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㉛ 小倉城(福岡県北九州市小倉北区)

㉛ 小倉城(福岡県北九州市小倉北区)

  

関門海峡に面した陸海の交通要所、小倉は重要な地ゆえ争奪戦を繰り広げた。

西国の雄、毛利氏が九州に勢力を広げるため、この地を制し1569年小倉城を築いた。

以後、城主の変遷がある。

関ケ原の戦いで圧倒的勝利を得た家康が、自由裁量で藩主を決める。

それが、細川忠興だった。

家康の大盤振る舞いで細川忠興は、豊前小倉藩40万石藩主となる。


細川家が、秀吉から与えられていたのは丹後12万石だけだった。

ガラシャ夫人の殉死の大功によるところが大きいが、一挙大大名となる。

家康への忠誠を誓い、家康の威光を示すため、忠興は、約7年の歳月をかけて、小倉城を拡大修復し、近世城郭に創り上げる。


1602年、小さな城、小倉城を、大大名、細川家居城とすべく築城を開始する。

南蛮造りに破風の全くないシンプルな当時、最新の層塔式の天守。

石垣は軟弱地盤ゆえ、低く抑え、ゆるやかで切り石を使わない野面積み。

忠興は知恵を巡らし、素朴ながらも豪快な名城に仕上げる。


同時に、破格の厚遇を慎重に受け止め、細川家を守るため、悲壮な決意をする。

外様大名が、徳川の世で生き残るには、将軍家と縁続きになる事が大切だと。

そこで、嫡男、忠利と将軍養女との結婚を願う。

気品があり格調高い城、小倉城は将軍養女を迎えるために築かれたのだ。


将軍養女との婚約はなかなか認められなかったが、幕府へ忠誠を尽くし続け、幕府の命じる手伝い普請に積極的に取り組んだ。

資金も人も知恵も出し続け、ようやく1608年、秀忠養女、千代姫(1597-1649)との婚約が実現した。

翌、1609年、伏見城で結婚式を挙げ忠利23歳は、中津城に千代姫12歳を迎え、新婚生活が始まる。


すぐにでも、小倉城を引き渡そうと思った忠興だが、譲らなかった。

長く待たされた後だけに、千代姫主従を慎重に見極めたくなったのだ。

千代姫およびお付きの徳川家から遣わされた家臣らの様子を見た後で良いと。


千代姫の母は、登久姫。

登久姫の母は、信長の一の姫、徳姫。

父は家康の嫡男、信康。

つまり、千代姫は、家康と信長のひ孫になる。


千代姫の父は、小笠原秀政。

名家ではあるが、当時は、信濃飯田藩5万石藩主だ。

家康家臣だったが裏切り、秀吉に従った過去があったためだ。

秀吉が小笠原秀政を家康一門としたうえで、秀吉家臣に組み込むために登久姫との結婚を命じた。

家康は不満だったが。


秀政は、登久姫との結婚を願っても叶わない縁組と感激し喜んだ。

1590年、家康が国替えとなると、秀吉に嫌われた秀政は家康の直臣となり仕えるようになる。

家康は冷静に迎えただけだが、孫娘の婿としての体面は守ると下総古河3万石を与えた。


秀政も家康の思いがよくわかっていた。

信頼を取り戻す為に懸命に働く。

秀吉死後、家康は、豊臣恩顧の大名を味方とすべく、婚姻政策に力を入れる。

結婚により、家康系の家臣を送り込み、豊臣家から切り離すのだ。


家康には3人の姫しか育たたなかったが、味方にしたい武将は多数いる。

そこで、縁ある姫を選び、養女とし家康の娘とし、結婚させていく。

その任を果たす優秀な姫の一人に嫡流の孫(信康の娘)登久姫の子、氏姫を選ぶ。


氏姫は、秀吉の盟友、蜂須賀家当主、徳島藩17万5千石藩主、家政の嫡男、(よし)(しげ)に嫁ぐ。

家康に従うよう呼びかけての結婚だが、豊臣家との親しい仲を続けるならば改易もありうるという刺客でもある。


氏姫を迎え(よし)(しげ)は、豊臣恩顧の名を返上すると家康の婿としての務めを果たす。

関ケ原の戦いも東軍として戦い、後も、幕府のために懸命に働き、藩政も順調で、氏姫はよく役目を果たしたと、家康も認める。


秀政は、関ヶ原の戦いで戦功を上げ、5万石に加増された。

氏姫効果もあり、小笠原家への評価は上がり、姉、氏姫に続き、千代姫が将軍、秀忠養女に選ばれ、細川忠利と婚約となった。

将軍養女となる千代姫は、びっくりしながらも、当然だとの思いもあった。

家康との血縁は深く才気煥発で、養女に相応しいと近習から教えられていたから。


山深い信濃でたくましく元気に育った千代姫は、江戸で秀忠と対面し、養女となる儀式を執り行い、京伏見で家康と会う。

結婚への心構え等教えられる。

人で溢れた京の町並みに圧倒され、都に来たのだと感激だ。

伏見城の広大できらびやかな造りにも目を奪われる。

戦禍の後の悲惨も、心に刻んだが。


花嫁支度も想像を超えるほどに豪華に準備されていた。

見たこともない手の込んだ仕上がりに言葉が出ないほど感動する。

花嫁になるのだと夢のような日々を過ごす。

同時に、与えられた責任の重さを思い身が引き締まる。


細川家と徳川家をつなぐ役目を果たすのだと、決意を新たにする。

大藩の次期藩主の妻となるべく、九州に向かう。

多数の供を引き連れての中津城入りだが、千代姫の乳母近習は少なく、大半は幕府からつけられた家臣で、寂しく不安もあった。


家康が千代姫に与えた化粧料は千石(豊後玖珠郡小田村千石)。

氏姫には、化粧料3千石が与えられており、多いとはいえない。

千代姫には十分過ぎるほどだが。

だが、負けず嫌いの忠興は、徳川家への意地を見せ、細川家として破格の5千石の化粧料を提供し迎えた。

千代姫は幼いながらも、6千石という有り余る小遣いを得る。


まもなく、大坂の陣が起きる。

小笠原家は、裏切り者の汚名を払拭すると固い決意で豊臣勢と戦う。

父、秀政と嫡男、(ただ)(なが)は突撃し、壮絶な戦いの中で討ち死にし、家康が絶賛した。

次男、忠真が後を継ぎ、父・兄の功で譜代の重臣と認められ、播磨明石藩10万石を得る。


小笠原家の快挙に続き、1619年、千代姫が細川家嫡男、光尚を元気に生んだ。

ここで、忠興は満面の笑顔で頷いた。

細川家の存続を確信したのだ。

千代姫に感謝し、家督を譲り、細部まで手の込んだ仕上がりで自慢の小倉城を引き渡す。


千代姫は、1620年小倉城入りする。

中津城でも感動したが、それ以上に、海に面して浮かぶ城の美しさに見とれる。

山育ちの千代姫の知らない景色だった。

小倉城が大好きになる。

城下町の賑わいも予想以上で、大藩の城下町はこれほど賑わうものかと感心した。


小倉城の女主となって、3年、1623年には江戸詰めが決まる。

徳川世が安泰となり、国元でするべき役目が終わったのだ。

細川家江戸屋敷に向かう。

以後、江戸を動くことはなく、小倉城で過ごした日々は、思い出となる。


江戸屋敷は、千代姫の希望に添い、母子が住みやすいよう造られていた。

しかも、幼い頃のように親類・縁者が近くに居る暮らしとなった。

昔に戻ったように、兄弟姉妹と付き合う。

気を張ることが多かった小倉城での暮らしを思うと、江戸暮らしは気が楽だ。


今は、大藩の藩主の妻であり、嫡男の母だ。

有り余る収入もある。

以後、将軍の娘として養父母、秀忠・お江との折々のつきあいは欠かさない。

細川家と兄、小笠原忠真や小笠原一族との間を取り持ち親密な付き合いも始める。


千代姫は、縁戚になる各藩の江戸屋敷と交遊し、友達だらけにしていく。

潤沢な化粧料から購入する小倉から届けられる高価な品々は、江戸では珍しいものが多く、近しい人たちに送り届け喜ばれた。


忠利は、秀忠を義父、家光を義弟とし、再々会う機会を造り親しさを増した。

忠利の母はガラシャ夫人。

明智家の出身であり、家光乳母、春日局と同じだ。

春日局も、忠利・千代姫を我が身内と呼び、後ろ盾になることをいとわない。

忠利の政治手腕は優れ、九州の大名の状況を逐一調べ、幕府に報告し存在感を発揮する。


家光は、忠利を信頼し、九州の抑えを任そうと考える。

春日局の推挙に動かされたのだ。

忠利の評価を上げる千代姫の付き合いも冴えていた。

こうして、忠利は、将軍の婿として熊本藩54万石を手に入れる。


千代姫はこれだけでは収まらない。

兄、小笠原忠(ただ)(ざね)の妻は、母、登久姫の妹、熊姫の娘、亀姫だ。

亡くなった嫡男、(ただ)(なが)の妻だったが、死後、弟、(ただ)(ざね)と再婚した。

千代姫のいとこになる。


千代姫と亀姫は気が合い、とても親しい。

亀姫は、先夫の死、我が子の行く末、などなど苦労が続いた。

それでも、再婚を受け入れ(ただ)(ざね)との仲はよい。

先夫の死を価値あるものにしたい、小笠原家のために働きたかった。

千代姫に協力を願う。


そこで、千代姫が動く。

忠利は、小笠原忠(ただ)(ざね)と義兄弟だと、実の弟ように面倒を見た。

そして、共に九州の抑えとなりたいと願い出る。

千代姫が築き上げた人脈が、素晴らしく、思い通りに動いてくれた。


兄、小笠原忠(ただ)(ざね)は幕府目付の役割を持つ西国譜代大名の筆頭として、小倉藩15万石藩主に命じられ、小倉城を居城とする。

千代姫の下の弟、忠知も豊後杵築藩4万石藩主となる。

松平家に養子入りしたもう一人の弟、重直も豊後高田藩3万石を得る。

嫡男だった兄、(ただ)(なが)の長男、長次も豊州中津藩8万石を得る。


千代姫は、細川家の旧領を兄弟に引き継がせることに成功した。

千代姫を中心に、小笠原一族が九州譜代大名として顔をそろえる。

成し遂げた喜びに浸る。


千代姫は、細川家・小笠原家に貢献し、細川家中興の祖となったと自負し笑顔で、細川家江戸屋敷の女主として君臨し、1649年、52歳で亡くなる。

1641年、55歳で亡くなった忠利の死後、8年思う存分楽しく生きた。


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