㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 1
㉙ 大洲城(愛媛県大洲市大洲) 1
鎌倉時代末期1331年、伊予守護宇都宮氏、宇都宮豊房が築城した大洲城。
伊予宇都宮氏は、綿々と続き、南伊予地方を支配した。
それでも、戦国時代となると、毛利氏に攻め込まれ降伏。
その後、いくつかの変遷を経て、1595年、藤堂高虎の支配下になり、大洲城は近世城郭として整備される。
藤堂高虎。
名もなき武将の家に生まれ、父と共に、出世街道を驀進し、32万3千9百5十石津藩主にまで上り詰めた、英雄だ。
まだまだそこまではいかない、秀吉の世だった。
飛躍の時を待ち望みながら、じっくり大幅拡大改修して築いたのが大洲城だ。
1 藤堂氏とは
1595年、藤堂高虎は、秀吉から伊予大洲(宇和郡板島)藩7万石を得た。
加えて宇和、喜多、浮穴の6万6千石の蔵入代官となり秀吉に代わり統治する。
秀吉が求める税を納めさえすれば自由に支配できるのが、蔵入地だ。
13万6千石を実質統治する高虎が居城と決めたのが大洲城。
成し遂げた思いで自信がみなぎる高虎は、威信を賭け大洲城の拡張普請を始めた。
大洲城前藩主は戸田勝隆(-1594)。
1594年12月4日、朝鮮に出兵したが、その地で病死した。
秀吉は、華々しい戦功を上げた戦死でないのを許せず、後継者なしと冷たく大洲戸田家を断絶させた。
秀吉股肱の臣で戦功は数え切れない忠臣だった。
なのに、朝鮮での戦いぶりが気に入らず切ってしまう。
高虎は賢い。
勝隆の悲運を心に刻み、秀吉を怒らせることなく統治をすると慎重に大洲支配に取り組む。
高虎は1556年2月16日、近江犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれる。
父は虎高。
母は藤堂忠高の養女、妙清(盛姫)。
藤堂家嫡男として生まれた高虎。
後に、功なり名を残し高名な武将、藤堂高虎となるが、高虎と藤堂家の縁は薄い。
高虎は藤堂家の始まりを近衛家につながる藤原氏とし、庶流で続いたと記す。
綿々と続き足利将軍家に仕え、藤堂村を中心に近在を支配する勢力を持った。
だが、幕府の弱体化に伴い藤堂家も力をなくしていく。
高虎の祖父、忠高が当主の頃には、地侍として細々家名を繋いで、浅井家に仕えていた。
なんとか、家名を盛り立てたいと考える忠高だが、男子はいない。
娘はたくさんいたが。
そこで、男子がいないことを良しとして、優秀な妹の娘、妙清(とら姫)を養女とし、優秀な婿養子を迎え、藤堂家の運を開かせようとする。
妹は、近江最大級の神社、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)の神官、多賀氏に嫁いでいた。
多賀家は近江守護、京極家の重臣だったが、京極家衰退後、浅井家に客分扱いで仕えていた。
その娘、姪、妙清を養女とする。
選んだ婿は佐々木六角氏を祖とする三井一族、鯰江氏の虎高だ。
鯰江氏と藤堂氏は同族で縁戚も続いたが、戦国時代の始まりと共に、両家とも弱体化が進んでいた。
それでも、鯰江氏は、藤堂氏程は落ちぶれていなかった。
虎高は近江国鯰江(東近江市鯰江町)城主、三井乗綱の次男。
三井氏嫡流は、後に、三井財閥を築くが、虎高は三井家庶流の武家だ。
しかも次男で養子に望まれ喜んだ。
1516年生まれの虎高(1516-1599)は、時勢に敏感で、野心に燃え、鯰江家ではすべきことがないと武者修行の旅に出た。
そして、甲斐の武田信虎(信玄の父)に仕え「虎」の一字を賜り虎高と名乗ったと、等々と語るほどの武勇伝と共に故郷に戻っていた。
忠高はこの若者を見込み、縁組みを主君、浅井家に願い出る。
多賀家は藤堂家・鯰江家より家格が上で、浅井家の旧主、京極家に繫がる家柄でもあり、浅井家との縁組みも続いていた。
近江の覇者を目指す浅井家は、多賀家を中心に、藤堂家・鯰江家を配下にし、強力な家臣団を作ることとする。
藤堂家ではなく、多賀家、妙清の結婚として認める。
多賀家生まれの妙清は、浅井家の養女となり、続いて、藤堂家に養女に入る。
次に高虎を婿養子に迎える、とのややこしい手順を踏んだ。
この時点では、藤堂家は意味がなく、多賀氏生まれの妙清が浅井氏の養女として鯰江氏(三石)の虎高と結婚したのだ。
形式的には、藤堂家の跡取り娘、高虎の母、妙清が堂々と婿養子を迎えた。
こうして、藤堂家は主家、浅井家と繫がり、藤堂家の飛躍が始まる。
虎高は、浅井家(多賀家)に婿入りしたと心に刻み、藤堂家は浅井一門だと、折に付け話す。
武将として抜きん出た力を持つ藤堂虎高は、藤堂家当主として三家をまとめつつ新たな藤堂家を創っていく。
母、妙清の妹の子、良勝を藩主一門、藤堂新七郎5千石家老家として迎えた。
多賀(藤堂)良政と藤堂忠高7女の間に産まれた嫡男だ。
同じく母、妙清の妹の子、良政に藤堂玄蕃家を起こさせる。
多賀(藤堂)嘉房(1543-1603)と藤堂忠高の娘との間に産まれた子だ。
藤堂家の上に位置した多賀家を取り込んだ。
藤堂家は浅井家の戦いに従い、先陣を切った戦いを続けていく。
負担も犠牲も大きいが浅井長政に従い虎高・高虎親子は目覚ましい働きを見せる。
高虎は父以上に上昇志向にあふれた自信家で多才で勉強家だった。
たくましい剛健な身体に恵まれ武芸の力は並外れ、素早い攻撃力で数々の武功を上げる。
だが浅井家は滅びた。
高虎は、浅井家が滅びると、一からの出発だと覚悟を決め新たな主君を探し、次々仕えるも納得できる主君はいなかった。
そこで1576年、浅井氏に成り代わった秀吉を主君と決めた。
秀吉は高虎を弟、秀長に付けた。
高虎は、秀長に対面した時、運命を感じる。
初めて胸が高鳴り震えるほどの主君に出会ったのだ。
秀長(1540-1591)も高虎の仰ぎ見る姿を好ましく思う。
二人は以心伝心で通じる所があり、秀長は高虎の才を引き出し開花させる。
高虎は一心に秀長の後に付き従い戦果を挙げ、秀長が頼りとする存在になる。
秀吉は信長から中国攻め総大将を命じられ、秀長に但馬(兵庫県北部)平定を命じた。
1577年、秀長は高虎を従え、但馬に出陣、竹田城(兵庫県朝来市)を手中にし居城とする。
この頃の但馬は織田信長と毛利輝元に従う勢力が複雑に絡み合い拮抗していた。
その中で、秀長は但馬の諸将を攻略し、誠実に対応し味方にし、優勢に戦いを進めていく。
1580年、毛利方、但馬守護、山名祐豊(1511-1580)を追い詰め自害させ周辺を制圧した。
高虎の功も大だ。
毛利勢を追い払い但馬平定を終える。
秀吉は満足し秀長に但馬10万5千石を与えた。
同時に、秀吉は領地内の生野銀山(兵庫県朝来市)を秀長に預け資金源にするよう命じる。
鉱山の利益に着目していた秀吉は、早くから生野銀山の利益を手に入れたがっていた。
但馬侵攻が進む中、高虎は、秀長の命じられ、大屋郷加保村(兵庫県養父市)の有力土豪、栃尾裕善を調略し、配下とした。
すると、秀長は、高虎に栃尾裕善の支配する明延銅山(兵庫県養父市)の復興を命じた。
栃尾裕善は高虎配下となり、地の利を生かした戦いを先導し、戦功をあげた。
高虎は、高く評価し信頼していく。
そして、明延銅山を熟知していると知る。
しかも栃尾裕善は高虎に、明延銅山の鉱脈探しに目星をつけていると話したのだ。
高虎は、栃尾裕善を信用し、資金援助し、鉱脈を探し当てる。
栃尾裕善の持つ鉱脈に対する眼力、知識に感心した。
秀吉・秀長が納得する成果を上げた。
この間、高虎は、鉱山経営の猛勉強をした。
そこで、秀長は、続いて、生野銀山の採掘管理を任せた。
高虎は、栃尾裕善と共に生野銀山を詳細に調べ、採掘量を増やし多くの富を生み出していく。
こうして、秀長の信を得て、腹心となり、重臣の一角に名を連ねていく。
栃尾裕善は高虎の腹心となる。
この地の治安維持に貢献し、高虎に、この地の情報を知らせる。
その中に丹後守護、一色義直(1431-?)一族の隠れ家の情報があった。
一色氏は尾張守護、斯波氏・美濃守護、土岐氏など縁戚とする足利一門だ。
1493年、一色義直が行方不明になると凋落し、形だけの守護となった。
以後当主は、義春、義秀、義有、義清、義幸と続き義道は、但馬への亡命を企てたが、途中襲われ1579年、自害した。
以来、家中は、散りじりになるが、義道の忘れ形見、久の方を守り逃げ、大屋香住中野村に潜んでいた一族家臣がいた。
高虎は興味を覚えて対面を望む。




