた地図を指し示す。
「西の温暖な地方から食料を買い付け、
流通量を増やします。
北条、武田、周辺諸国へも回し、
価格は高騰前の水準まで戻す」
義堯は黙って聞いている。
「この“方向転換”の意味は、三つあります」
桜は指を折る。
「一つ。
民を、戦の理由から外すこと」
「一つ。
上杉に、“義が果たされた”と示すこと」
「そして最後に――
里見が、誰にも刃を向けずに正義を通したと残すこと」
静寂。
義堯は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
「つまり、こういうことか」
義堯の視線が、桜を真っ直ぐ射抜く。
「上杉を止めるのではない。
上杉が止まっても構わぬ状況を、先に作る」
桜は深く頭を下げた。
「その通りです」
まな姫は、二人の会話を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(戦わずに……守る)
(それを、本気で考えている)
彼女は、思わず口を開く。
「……それは、危険ではありませんか?」
桜は、穏やかに微笑んだ。
「危険です。
ですが、上杉謙信という人は――
義が満たされた後に、無理を通す方ではありません」
義堯は、しばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
「よい。
その策、里見として認めよう」
そして、まな姫を一瞥し、柔らかく言った。
「戦を遠ざけるための選択だ。
お前が怯える道ではない」
まな姫は、深く頭を下げる。
「……はい」
桜は最後に、心の中でひとつだけ呟いた。
(これでいい)
(義に刃を抜かせないために、
義を先に差し出す)
この夜、里見は一つの舵を切った。
誰にも誇示されず、記録にも残らない。
だが確かに――
歴史の流れを、わずかに変える決断だった




