㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 2
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2 藤堂高虎の妻、久の方
高虎は、久の方に対面して衝撃を受ける。
まだ15歳だが、京の香りを漂わせ、控えめながらも深い教養が伺える受け答えに吸い寄せられた。
間違いなく、名門、一色家の姫だと確信する。
高虎は25歳、ようやく武将として名をなし、伴侶を探していた。
妻としてこれ以上の女人はないと確信し、秀長の了解を得て1581年結婚する。
ここで、高虎は、一色氏一門となり、この地を藤堂家の本拠と決めた。
久の方に従う一色家中を配下に置き、藤堂村より一族を大屋郷に迎え入れ家臣団を整えた。
もの静かでふんわりと包み込む優しさのある久の方に魅せられ、力がみなぎった。
それから1年後、1582年、織田信長が殺される。
織田家は残った5人の家老(秀吉・柴田勝家・池田恒興・丹羽長秀・滝川一益)の合議制で織田家を守り率いるはずだった。
だが、弔い合戦に勝利した秀吉が一歩抜きんでた。
ついに時が来たと、織田家第一の地位を築く為に清洲会議を開く。
筆頭家老、柴田勝家を蹴落とさなければならない。
秀吉は、家老衆の一番上に立ち織田家を率いると決意していた。
まず、滝川一益が会議に遅れたと追求し家老の資格なしと決めつけ権限をなくす。
池田恒興はすでに秀吉支持を表明していた。
信長の次席家老、丹羽長秀を味方に取り込めば多数派工作は成功する。
そこで秀吉は「高吉殿(丹羽長秀三男)を秀長の養子に迎えたい。そして、共に政権を担いたい」と持ちかけた。
弟、秀長は、秀吉に次ぐ実力者だが男子がなく、秀長後継とすると約したのだ。
丹羽家が、秀吉一族の中でも、大きな力を持つことを保障したのだ。
丹羽長秀はうなずいた。
こうして、秀吉の思いは実現した。
ここから、丹羽長秀は秀吉に従い秀吉の天下取りに貢献していく。
秀吉は恩に報い、越前・若狭・加賀二郡123万石を与える。
秀長は立場をわきまえ、丹羽長秀と親しかったこともあり、大賛成で高吉を手厚く迎えた。
高吉には生母の父、杉若無心。
嫡男、杉若氏宗ら一族が従い、秀長の家臣となった。
秀吉は、織田家をまとめ率い天下平定を目指すが、信長の死の直後は、信長の威光で従えていた勢力が次々歯向かい、その反抗を沈める為に大忙しだった。
紀州では、寺社勢力が息を吹き返し、決起した。
信長は本願寺と和議を成立させ、味方した根来衆・雑賀衆らを武装解除させたが、また盛り返してきた。
「戦うほどの相手ではない。ひねり潰し、力を見せつける」と味方を鼓舞し、大兵力を擁した秀吉が総大将となり、侵攻を開始した。
秀次と秀長が副将となり、主力を率いるのは秀長だ。
その時、杉若家が大活躍する。
杉若家は、越前朝倉家の重臣で越前朝倉家は能登守護、畠山家の守護代だった。
畠山家は紀伊・和泉・河内守護でもあり、足利氏と同族になり、鎌倉時代は同格の有力御家人だった。
室町幕府でも勢力を持ち続けた畠山氏だったが、戦国時代となると、能登守護、畠山家は凋落し、武力で勝った朝倉家が、実質仕切った。
朝倉家が畠山家の上に立ち、杉若家も従う。
朝倉氏が滅亡すると、丹羽長秀に従い、そして、秀長の家臣となった。
紀伊守護、畠山家も凋落し守護代、神保春茂は、守護の名目を尊重しつつ実質、率いた。
杉若無心は、神保春茂と親しい仲だった。
そこで旧知の神保春茂に「嫡男、相茂(1582-1615)と娘の婚約を条件とし、神保家を守る」との和議を成立させた。
杉若家の働きで神保家、続いて紀伊の有力国人を秀吉の味方とする事に成功した。
神保春茂が秀吉方となり、蜂起した紀伊の国人衆を調略し、次々秀長の味方としていく。
こうして、秀長は、本願寺派と国人衆の切り離しに成功し周囲を固め、余裕で大量の鉄砲を自在に操る強敵根来・雑賀衆に勝利した。
続いて高野山も降伏させた。
1585年、秀吉は「戦功大だ。よくやった」と褒め、秀長に紀伊・和泉64万石を与える。
高虎は、秀長重臣として戦い続け、秀長から紀州攻めの拠点、赤城城築城を命じられる。
秀長が高虎の土木技術の才を認め、抜擢したのだ。
秀長の抜擢に喜び、相手に脅威を与え守りの堅い城を築くことに、夢中になって取り組み成し遂げる。
秀長は高虎の築城の才能を高く評価する。
ここから高虎は、軍事だけでなく築城にも才を発揮し、自信を持ち、秀長第一の臣になると胸を張る。
この功で、高虎は、粉河(和歌山県紀の川市)1万石を得る。
名実共に秀長家臣団の重要な一角を占める。
戦禍で荒れ果てた領地に入り、猿岡山城に入る。
ここで、優れた築城技術を駆使し、拡張改修し、猿岡山城を粉河城と名付け居城とした。
初めての居城であり鼻高々で但馬大屋屋敷から久の方ら一族を移り住ませる。
続いて秀長の居城、和歌山城・大和郡山城と築城を任され、築城の名手と称されていく。
その後も秀吉の居城、聚楽第・伏見城と築城に関わり、技術を高め城郭普請の第一人者となる。
一方、1585年、丹羽長秀が亡くなった。
秀吉が恩人と尊敬した長秀だが、長秀亡き後の丹羽家に、秀吉は冷たい。
後継の長重が、佐々成政と親しかったからでもある。
佐々成政は小牧・長久手の戦いで秀吉を裏切り、家康方に与した。
秀吉は怒り狂い、攻め降伏させ、領地をほとんど没収した。
長重は秀吉配下として九州攻めに従うが、佐々家への冷たい仕打ちなど秀吉の政治手法についていけず、忠誠心がない戦いぶりをしてしまう。
秀吉は許せず、1587年、123万石を取り上げ、加賀松任(白山市)4万石に格下げする。
すると、秀吉は、秀長の後継ぎに丹羽長秀の子、高吉では役不足だと、秀長に廃嫡するよう命じた。
久の方は、粉河城に立ち寄る秀長を接待した時、子が授からない悔しい胸の内を話した。
そのことがあり、秀吉に逆らえない秀長は、高虎に高吉を与えると申し渡す。
高虎は久の方に夢中だったが、子が授からず悩んでいた時だった。
子のないことが幸いし、秀長の養子、高吉を迎える話が舞い込んだのだ。
秀吉は「高虎は一家臣にしか過ぎず、高吉の養父には役不足だ」とすぐには許可しなかった。
それでも、1588年、秀長に男子が生まれると、高吉の高虎への養子入りを許し、高虎の嫡男とするよう申し渡した。
主君の子を養子にし「藤堂家に運が付いてきた」と高虎と久の方は大喜びだった。
ここで、久の方は高吉養母となり、高吉9歳を藤堂家嫡男として育てる。
高虎は久の方こそ藤堂家の宝だ、良き妻を持ったと興奮し抱きしめた。
久の方との結婚で秀長の重臣に躍り出て、久の方が願ったために高吉を迎え、豊臣家一門にまでなったのだ。
高虎は、秀長の第一の家老に飛び出て、活躍の範囲がさらに広がる。
一方、秀長は、わが子、小一郎をまもなく亡くし、秀吉との考え方の違いについていけず、次第に元気をなくしていく。
大義を重んじる律儀な性格で、再び、高吉を後継とし、秀長の後継としたくなる。
丹羽家を裏切りたくなかった。
その旨申し出ると、秀吉は、秀吉・秀長の姉ともの三男、秀保を秀長の娘、宮姫の婿養子にと命じる。
秀長には、二人の姫、大善院と宮姫がいた。
秀長は高吉を再び養子にしたかったが、秀吉の命令には逆らえない。
秀保を養子に受け入れたことで、秀長は大和も合わせ110万石藩主となる。
高虎は高吉を養子とし、四国・九州攻めの功と合わせ秀吉から2万石に加増される。
この時、高虎は藤堂家を近衛家に繋がる家系と記す。
近衛家の荘園、近江国甲賀郡信楽荘(滋賀県甲賀市)に、前関白だった近衛家当主、近衛家基が隠居した。
家基の子、経平を伴い、経平と接待したこの地の娘との間に生まれたのが師俊。
師俊が、多羅尾氏を名乗る。
以後、多羅尾氏が近衛家の荘園を管理し支配し、信楽随一の領主となる。
多羅尾家と多賀家とは縁戚であるとした。
高虎の母は多賀家からの養女であり近衛家と繫がるとしたのだ。
その縁を深めるべく、高虎は母のいとこ、嘉房の嫡男、嘉晴の娘を養女とし小堀遠州に嫁がせ、生まれた子を、多羅尾家に養子入りさせた。
多羅尾光忠と名乗り家督を継いだ。
多羅尾家を藤堂家に取り込んだのだ。
この間、近衛家との付き合いを欠かさず、縁を深くしている。
高虎は、後に、和子姫の入内の責任者となるほど朝廷に近づく根拠とし、さらなる大きな出世の糸口とする。
久の方は高吉の養母となる幸運をしみじみと感じる。
子を生まなかった為に主君の子、高吉の養母となれたのだ。
杉若無心の活躍で秀長・高虎は大きく出世したと感謝し、生母や杉若家とも親しく付き合う。
ところが高吉は丹羽家の変遷をおぼろげに理解し、秀吉を憎み不満が高じていく。
久の方も、高吉の悩みがよく分かり同情する。
丹羽家は余りに没落していた。
久の方は高吉を不憫に思い「養父、高虎は良き武将であり、藤堂家を継ぐ事も意義ある」と言い聞かせた。
秀長は、秀吉との仲も良く、秀吉政権で秀吉に次ぐ実力者であり家康にも匹敵する力を持っていた。
その第一の家老、高虎はまだまだ伸びる可能性があった。
高虎は素晴しい主君に巡り会えたと日々感謝しどの戦いでも戦果を挙げ、秀長の最も信頼する武将となっていた。
久の方は高吉に愛情を注ぎつつ、藤堂家の奥に確固たる地位を築く。
だがその時は短く1591年、秀長が亡くなる。
後継の秀保12歳に高虎は仕えることになる。
秀吉は秀保の後見人(付家老)を桑山重晴3万石と高虎2万石とする。
桑山重晴は丹羽長秀配下の重臣だった。
秀吉が望み、直臣とし3万石を与え、そして、秀長の家老とした。
高虎の上に位置する事になった。
高虎は気に入らなかった。
秀保にとって親代わりともなる付家老だが、どちらも高吉との関係が深い。
秀長を継いだと言っても形ばかりだと秀保は、なじめず、孤独感を感じる。
秀保(1579-1595)は、秀長の後継者だが、家中には秀長が望んだように高吉が主君になって欲しかったとの思いが強い。
直ぐに朝鮮の役(文禄の役)が始まった。
1592年、幼少の秀保の代理として高虎が朝鮮出陣する。
秀吉は高虎の渡海で十分だと了解し、秀保は名護屋に布陣し後方支援を行う。
同い年の高吉13歳は高虎に従い初陣し、立派に戦い大将の器を見せ、秀保と明暗を分けた。
高虎は水軍を自在に操る技を魅せ、戦果を上げ、秀吉を喜ばせた。
秀保は高吉の影におびえ、家中をまとめられず、秀長後継としての任を果たせないまま1594年、亡くなる。
秀保15歳、数々の風聞が飛び交う不名誉な病死だった。
秀吉は大和大納言家を改易した。
高虎は改易には納得できず、秀長に申し訳ないと、出家して高野山に上る。
すると、秀吉は、破格の待遇を示し直臣となるよう命じた。
高虎の予想通りだった。
秀吉は高虎の力を正当に評価してくれていた。
残された大和大納言家の旧臣や肥大していた一族を守る為に秀吉の元に戻る。
5万石加増の伊予板島(宇和島市)7万石藩主となる。
同時に、高吉の朝鮮での功を称え越後新発田6万石藩主、溝口秀勝の7女と婚約させた。
溝口家は丹羽家の重臣だった。
秀吉は「藤堂家と溝口家は似合いだ」と自画自賛し、祝福した。
出家という高虎の突拍子もない行動に久の方はとても心配した。
勝算はあってのことだとは分かっていたが、不安だった。
杞憂に終わり、高虎の思い通りに、独立大名として秀吉のお墨付きを取り付け、秀長旧臣の一部を受け入れることができたことに一息つく。
高吉16歳に「大和大納言家がなくなっても、藤堂家は残っている。妻を迎え藤堂家を立派に引き継ぐように」と心構えを説く。
会心の笑みを浮かべ、高虎は大洲城・宇和島城の築城に夢中になって取り組む。
城の縄張・城下町の設計は経験を積んでおり、自信がみなぎっている。
権威の象徴となる美意識の高さを表現する城作りは得意ではないが、計算高い効率的な築城を得意とした。
秀吉の考える近世城郭とは少し違うが、高虎らしさを発揮していく。




