③ 米沢城 (山形県米沢市丸の内1丁目)
③ 米沢城 (山形県米沢市丸の内1丁目) 1
米沢城では、歴史を彩る有名人が数多く生まれた。
米沢城は、鎌倉幕府を主導した大江広元の次男、時広が、出羽国置賜郡長井郷の地頭となり、この地に1238年、築城したのが始まりだ。
その地の名をとり、長井氏を名乗る。
紆余曲折があり、長井氏が大江氏の惣領となる。
つまり、大江家の惣領が築いた城が、米沢城だ。
大江氏は、西国の雄、毛利元就の祖だ。
大江広元の4男、季光が毛利氏を名乗って始まった。
嫡男となり宗家を継いだのが、兄の長井時広で、米沢城を居城とした。
長井氏が、長く支配していたが、伊達氏が台頭し、1380年、長井氏を放逐、城を奪う。
伊達氏が支配する米沢城となった。
1548年、伊達家当主、伊達晴宗が移り住み、伊達家の本拠となる。
米沢城が、東国の雄となる伊達氏の本拠となったのだ。
1567年、伊達政宗は、この城で生まれた。
米沢城で成長し、1584年、家督を受け継ぐ。
1589年、政宗は蘆名義広を破り、その居城、黒川城(会津若松城)を奪い、移った。
だが、秀吉は、黒川城(会津若松城)を支配することを認めず、再び米沢城に戻る。
ここまで伊達家の本拠の城だった。
1591年、伊達氏が去り、会津を得た蒲生氏郷の支配下になる。
1597年、120万石で会津を得た上杉景勝の支配下になり、米沢城主には筆頭家老、直江兼続(6万石、与力分を含め30万石とも)がなる。
上杉景勝は、上杉謙信の後継だ。
関ヶ原の戦いで、西軍となった上杉氏は、敗戦により、置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石(実高51万石)に減封され、米沢城を本拠とする。
以来、上杉氏居城として幕末まで続く。
米沢城は、支配した幾人もの当主と共に、歴史に名を残す名城だ。
■上杉を背負う強き女、お船
1597年、上杉家筆頭家老、直江兼続(1560-1619)が米沢城主となった。
上杉家を背負い、関ヶ原の戦いのきっかけを作った武将だ。
直江兼続の妻がお船。
お船(1557-1637)は、直江家の家付きの娘で、1581年、兼続を婿養子に迎えた。
結婚前、上杉家に仕え、結婚後も生涯、上杉家に仕え続ける典型的なキャリアウーマンだ。
直江兼続は藩主、上杉景勝に、お船は藩主の妻、菊姫に仕えた。
どちらも側近中の側近となり、権勢も持った。
だが、上杉家を天下分け目の戦いの引き金にしてしまった。
そして家康に完敗。
上杉家は会津藩120万石から米沢藩30万石に格下げだ。
天下分け目の戦い時、お船は、藩主、景勝(1556-1623)の妻、菊姫(1558-1604)と共に、伏見の上杉屋敷にいた。
秀吉が生存中から、家康の天下となっても変わらず、伏見に住まう。
住まいは同じでも、立場は大きく変わった。
秀吉存命中は、政権を支える大大名の屋敷だったが、敗戦後は、家康に逆らった反逆者の屋敷となったのだ。
菊姫は、家康の人質としての暮らとなると、息が詰まり、病気がちとなる。
そこで、余命は長くないと悟り、決意した。
40歳を超えた自分には、上杉家の後継を生むことは望めない。
後継にふさわしい男子を産む女人を見つけると。
菊姫は、思いの丈をすべてお船に話す。
お船は、菊姫に命じられ、成り代わり、景勝に似合いの女人を探すことになる。
武田信玄の娘、菊姫は、父を引き継ぎ、公家・朝廷と親しい付き合いを続けていた。
そんな人脈をたどり、お船は、公家、四辻公遠の娘、桂姫(1585-1604)を見つける。
菊姫も会い「きっと、景勝殿も気に入ります」とうなずく。
ここで、菊姫は、きっとお船を見据え「桂姫を見守り、世継ぎを誕生させるように。お願いしますよ」と命じた。
桂姫とともに、京を離れ米沢に戻るようにと。
お船は、病勝ちの菊姫を残して、米沢に戻りたくなかった。
だが、菊姫の決意は固く、動かしようがなかった。
やむなく、お船が菊姫に成り代わり準備をしていく。
まず、主君、上杉景勝の了解を得て、四辻家に桂姫17歳と上杉景勝の婚儀を申し出る。
四辻家は、潤沢な資金の申し出に喜び、病勝ちの菊姫に成り代わる国元妻として桂姫を嫁入りさせることを承知する。
お船は、もう菊姫に会えなくなるかもしれない不安に動揺しながら、準備を終える。
1602年、お船に伴われ桂姫は、46歳の新夫、上杉景勝が待つ、米沢城に向けて出発する。
京から遠い米沢に向かう心もとない旅だった。
道中詳しく、お船から景勝について聞く。
お船は、話がうまい。
次第に、桂姫は、景勝のイメ-ジを自分なりに創り、好きになれそうな気がしていく。
米沢城に入り、景勝と桂姫との対面となる。
お船から詳細な経過の説明を受け、菊姫から心のこもった便りを受け取っていた景勝に異論はない。
お船の取り計らいで、桂姫と景勝は祝言を上げ、新婚生活を始める。
家中は、お船が側室を連れてきたという感覚で、関心は薄かった。
お船が意気込んで、景勝のくつろぎの場であり寝所として屋敷をしつらえても、景勝は伏見・江戸へ忙しく動かざるを得ず、米沢に長居できない。
やむなく、会える時の少ない景勝が桂姫を訪ねる時間を作るために、米沢城での景勝の政務を最小に済ませるよう目を光らせる。
お船45歳、上杉家に長く仕え、隠然たる力を持っており、景勝の、米沢城での生活を仕切っていく。
誰にも、文句は言わせない。
家康の天下となり、豊臣恩顧の大名が争って徳川ゆかりの姫と結婚しようとしていた。
家康に繋がる子を持ち、親戚衆の一員になることが、お家安泰の一番の早道だったから。
家康が気に入っている景勝の甥、長員に徳川ゆかりの姫を迎えて、世継ぎにするのが、上杉家の安泰には一番良い方法だと考える重臣も多い。
お船も、それが得策だとも思う時もある。
景勝と桂姫がゆっくり会う時間を取れない時、自分に確信が持てず、落ち込んだりした時だ。
けれど景勝は、家康の実力を認めるが、上杉家の誇りを捨ててまで、完全な支配下にはならない、強い信念を持っている。
何よりも、菊姫が、景勝の子が上杉家を継がなくてはならないという揺るぎない信念を持っている。
菊姫の願いは絶対だと、お船は肝に銘じる。
弱気になってはいけないと、気を奮い立たせる。
幕府に敵対することにつながり、上杉家を危機に陥らせるかもしれない不安におののきながらも、我が子の世継ぎが欲しい景勝のために、毅然として、桂姫との逢瀬を取り計らう。
桂姫は、米沢に着いた当初、城内の緊張感を重苦しく感じ、居づらく、京に戻りたいと心細そうに話した。
お船は、桂姫の心細い思いを受けて、対処を考える。
まずは、そば近くに付きっ切りで、心安く過ごせるように、にこにこと笑顔で世話を焼く。
そして、上杉家の変遷、直江家の始まりを面白おかしく、それでも愛情深く話す。
桂姫は、その気迫の籠った話に笑い、同感し、うなづく。
気を取り直して、責任の重さを感じつつも、景勝を待つ。
景勝は、桂姫を愛おしそうにみつめ、寸暇を惜しんで会いに来た。
お船も景勝も上杉家へのとてもおおきな試練の時だとわかっている。
存亡の危機となるかもしれない、大きな役目を担っているのだ。
お船は、その責任を果たしたいし、必ず果たすと悲壮な決意を持っている。
思いは桂姫も同じだ。
実家、四辻家は、苦しい上杉家の財政の中から援助を受け、その支援を必要としている。
桂姫も実家の役に立たちたいと念じ、次第に強くなっていく。
桂姫は、自分を支えてくれる人たちや実家のために、景勝を熱い思いで待つ。
景勝の人となりもわかってきて、夫として理解できるようになると、愛情も深まる。
景勝との愛の営みに緊張しながらも身をゆだねる。
景勝も桂姫との確かな愛を感じ愛しく思う。
景勝はいつも厳つい顔をしていた。
その顔つきは変わらないが、桂姫にふと見せる笑顔に、お船は二人の仲むつまじさを感じ、きっと子が授かると信じる。
ようやく、我に返り、夫、兼続や子達の待つ米沢城下の我が家に戻る時が来た。
家族の団らんを味わえる余裕が出て一息つく。
家族との暮らしは二の次で、桂姫に賭ける日々だった。
それでも、お船は、忙しい。
景勝の母、仙桃院綾姫・次女、桃姫の動きを注視しなければならないからだ。
お船が桂姫の為に京風に屋敷を整え、心安らぐ暮らしをしつらえると桃姫は、激しく怒った。
「桂姫はただの側室に過ぎず特別の待遇は許さない」と叫び、緊迫感に包まれる。
仙桃院綾姫は、1554年、長男、義景。
1555年、長女、華姫。
1556年、次男、景勝。
1560年、次女、桃姫。と生んでいる。
この頃、生きているのは、景勝と桃姫だけだが。
お船は、桃姫の動きを気にすることはない。
景勝の命令だと強気で押し切る。
それでも、兼続と協力し、細心の気配りで桂姫の出身優秀さを伝え、桂姫を暖かく見守る賛同者を増やしていく。
桃姫には、1574年、畠山景広。
1579年、畠山義真。
1582年、上杉長員。と3人の子が生まれている。
景勝が養子にした我が子、長員に、上杉家を継がせたいと心底願っている。
そんな時、菊姫の病が重いとの報が届く。
お船は、桂姫には知らせず、祈る想いで懐妊を待つ。
米沢に戻り一年余り経った時、待ち焦がれた桂姫の懐妊がわかり、米沢家中は大喜びとなる。
お船と桂姫は溢れる涙そのままに、手を取り見つめ合い、頷いた。
急ぎ菊姫に知らせる。
菊姫も吉報を受け喜ぶ。
景勝が伏見入りし、桂姫に子が授かったことを知らせ、菊姫の気配りを感謝する。
菊姫は、うなずき、安心し、1604年3月16日、景勝の腕の中で安らかに逝く。
お船はしばらく、菊姫を思い出しては泣く日々となる。
3か月後、1604年6月2日、米沢城で米沢藩第2代藩主、定勝が誕生。
お船は、天にも昇る思いで桂姫を褒め称え、感謝した。
そして、天に向かい胸を張り、涙をあふれさせつつ菊姫に報告した。
しかし、桂姫はすべての力を出し切ったかのように、産後の経過が悪く、菊姫を追うかのように日々やせ細る。
景勝は米沢城にはいない。
「最後に、一目でもお会いしたい」と景勝の帰りを待つ。
景勝がようやく米沢城に戻り、定勝の元気な様子を確認し心から褒め、菊姫からの感謝の言葉を伝えた。
桂姫はお船に、定勝の母代わりとなって育てて欲しい、と何度も頼み、この日までの礼を述べる。
お船は「必ずお守りします」と答えた。
桂姫の衰弱ぶりが見ていられず、責任も感じ、ただただ手を取り、励まし続ける。
桂姫はうなずき、景勝に看取られて、穏やかで神々しい微笑みを浮かべて亡くなる。
お船は、余りにも早い二人の死が信じられなかった。
相次ぐ大切な人の死はつらすぎた。
けれど赤子は元気に泣いていた。
運命も感じ、強くならなければと、身を震わせる。
上杉家は、米沢藩30万石藩主になってしまった。
だが、謙信以来の優秀な家臣団を抱えたままであり、藩財政は窮乏していた。
その責任を重く感じている直江家は、最小限の収入で暮らした。
兼続は米沢藩の安泰の為に、捨て身で取り組み働き続け、命を削っているのがお船には痛いほどわかる。
お船も限界近くまで働き、起き上がるのも難しい時もある。
菊姫や桂姫のもとに行く日も近いと思えた。
そんな時、夢枕に菊姫や桂姫が現れお船に「死んではいけない。定勝のために生きなさい」と励まし命じる。
その言葉に促され悲壮な決意で起き上がる。
菊姫と桂姫に祈りをささげ「定勝さまが成長されるまでお守りください」と念じる。
お船の身体の中に菊姫・桂姫が蘇る。
二人に見守られている気配をそこかしこに感じるようになる。
こうして、二人の定勝への愛が、お船の体の中で幾層にも重なりあい、定勝は我が子だと、思えてくる。
宝を預かる責任と喜びが沸き上がる。
景勝の悲しみも大きく、落ち込んでいた。
それでも「定勝の母代わりで育てよ」とすがるような真剣な目でお船に命じた。
夫、兼続も定勝の誕生を喜んだが、意外なことを言い始める。
「殿はまだ48歳、徳川ゆかりの姫との再婚を望べば子が生まれるかも」と。
米沢藩は、30万石の表高以上の収入を得る見込みが立ち、家臣の暮らしは落ち着いた。
藩政は安定しており、家康との縁を深め雄藩の一角に入り込むべきではないかと考える重臣も居たからだ。
お船はむかついたが、兼続は、徳川家ゆかりの姫との再婚を願い出るべき、と景勝に進言した。
しかし、景勝は何も答えずいつもの無表情で遠くを見つめ、兼続を見ることはなかった。
その横顔に上杉氏の誇りを失わず生きる意地を見た。
お船は「よかった。それでこそ上杉の殿だ」と安心した。
兼続は「愚かな考えだった」と二度と口に出すことはない。
お船は幕府に忠誠を尽くしながらも一線を引く、景勝の信念のある熱い生き方が好きだ。
その分、上杉氏存続の唯一の切り札、定勝を任された重圧に息も出来ない日々が続くが。
まもなく、定勝は手足を思い切り強く動かしながら、お船を目で追い笑顔を見せ始める。
「(定勝から)大丈夫だよ。元気だから落ち着くように」と励まされた。
苦笑いしながら「菊姫様と桂姫様の想いが籠もった愛しい若様。さすがです」抱き上げる。
この時からお船は定勝の健やかな成長を確信し、おおらかな母の顔を見せる余裕が出る。
「上杉家のお世継ぎは、こんなに立派で元気ですよ」と定勝を抱き上げ天国の二人に語りかける。
桃姫への監視の目を緩めることはない。
兼続の強引さを諫めたお船が、今は、兼続と同じ強引さで米沢城の奥を仕切る。
お船と兼続は、屋敷で顔を合わす日は少なくなり、米沢城内で顔を見合わせることの方が多くなる。
上杉家の安泰のために命を賭けて働く、との共通の目的があり、どんなに忙しくても心は一つだ。
米沢城は、兼続の居城だった城だ。
兼続は知り尽くしており、主君、景勝の為に、改修整備していく。
上杉家の名誉を守りながらも、石高に応じた、こじんまりとした城とした。
また敗軍の将として戦う城ではなく、誰にも理解できる開かれた平和な城とする。
定勝が健やかに育つための住みやすい城となる。
定勝の娘、三姫(上杉富子)が吉良上野介に嫁ぎ、上杉家は再び激動の時代が始まる。
定勝の嫡男、米沢藩2代藩主、綱勝に子がなく、三姫(上杉富子)と吉良上野介の間に生まれた綱憲が養子入りし、3代藩主となる。
綱勝が25歳での不可思議な急死となったため、後継なしと改易の危機となったが、どうにか、綱憲の引き継ぎが認められた。
幕府は、綱憲への引き継ぎ時、米沢藩の石高を30万石から15万石に減らす。
吉良上野介は、米沢藩主の父となるが、赤穂浪士討ち入りへと続き、非業の死となる。