㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)5
㉚ 高松城(香川県高松市玉藻町)5
5 水戸光圀と高松城
いよいよ黄門様(1628-1701)の出番が来る。
水戸藩主、徳川光圀(黄門様)の同母兄、松平頼重が高松藩主と決まる。
幕府が、生駒家改易後2年を経て、不穏な雰囲気が漂った高松藩内が平穏になったと判断したのだ。
松平頼重は、讃岐高松藩12万石藩主として、高松城入りする。
光圀(黄門様)は1628年7月11日、水戸城下、柵町の水戸藩家老、三木邸で生まれた。
三木之次・武佐夫妻の屋敷だ。
武佐は兄、頼重の出産すべてを仕切り、光圀にも同じようにすべて仕切った。
兄、頼重は秘密裏に江戸で出産し、京で育てられた。
生母、久の方は父である藩主、頼房から堕胎を命じられたが武佐に匿われ生んだ。
光圀は頼重の弟で、同じように母は堕胎を命じられた。
だが、武佐が守った。
それでも、兄が生まれた時とは状況が変わっていた。
兄、頼重は生まれてはいけない子だったが、弟、光圀は望まれてはいないが生まれてはならない子ではなかった。
光圀の誕生を知った父、頼房は怒ることなく、認知した。
そして、家老、三木夫妻を養父母とし預けた。
父母の愛薄く、生まれ育ったと光圀が言うところの悲劇的誕生だが、実際は、兄に比べ非常に恵まれていた。
国元の恵まれた環境で生まれ、認知され家老家の養子となったのだから。
藩主の子として相応の待遇をされ育つ。
光圀も頼重(1622-1695)も父、頼房(1603-1661)に望まれない子だった。
光圀は、同母兄を押しのけ、身分の高い他の側室から生まれた弟たちを押しのけ、水戸藩を受け継ぐことになる。
普通ではとてもなれない、驚くべき幸運のもとで生まれた藩主となる。
その為に、光圀は選ばれるべくして選ばれたと幾つものエピソードを創った。
まず、光圀は、兄、頼重を差し置いて当主となったのは自分の意志ではないと言い続ける。
そして兄、頼重(1622-1695)が分家を起こすために尽力し続け、ついに、1642年、讃岐高松藩12万石藩主とすることが出来たのだ。
家康の子である父、頼房・父の多くの側室とその子たち・水戸藩の立場などが複雑に絡み合い、光圀の生涯を彩る。
残された逸話、幕府に対する主張など、宗家、水戸藩主ならこその生き方をした。
そんな生涯から見えるのは、兄以上の最高の水戸藩主であると信じ、貫いた姿だ。
光圀は、水戸家当主になりたくて、なったのだ。
1631年真弓山(常陸太田市)修験僧、天狗坊等覚院が三木邸前で光圀を見た。
近所の子達と同じ姿で遊ぶ光圀3歳の姿を見ただけで、常人でないと見抜いた。
養子とはいえ水戸藩家老の、かつ藩主の子が乳母なしで、門前で仲間と遊ぶことは考えられない。
目立たないようにしても、光圀の氏素性は誰の目にも明らかだったが、何も知らない修験僧が感銘を受けたと、逸話を残す。
光圀は、英明さを評価されるのが好きだったから。
1633年、家老が水戸で面接し光圀5歳の英知に感動し後継に選んだと言う。
兄、頼重は江戸にいた。
水戸には年少の弟、4歳の頼元・3歳の頼隆かまだ小さい子しか居なかった。
皆面接に耐えうる年ではなく、この頃の1歳の差は大きく光圀が目立ったのだ。
一番年上の光圀が、選ばれるのは当然だった。
選ばれた光圀は水戸から江戸上屋敷、小石川邸に移る。
1634年、頼房は桜の馬場で処刑された罪人(永野九十郎)の首を夜間、一人で持参するようにと光圀に命じ、度胸を試した。
もちろん、合格する。
すべて光圀の近習が手回しよく準備していたことだから。
それでも、この様に試されること自体、父子の疎遠な仲をうかがわせる。
6歳の光圀には大変な試練だったと記録され逸話として残る。
単独行動はあり得ないし、藩邸内だ。
いろいろと、光圀の名君としての逸話が仕立てられる。
1640年光圀守り役に伊藤友玄(武佐次女婿)・小野言員・内藤高康が決まる。
老女は高島だ。
幼少時から仕えており武佐が選んだ。
光圀の嫡男としての陣容が整う。
春日局に似て、側近近習を仕切る武佐の存在が際立つ。
そして、光圀は、兄の存在を知る。
兄の無念の思いを推し量り、世継ぎになるべきでなかったと悩み、挙げ句の果てに不良少年になったという。
15歳から16歳の頃だ。
女人を追いかけ戯れ、酒宴に明け暮れる日々となる。
ずいぶん早熟だ。
1645年、17歳の時、史記伯夷伝を読み感銘を受け、水戸家をいずれ兄に戻す決意をし、心落ち着かせた。
ここで、不良時代を終え、健全な精神を取り戻す。
そして、学問に生きると発奮して大日本史の編纂を決意する。
この年よりあらゆる学問に猛烈に励んだとされる。
不良を卒業し名君への道を歩む典型的お話が出来上がり、名君への道が創られる。
1646年、養父、三木之次が亡くなり「三木之次を悼む詞」を作る。
藩主となるべく文武の修行に励む傍ら、18歳で未熟とは言え後世に残る詩などを作る。
1650年、22歳で老女、高島を亡くし、翌年「涙のしづく」なる一文を作る。
光圀の厚い感謝の思いと深い悲しみがほとばしる詩の数々だ。
儒学を尊ぶ名君の片鱗が随所に現れる。
光圀は、幼い日の寂しさを癒し、母と慕った高島の死を嘆き哀しんだのだ。
之次と武佐が養父母だが、60歳になろうとした、祖父母のような存在だ。
父にも会えず、母にも会えない寂しい日々で、高島の献身的な愛だけが救いだったと酔うように言い続ける。
すぐに、状況は変わる。
高島を失った深い悲しみを癒す、家臣、玉井徳之助の娘、弥智と出会ったのだ。
弥智(1634-1714)に恋し、めくるめく愛の時が始まる子が授かる。
玉井氏は武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)幡羅郡榛沢郷玉井に在し名とした。
武蔵七党と呼ばれた強力な同族的武士団の流れで、成田氏の末裔。
水戸藩家中での地位は高くないが、武門の名門で、恥ずべき家柄ではない。
それでも、光圀は父と同じく、伊藤友玄に弥智の子を「水子にするように」と命じた。
伊藤友玄も義母、武佐と同じように、弥智を自邸に引き取り大切に守り、1652年、頼常が生まれる。
すると、光圀は、長年温めていた思い。
兄、頼重の子、綱方を養子にし、我が子、頼常を兄の養子としようと考える。
そこで、幕府の了解も得て、実現させた。
弟として、筋を通し、気分が良い。
養子にしたが、この時点では兄、頼重の子を嫡男としたわけではない。
誕生の翌年、頼常は兄、頼重の元に行き、高松城東の丸、御茶屋御殿で育てられる。
弥智は光圀の側を離れず、弥智の弟、玉井丹次が頼常に付き従う。
丹次の子、直樹が頼常家老となる。
水子にせよと命じた頃から、光圀と近衛家の泰姫との縁談が進められていた。
父、頼房は正室を拒否し自由に生きたが、光圀は近衛家の泰姫との縁談に乗り気だった。
慎重に両家が話し合い、取次役が何度も交渉し、1654年、結婚。
泰姫を重んじたくて、玉井弥智の存在を隠したのだ。
玉井弥智は、水戸藩士、望月信尚と結婚する。
水戸家は、御三家の中で石高・官位官職とも低く抑えられ、将軍継承権もない。
近衛家の姫を正室に迎えれば、家光の妻は鷹司家の孝子姫であり、五摂家同士で対等になる。
光圀は自尊心が強く、負けん気の強い性格だ。
水戸家の格が上がる近衛家の姫との結婚を実現し、将軍継承権も持ちたかった。
武佐のかっての主君が、近衛前子。
後陽成天皇との間に後水尾天皇を含め12人の子を授かっている。
前子は、すべての子を実家、近衛家に戻り出産している。
武佐も付き従い、世話をした。
近衛家に養子入りし家督を継いだ第4皇子、信尋と武佐は再々顔を合わせた旧知の仲だ。
近衛信尋は和子中宮の義弟になり、武佐と和子中宮の母、お江とはいとこだ。
武佐は信尋の次女、泰姫が光圀と似合いだと考え、結婚に向けて動いた。
和子中宮も応援し頼房も賛成し、幕府も了解し、滋野井家が取り次ぎ婚約が整う。
1654年、信尋の次女、泰姫17歳は江戸に下り光圀27歳と結婚した。
武佐は、将軍秀忠、御台所お江の父、浅井長政の庶兄、岡崎綱政の娘になる。
父が、近江の浄土真宗、広済寺の住職だった縁で、播磨国の浄土真宗、光善寺住職の子、三木之次(1575-1646)と結婚。
茶々に引き立てられ近衛家に勤める。
次いで、お江の縁で頼房の乳母となった。
滋野井家当主、季吉は、武佐の長女婿だ。
兄、頼重(1622-1695)を滋野井家に預けたのは武佐の考えだ。
頼重の養父となった。
光圀が待ち焦がれた泰姫との結婚生活が始まる。
光圀は用意していた心籠もる言葉で泰姫への変わらぬ愛を誓う。
泰姫は微笑み、夫としての信頼感、深い尊敬の思いを持つ。
光圀の泰姫を敬う奥深い想いが通じ、二人は響き合うものを感じ強く結ばれた。
近衛家、泰姫と繋がったことで、光圀は次期藩主として自信を持つ。
以後、家光、家綱を補佐する立場をわきまえつつ、父、頼房とは違うざっくばらんな暖かい関係を築いていく。
翌1655年、光圀28歳、久の方の弟、谷重代を側近とし、その後、家老とする。
苦労をかけた母、久の方を次期藩主の母として厚く孝養したかった。
泰姫は漢文を学び、光圀の礼記の講義を聞くこともあり、公私にわたり側近くにいる。
そして、学問に励む光圀を応援した。
泰姫に押されるように1657年、水戸藩駒込中屋敷に史局を設置し、『大日本史』の編纂作業に着手する。
泰姫との仲は、とても仲睦まじく、嫡男の誕生を待ちわびたが、1658年、詩歌・学問を好んだ泰姫は亡くなった。
4年あまりの結婚生活で、子は生まれなかった。
今日はとひ 明日はとはるる 夢の世に なき人しのぶ 我もいつまで
(今日は人を弔い、明日は人から弔われる、はなかい夢のような世。亡き人を偲ぶ私自身、いつまでの命なのだろう)
素直で情感の籠る熱き思いと、死を前にし達観した思いを詠った和歌を残す。
光圀は、水戸藩菩提寺、薬王院に埋葬し、盛大な葬儀を営んだ。
葬儀の後に薬王院の古文書を調査し薬王院のある吉田はかつて近衛家の荘園だったと知る。
泰姫が結びつけた不可思議な縁に感動し、近衛家に知らせ、書き記す。
光圀の優秀で温かい人柄を表す逸話がまた作られた。
光圀は泰姫の死に衝撃を受け、この悲しみを繰り返したくないと二度と妻を持たない。
1659年、養母、武佐が亡くなる。
「生きているのは武佐のおかげだ」と生涯感謝した大切な人だった。
1661年、父、頼房が亡くなる。
その2ヶ月後に母、久の方も亡くす。
悲しい肉親の死が続き、光圀が水戸藩主になる。
ここで、自分の立場を再確認し、水戸藩主は一代限りとし、弟として高松藩を受け継ぐと決意を強く固める。
泰姫が亡くなったのは、そういう意味だったのだと肝に銘じた。
本心は、泰姫との間に生まれた嫡男に、水戸家を引き継がせ、水戸家を名実ともに御三家としたかったのだが。
1663年、養子としていた兄の長男、綱方を後継と決める。
だが、1670年、亡くなる。
やむなく、兄の次男、綱條を養子に迎え、後継とし、意志を貫く。
頼重は、立場をわきまえ反対したと伝えられるが、ほっとしただけだった。
1653年から高松藩後継として頼常を育てており、後継にせざるを得ない。
だが、泰姫を熱愛する光圀だ。
泰姫に子が生まれれば、嬉々として後継にするのは間違いなかった。
そうなればわが子の立場はどうなるか心配していたのだ。
1673年、頼重は光圀の固い決意に応え51才で隠居し光圀の子、頼常を高松藩主とする。
頼常は頼重を父と信じ、高松を故郷と思いながら育っており、高松藩主になることに満足し、藩主となる。
頼常は幕府大老、酒井忠清の娘、松姫と結婚し、幕府との強い連携で藩政に取り組む。
幕閣の中心は、土井利勝から酒井忠清に変わっており、光圀が結婚を勧めたのだ。
光圀は、幕閣に重きをなしており、幕府の動向をにらんでの結婚だった。
ところが、1680年、家綱が亡くなり、綱吉が将軍になる。
光圀は長幼を大切にする。
血筋からすると家綱亡き後の次期将軍には家光三男の綱吉ではなく二男、綱重の子、家宣がふさわしいと推した。
酒井忠清も綱吉の将軍就任に反対した。
だが、綱吉が将軍となった。
綱吉は、酒井忠清を憎み、就任後、すぐに追い払う。
失意の中で、翌年、酒井忠清は亡くなる。
頼常が頼りとした大切な義父だったが、あっという間に死んでしまった。
綱吉は、大叔父、光圀も恨んだ。
追い出すことはできないが、精いっぱい嫌がらせする。
光圀も、高松藩主、頼常・次期水戸藩主、綱條には後ろ盾が必要だと、綱吉に対峙し一歩も引かず水戸藩主を続けた。
だが、綱吉との確執は続き押し切られ、1690年、不本意なまま隠居させられる。
文人として生きると隠居暮らしを始めるしかなかった。
1694年、小石川の藩邸に、幕閣や諸大名を招いて、華やかに能舞興行をする。
その時、重臣、藤井紋太夫を密室に招き、自ら殺す。
一部の者は見ており瞬く間に、事の次第が広がる。
光圀は、不忠の事あり成敗したと、全く自然体だった。
柳沢吉保と結び光圀の追い落としを謀った家臣、藤井を殺害し、綱吉・柳沢吉保へ圧力をかけたのだ。
綱吉に水戸家は侮れない藩だと見せつけた。
招かれた人々は、光圀の存在感の凄さに息をのみ、効果はあった。
1701年1月14日、光圀73歳で死去。
玉井弥智が看取る。
光圀亡き後、頼常に迎えられ高松城に移る。
光圀を父としながらも、頼常は生まれながらの高松藩主と思い育つ。
光圀の政治姿勢を継ぎ、初代、頼重から藩主足るべき心得を学び名君と称される。
義父、酒井忠清が綱吉に追われ亡くなると潤沢だった幕府の支援が断たれ、高松藩財政は困窮した。
そこで、思い切った自力更生の道、失対事業を起こす。
栗林荘の大改修を名目とし、周辺の治水干害対策の大事業を始めた。
働く場があり、収入を得ることで、領民は元気になり、藩内は活性化する。
同時に、柳沢吉保を幕府随一の実力者と認め関係改善を図る。
高松藩の安泰のために独自に努力し、実父、光圀との結びつきを弱めていく。
頼常は妻、松姫を重んじ、仲睦まじく暮らしたが子に恵まれない。
国元の側室、岡見八郎兵衛の娘、宝照院が2人の男子を生むが、一人は生まれてまもなく、もう一人の頼泰も幼くして亡くなる。
二人の子を亡くし子をあきらめる。
光圀は子が生まれることを待ち望んだが。
光圀が自分の血筋で高松藩が続くと信じたのを、頼常も痛いほどわかっていた。
だが難しくなった。
光圀を落胆させたくないと、父の死を前にしても後継を告げなかった。
光圀死後、意を決して初代藩主である養父、頼重の四男、頼侯の嫡男、頼豊を後継に決める。
頼重2男は水戸藩主となり、長男・三男は若くして亡くなっていたからだ。
頼常は光圀の死からわずか3年、1704年、52歳で亡くなる。
ここで、光圀の血筋は絶える。
光圀の願いを裏切り心苦しかったし、頼常の本意でもなかったが。
兄を重んじた光圀の美学が貫かれた結果となり、名君の誉れ高く語り継がれるが。
すでに、1695年、亡くなっていた頼重は、光圀に勝るとも劣らない資質を持ちながら苦渋の時を過ごした思いを、頼常に話していた。
頼常は、光圀の血筋は絶えたが、よかったと思う。
光圀は、たぐいまれなる才能を持った藩主だったが、夢が大きすぎ、財政破たんを起こし、多くの人が振り回された。
一代の英雄として終わべきだったのだ。
水戸光圀が、生涯の大義として掲げた、兄が後継となり弟が分家独立すること。
だが、近衛家から迎えた正室が子を産めば、その子にあとを継がせたかった。
子は生まれなかったが。
また、弟である光圀の家系は、高松藩主として続くはずだったが、光圀の孫は生まれず、兄にすべてを献上したことになった。
現実は予想外の結果となった。
だが、長幼を重んじるべき大義は、予想外の展開で守られた。
光圀は、大義を重んじる名君として後世に伝わる。




