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②盛岡城 (岩手県盛岡市内丸1番)3

②盛岡城 (岩手県盛岡市内丸1番)3


■2代藩主、南部重信の妻、会津藩主、加藤嘉明の娘。

1632年、重直は、父の死去により26歳で家督を継ぐ。

我こそ南部盛岡藩主だと自信あふれた厳しく激しい性格の藩主の誕生だ。

藩主と正室から生まれた御曹子であり、家中はまとまるはずだった。


祖父、信直は、前藩主の娘婿養子だが、嫡流の娘の死後、当主になり苦労があった。

父、利直は、側室の子だとされ、藩主権を確立するまで苦労があった。

比べて、生まれながらの嫡男、重直は、怖いもの知らずだ。


だが、予想外に多難な引継ぎだった。

父が広げた盛岡藩の壮大な事業の継続完成には、家中に苦労を強いる多大な費用と時間が必要だった。

祖父、信直・父、信直の事業を継続し、完成させることが藩主の第一の仕事と父から言われたが、荷が重かった。


また、藩主になってもまだ、子供がいないと重臣が大げさに心配した。

今まで気にしていなかったが、家中の動向が気になる。

ようやく血筋の正しい藩主となったが、後継はいないと非難される。

 

母の実家、蒲生氏・妻の実家、加藤氏は、外様藩で、幕府から厳しく扱われており、実家の動向が南部家を揺るがしかねなかった。

藩政のかじ取り次第では、外様の南部藩にも火の粉が飛んでくる恐れがあった。

などなど。


それでも、藩主として大手を振って国元入りする。

江戸で生まれ育ち、江戸の街並み、発展を見続け、盛岡でも出来ることは実現したかった。特に、交通網の整備、街道づくりにこだわりがあった。

盛岡城に向けて、物流が動き、活発になるよう盛岡城下町を作るのだ。

国元に入り、早速、構想を練っていた城下町づくりに取り掛かる。

次第に、盛岡城下に豊富な物資が集まり、人も集まり、にぎやかになり発展していく。

藩主になった醍醐味を味わうことができた。


1634年、母の実家、松山藩主、蒲生家が改易となる。

母、お武の方の甥、藩主、蒲生忠知が亡くなり、後継なしと見なされたのだ。

お武の方は、養子を願っていた忠知の意思を無視し、藩主としての能力なしと決めつけた幕府を恨む。


1627年まで、会津藩藩主だった蒲生家。

忠知の兄、嫡男、忠郷が、藩主だったが、後継なしと、一旦改易された。

家康娘、振姫を母とする弟、蒲生忠知が継ぐはずだったが幕府は認めなかった。

そしておもむろに、弟、忠知に松山藩が与えられた。

60万石から24万石への格下げでの松山藩主となり、松山城に入った。


以後、徳川系の家臣に思うように振り回され、子もできず、30歳で亡くなる。

待っていたように幕府は、改易・断絶とした。

母、お武の方は、家光の力を見せる為の外様つぶしだ、あまりにひどいと涙する。

重直は、実家をなくした母の思いが、よくわかった。


妻との関係でも同じ悩みを抱えるようになる。

重直(1606-1664)の妻は、会津若松40万石藩主、加藤嘉明の娘。

蒲生家を引き継いで、会津藩主となった。

利直は、蒲生家の後に会津若松藩主になった加藤家と親しくすべきだと、重直との結婚を望んだ。

幕府も賛成だった。

重直も、参勤交代での通り道であり、身近に感じ、大藩でもあるし、良縁だとうれしかった。


1627年、結婚した。

なかなか子に恵まれなかったが、ようやく嫡男、長松丸が生まれ、喜んだが、まもなく夭折。

がっくりした。

重臣が心配し、子の生まれない重直のために、国元での側室を推す。

八木沢氏お亀の方(?-1636)だ。

閉伊(へい)郡(ぐん)八木澤村に住し八木沢氏を名乗っていた南部一門、一戸氏の娘だ。

国元での側室であり、妻も認め、側室として迎えた。


そんな時、異母妹、七姫から最上氏に縁ある女人の悲劇を聞かされ、興味を持って会う。

山形藩57万石が改易され、藩主最上氏一族はちりじりになった。

武家として、再興し生き残る一族がいれば、生活にも困る一族もいた。

そんな中で、生き残りが難しかった最上一族の娘が、最上(もがみ)奥(おく)だ。


最上(もがみ)奥(おく)は、最上氏改易の屈折した思いを持ちつつ、強さを秘めたこぼれる美しさがあった。心惹かれ、宇留田佐兵衛の娘、勝山の方として側室にする。

勝山の方は、最上(もがみ)奥(おく)と呼ばれる。

最上(もがみ)奥(おく)と重直は、熱く燃え上がった時を過ごす。

だが、最上(もがみ)奥(おく)の安住の地とはならず、数々の困難が待ち受ける。


国元で、最上(もがみ)奥(おく)とお亀の方、二人の側室が競い合う。

まもなく、お亀の方に子が授かる。

南部家臣は、後継は南部家に近い女人から生まれて欲しいと願い、お亀の方は歳暮にふさわしいと喜んだ。


改易された最上氏に繋がる最上(もがみ)奥(おく)は家中から嫌われた。

重直に愛され盛岡の人となろうとする最上(もがみ)奥(おく)は、重直には奥ゆかしく賢く、愛した。

その愛に応えたいと必死で努力する最上(もがみ)奥(おく)だが、家中からは冷たい視線で見られ続けた。

重直は、愛する最上(もがみ)奥(おく)を邪険に扱う家中が腹立たしい。

江戸生まれ、江戸育ちの重直は、国元の一族・譜代の臣との縁が薄く彼らは冷ややかだった。


お亀の方は、難産で、苦痛に顔をゆがめたまま、子ともに亡くなる。

家中は、最上(もがみ)奥(おく)が呪い殺したのだと噂する。

最上(もがみ)奥(おく)は「私は、ただ殿のお子を授かりたいだけ。いわれなき罪を擦り付けられては我慢できない」と家臣への罰を願う。

重直も納得した。


それでも、ようやく授かった子が、男子だったと知り、母子共の死に無念の思いもする。

家中の最上(もがみ)奥(おく)への非難に心動かされるところもでてくる。

次第に、最上(もがみ)奥(おく)との間に隙間風が吹く。

最上(もがみ)奥(おく)は、重直に愛され続けたいと、必死だ。


子が生まれないことは、家中を不安にさる。

重直も悩み、最上(もがみ)奥(おく)とお亀の方の親族らとの調整に手間取り、心労もかさみ、体調崩して、1636年の参勤日時に遅れてしまう。

参勤交代は、大名が幕府への忠誠心を示す、第一の行事であり、重要なことだった。

また、家光は、新将軍として大きな決断、熊本藩、加藤家・松山藩、蒲生家の改易を行い、緊張しつつ様子見の時だった。

両家に大きく関与している南部重直の動向にも注視していたが、参勤交代に遅れ、激怒した。


重直も、母の涙に心動かされ、幕府の裁定に納得できず、登城が遅れたのでもある。

家光は、重直は裏切った改易も辞さずと、逼塞(ひっそく)(門を閉ざし昼間の出入りは許されない)を命じた。


重直は、家光の命令に従い、ひたすら許されるのを待った。

藩主として優れ、治世も順調であり、家中に不和はあるが内紛とまでは言えない。

家光も許さざるを得なかった。

やむなく、逼塞(ひっそく)期間が過ぎると遠慮(自宅での謹慎)処分とした。


そんな時、1641年1月、江戸京橋桶町で出火、大火となり、死者数百人を超す大惨事となった。

重直は、謹慎中だったが、家臣団を引き連れて消火活動の先頭に立ち、見事な働きをする。ここで謹慎は解け、南部藩の名誉は回復した。


消火を通じて重直は、大都市での密集した木造の住まいゆえの火災の危険性を実感し、消防のあるべき姿を研究していく。

そして、万が一に備え消火活動の構想を練る。


だが、災いは続く。

結婚して16年、1643年、義父、加藤嘉明を継いだ明成が、改易された。

それまでも、家中の内紛で、幕府が厳しい対応をとっており、心配していたが、不安は的中、会津藩主としての器なしと追い詰められ、改易となってしまった。


明成の次弟、明信(監物)は、会津藩筆頭家老3万石だったが、当然、改易。

三弟、明利は、陸奥二本松3万石を得ていたが、会津藩の内紛時、1641年不可解な死を遂げ、幕府から死因を疑われ、改易されていた。

兄弟すべてが、改易となった。


明成の子が近江水口1万石藩主で、明利の子たちが旗本として家名を復興するが。

わずかでしかない。

1644年には陸奥三春藩3万石藩主だった、嘉明の長女、星覚院の子、松下長綱が、乱心したとの言いがかりで、改易。

皆加藤宗家、明成に連座したとみなされた。


次女は、池田長政(1575-1607)に嫁ぎ、死別後、公家、日野光慶に嫁いでいた。

日野家を継ぐ嫡男、弘資(1617-1687)。

娘、後光明院(1633-1654)中納言典侍。

の二人の子が生まれていた。


中納言典侍は、後光明天皇に仕え、その後、将軍の娘、和子姫に仕える。

幕府の直接の勢力範囲外であり、和子姫に縁ある勤めであり、和子姫が守り、次女一族には類が及ばなかった。


末の姫、三女が重直の妻だ。

重直も、加藤家との関係を詮索される。

妻は、二人の間に、子はなかなか生まれず、ようやく生まれた長松は、夭折してしまい、落ち込んでいだ。

そして、実家の悲劇、南部家に迷惑をかけられないと悩み続け、寝込んでしまう。


この間も国元では、側室が選ばれ、後継者づくりに必死だった。

家臣、岸本右衛門の娘、隆高院お陽の方(?-1679)が側室になる。

子は授からなかった。 


続いて、家臣、吉田氏の娘、奥女中、吉田氏が側室になる。

1644年、吉松(1644-1652)が生まれる。

8歳で亡くなるが。


実家が改易となり、吉松が生まれたことを知った妻は、離縁を申し出る。

重直は「気にすることはない、今まで通りでいい」と受け入れなかった。

それでも、重直も幕府の動きを注視せざるを得ない。

1647年、妻との間に、楽姫(1647-1654)が生まれる。

妻は、体調は優れず、深く決意し、離縁を申し出た。

お武の方は大反対したが。


妻は、吉松が生まれ育っていると安心し「役目を終えました。私が早く南部家を去ることが一番、重直殿にとって有益なのです」と決意を譲らない。

重直には苦渋の決断だったが、1648年、離縁を決める。

将軍、家光の意向だと判断した。


家光の勘気をこうむっており、加藤家の改易の連座を避ける為、無念だったが、離縁した。

1647年、妻は娘を連れて、加藤家旧臣を頼り去った。

重直は、生涯経済的援助を続けた。


重直は、優秀であり藩政に役立つと、七姫が引き連れた最上家の旧臣に加えて、改易された加藤家・蒲生家の旧臣を召し抱えようとするが、一族譜代の臣は猛烈に反対する。

少しでも、彼らの役に立ちたい思いは断ち切れない。

生まれついての御曹司、なるべくしてなった藩主として意地を通したかった。

母、お武の方の為にも、引くに引けなかった。


ここから、父には従ったのに、重直に従わない譜代の臣を、役職から排除したり、追放したりと過酷な制裁をしていく。

もはや、自分を抑えることはなく、激しい一本気な性格そのままに家臣の再編成をする。

江戸で生まれ育った重直には、国元の家臣との交流の機会が少なく、意思の疎通が難しいところがあった。

厳しい家中の反発を強権で押し切り、藩主の威光を示すしかなかった。


江戸では、幕府の意向が気になる。

父、利直は、幕府の手伝い普請に率先して加わり、良好な関係を築いた。

そんな関係を当然のこととし、そのまま引き継いだつもりだったが、幕府への対応が甘かったと、深く反省した。

父以上に、幕府への忠誠心を見せると決意した。


家光の印象をよくすることは至難の業で悩みも多かった。

すると、運良く、1651年、家光が亡くなる。

将軍、家綱(1641-1680)の時代となった。

家綱は家光とは違う幕政を目指し、重直は家光の呪縛から解かれた。

南部家は甦ると喜んだ。

だが翌1652年、吉松が亡くなり、男子はいなくなり、後継者に悩むことになるが。


それでも、新将軍、家綱は新しい幕政を目指しており、関係改善が見込めることが救いだ。

もともと、重直は、江戸生まれの江戸育ち、幕閣との親しい付き合いがあった。

ただ国元での藩政が思い通りにはならず、後継者を巡る争いや親族への冷たい対応などで、家光への忠誠心が薄れてしまっていた。

落ち着いて、幕府への忠誠心を持ち、後継者をどうすべきか考えつつ、南部藩政に打ち込む。


そんな時1657年、江戸本郷丸山の本妙寺から出火、死者は10万人を超える大火となる。

世に「振袖火事」と呼ばれる、大火災だ。

重直が追究していた消防の知識を実践する時が来たのだ。

類焼を防ぐ方策を、大胆に実践しつつ、消火に当たる。

自ら先頭に立ち、大活躍する。


将軍、家綱は感心し、重直を呼び、直々に褒めた。

南部藩は、幕府に忠誠を誓う雄藩と認められたのだ。

重直は、家光との取り次ぎで堀田正盛を頼りにしていた。

家光・堀田正盛亡き後、信頼に足る人物は、堀田正俊(1634-1684)と考えた。


正俊に近づき、多くの献金をしながら親密さを深めていく。

次第に、将軍との良好な関係が生まれ、仲を取り持つ正俊に感謝し、後継者を相談するようになる。

すると、堀田正盛の子、正俊の弟、勝直(1642-1659)を養子に出そうと言ってくれた。重直は「南部家は、幕府中枢と結びつき、譜代大名になれる」と大喜びする。

将軍・家中の賛同を得て、1659年、勝直を養子に迎えた。

ところが迎えて間もなく、勝直は亡くなる。


南部藩の未来を予測するような勝直の死に、恐れ、どうすればよいか悩む。

ところが堀田正俊は「外様大名に厳しかった時代は終わった。南部藩政を幕府の意向に沿い執るだけで十分です。思い通りの後継者を決めれば良いのでは」と助言する。

 重直の幕府に対する忠誠心は十分示し、認められていたのだ。


そんな時、本館甚右衛門慶記(慶起)(1630-1701)の妹貞心院お蘭の方を側室にする。

本館氏は、稗貫(ひえぬき)氏が始祖で、陸奥国稗貫(ひえぬき)郡(花巻市)を支配した有力国人だった。

源義朝の郎党として活躍した中条家長を祖とする武蔵七党横山党の一族になる。

源頼朝の奥州藤原氏攻めに従い、戦勲をあげ、恩賞としてこの地を得て、稗貫(ひえぬき)氏を名乗り続いた名門だ。


だが、秀吉の北条征伐に家臣を派遣しただけだった。

秀吉は、当主、稗貫(ひえぬき)広忠が参陣し、秀吉に臣下の礼を取ることを求めたが、出向かなかった。秀吉は激怒、不忠者と改易してしまった。

一族は、離散し、南部藩に召し抱えられた者もいたが、稗貫(ひえぬき)広忠は、故郷で隠棲した。


徳川の世となると、重直に稗貫(ひえぬき)家の再興を頼んだ。

そこで、重直は稗貫(ひえぬき)広忠長女の婿に、南部一門の瀬川家から本館甚右衛門慶記(慶起)を決め、娘婿養子とし、家督を継がせた。

ここから、稗貫(ひえぬき)氏は、本館氏を名乗る。

稗貫(ひえぬき)氏一族郎党は、本館氏の元集まり、再興した。


二人は仲睦まじく、子たちが生まれ、中でも次女、貞心院お蘭の方(?-1690)が、才媛の誉れ高い美女に育つ。

お蘭の方は、本館氏が南部家重臣として遇されるための大きな使命を与えられ、重直と目通りした。

重直も噂に違わない女人であり、氏素性も申し分なく、側室とする。

重直の最後の賭けだった。


1661年、願い通り、重直との間に、吹姫(布岐姫)(1661-1667)が生まれたが、男子は生まれなかった。

重直もお蘭の方も、男子が生まれることを必死で願ったが、実らなかった。

それでも、本館家・瀬川家は南部家家臣としての確かな位置を占めることができた。


重直55歳だった、ここで、我が子をあきらめる。

弟から選ぶしかないと決めた。

国元に戻った時に会うだけだが、後継にしてもよいと思える優秀な弟たちがいた。

生きている弟は、1616年生まれの花輪重信(1616-1692)。

山田利長(?-1662)。

    1628年生まれの中里直房(1628-1668)。

の3人だった。


重信は、父、利直が才知とも認めたお気に入りの子だった。

津軽氏に備える重要な城、七戸城(青森県上北郡七戸町)を預けられ、後継にふさわしい。

だが、重直は、直房を気に入っていた。

直房は、父、利直の子としての待遇ではなく恵まれない境遇で育っており、同情していた。

重直の忠臣として、十分な器量があり、分家を起こさせたかった。


1662年、利長が亡くなり、弟は二人となった。

堀田正俊ら幕閣と協議を重ねる。

家光から嫌われた、蒲生家・加藤家に繋がる外様大名、南部家だった。

これからの南部藩の生き残りと、安泰となる藩として続くために、今までの南部藩を消し去り、新たに将軍より下される藩とすべきだと、皆の意見がまとまっていく。


家中は、非常に優秀な、花輪重信を後継にすべきだとまとまっていた。

そこで、重直は、死後、南部家を将軍、家綱に返上し、新たに将軍の裁定として、盛岡藩8万石を重信に、2万石を直房に得ることで、立藩させると決めた。

将軍、家綱の了解を得た。

家中の総意を重んじ、直房の生きる道を与えるのだ。

南部藩は十万石だが、表高であり、実質それ以上あり、藩財政に変わりはない。


準備を整え、1664年、重直は死ぬ。

こうして、本藩8万石を重信が、直房が分家し八戸藩2万石で立藩した。

一度、お家を断絶させたのち、幕府から新たに重信が藩主と認められる。

それは成功した。


こうして、南部家中が待ち望んだ、国元で育った質実剛健な殿さまが誕生する。

重信は、出来上がった盛岡の町を活性化させ城下町として繁栄させる。

名君としての逸話が数多く生まれ、南部藩は安泰だ。


重直は、滅亡した近江から出た蒲生家の血を受け継ぎ江戸で生まれ育った、南部家に似合わない藩主だった。

江戸の物流街並みを盛岡でも実現し繁栄させようと考え、江戸育ちだが江戸と張り合う心意気があった。

それでも都会の洗練された知識をひけらかせ、国元を軽く扱うように思われた。


南部家を危険な状態に陥らせた、最上家・蒲生家・加藤家を大藩であり、南部家の上であるかのように大切にし、旧臣を高禄で召し抱えようとしたとも思われた。

一本気で強硬に押し切ろうとする暴君ではあったが、弱者に対して思いやりがあり、正義の味方を気取る優しい藩主だったのだが。


それは、母と妻の影響が大だ。

会津藩主、加藤嘉明3女の妻から、権力とはなにか、不条理がまかり通る世の実態を痛いほど学んだ。

妻は、父、加藤嘉明からとても愛された、お気に入りの娘だった。

妻からの申し出で離縁し、妻の深い愛情に感謝しながらの一生だった。


また、重直は、蒲生家の誇りと意地を持ち続けた母、お武の方と共に人生を歩み続けた。

大好きな母だった。

母の死の一年後、自分の策は必ずうまくいくと確信して、母の元に旅立つ。


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