盛岡城 (岩手県盛岡市内丸1番)2
■初代藩主、南部利直の妻、お武の方
1576年生まれた利直。
1582年、父、信直が、南部家を継ぐまで、田子城で育つが、落ち着かない日々だった。
南部家当主となった、父と共に、南部宗家居城、三戸城に移る。
父が秀吉に臣従し、1590年、北条征伐に参陣する。
秀吉と父の取り次ぎをしてくれた前田利家・主君となる秀吉と対面。
気に入られる。
この時、14歳の利直は、利家が烏帽子親となり元服する。
利直が、今まで出会った武将の中で一番印象深い武将が、前田利家だった。
南部一族の誰よりも前田利家に武将としての器の大きさを感じあこがれた。
続いて、秀吉が結婚相手を決めた。
蒲生氏郷の娘(養女)源秀院お武の方(1573-1663)だった。
1591年、奥州の抑えを担う会津若松藩主、蒲生氏郷と協力し役目を果たすことを命じられ、結婚する。
伊達政宗を蒲生家と南部家で挟み撃ちし、動きを押さえる役目だ。
伊達政宗は、とてつもなく大きな武将で、油断ならない。
蒲生氏郷の嫡男、秀行は、家康の次女姫と結婚していた。
そのこともあり、結婚後は家康との縁を深めていく。
そして秀吉政権のその後を見て、家康のすばらしさを実感していく。
父、信直は、死後、家康に従うよう遺言し、その考えに同意であり、迷うことなく、家康に臣従する。
利直は、大国の姫、お武の方を迎えルンルンだった。
だが、南部一族は、大浦氏(津軽氏)に肩入れする秀吉への反発もあり、そこまで秀吉に媚びる必要はないと、お武の方を冷たく迎えた。
利直は、家中を気にすることなく、3歳年上のお武の方を気に入り、恭しく扱い仲睦まじかった。
結婚に伴い、蒲生家・豊臣家に近い家臣が南部家に入る。
秀吉は、大名の妻子は京に住まうように命じ、まもなく、お武の方主従は、京聚楽第に行き、続いて伏見城下の屋敷に住んだ。
それでも、国元に留まる豊臣系家臣がいた。
南部家は豊臣恩顧と思われる由縁になる。
天下人、秀吉の威光はゆるぎなく、利直とお武の方は仲睦まじい。
秀吉の後ろ盾がある南部家は安定した。
利直の生母は、不可思議なことも多いが、南部家一門、石亀氏庶流、泉山氏慈照院とされている。
長女姫が、信直の母に選んでおり、自身の侍女だった可能性も高い。
南部家中での立場は弱かったが、利直が秀吉に認められることで、慈照院も嫡男の母として、側室として、認められていく。
慈照院の父、泉山古康も、家老に抜擢される。
お武の方は、京に住まいして動くことはなかったが、子が生まれないままだった。
年上のお武の方であり、結婚後7年近くなっても、子が生まれないことを家中が心配する。
また、1595年、蒲生氏郷が亡くなり、秀吉は蒲生氏に重きを置かなくなった。
1598年、氏郷嫡男、忠郷は、会津92万石から宇都宮18万石に国替えとなった。
氏郷生存中に比べ、はるかに小藩となってしまった。
南部氏と蒲生氏との領地・石高の差は、少なくなった。
すると、利直もお武の方への気遣いが少し薄れた。
蒲生家に追随するのは危険だったこともあった。
信直も側室を持つことを勧める。
国元で重臣から推された女人が利直に仕えるようになる。
まず、重臣、今渕政明の娘のお三世の方(-1643)が仕える。
1598年、長男、家直(1598‐1613)が生まれる。
利直は、当主としての役目を果たしたと感無量だったが、15歳で亡くなる。
続く、秀吉の死。
激動の時代が始まる。
利直は、父の死後、宗家当主として家康に認められた。
父の遺命通り、一貫して家康に従う。
次いで家老、石井直弥(甲州譜代重臣2500石)妹、お岩の方(?-1628)が仕える。
1599年、次男、政直(1599-1624)が生まれる。
後に、政直は信直の身辺警護の役目を持って側近く控え、毒が盛られている事を知りながら父の為に毒見をし、25歳で死ぬ。
続いて、長女、伊登姫(菊姫)(?-1678)が生まれる。
九戸政実の乱で、功のあった南部一族、北直愛に嫁ぐ(継室)。
続いて、七姫(志知姫)(?-1665)が生まれる。
1611年、幕府に推され、出羽山形藩57万石藩主、最上義俊(1605-1632)と婚約。
そして、嫁ぐも、1622年、最上家は、改易となり近江大森藩1万石となってしまう。
義俊の負担を軽くするために、七姫は、自分の意思で、実家に戻る。
そして、家老2000石、中野元慶 (元康)と再婚する。
1608年、4男、利康(1608-1631)が生まれる。
兄を引き継ぎ、利直の側近くで仕えたが、23歳で亡くなった。
お岩の方は利直との間に4人の子を産み、実質、国元妻となり南部家の奥を取り仕切る。
1628年、お岩の方は亡くなる。
利直は、政直・お岩の方・利康の死にがっくりとした。
1632年、3人のために、絢爛豪華な霊屋(南部町大字小向字正寿)を築く。
そして手を引かれるように、利直も亡くなる。
1606年、お武の方に、重直(1606-1664)が生まれる。
33歳の高齢出産だった。
正室との子が、誰もが納得する後継であり、お武の方を愛する利直は狂喜した。
3男だが、嫡男として徳川幕府に届ける。
後に、陸奥盛岡藩の第2代藩主となる。
それでも、重直を嫡男とすることに家中から反対意見も出た。
江戸幕府が始まり、外様大名は豊臣家と繋がる縁を切ろうとしていたからだ。
利直も豊臣恩顧として厳しく扱われることを恐れた。
利直は、豊臣恩顧と見なされる蒲生家のお武の方と結婚しており、南部家にマイナスだ。
だが、振姫の頑張りで蒲生家は、豊臣恩顧だが、家康も認める再興がなされていた。
蒲生家が40万石で存続すれば、南部家は徳川の世でも生き残れるはずだから。
蒲生家は大丈夫だと、重直を堂々と嫡男とした。
お武の方は正室として伏見屋敷から新しく作られた南部藩江戸桜田屋敷に移り住んだ。
その後、慈徳院お松の方(1602-1638)が側室となる。
1616年、5男、重信(花輪重政)(1616-1702)が下閉伊郡花輪(岩手県下閉伊郡)の花輪政友の屋敷で生まれる。
後に、三代藩主となる。
ひと時の愛であり、利直の側近く仕えることはなかった側室だ。
出会いは、1615年、利直は、甚大な津波被害を受けた沿岸、宮古の様子を見る為に花輪村の花輪内膳政友の屋敷に泊まった時だ。
接待に出た花輪政友の娘、お松の方に、心奪われた。
その為、数日の予定が、一か月近くも泊まってしまう。
そして子が授かった。
花輪氏は、閉伊郡花輪館(宮古市)に居を定めた閉伊氏一門だ。
源頼朝が奥州を平定した時、功のあった一門、為頼が陸奥国閉伊郡(岩手県宮古市周辺)を与えられ地頭となった。
以後、閉伊氏を称し、代々この地を治め、分家を興していく。
その一つが花輪氏だ。
利直は、お松の方を大切に想い、その子、重信を認知し、以後の暮らしの面倒を見ると同時に、育て方も愛情深く指示した。
お松の方も、すべての愛情を注ぎ、重信を育てる。
花輪氏の菩提寺、華厳院の住職を師に、殿様の子として大切にされつつも、厳しい修練の日々を送る。
華厳院は、閉伊氏の始祖、源為朝の菩提を弔うために、1190年頃、建立された。
以来、閉伊氏(花輪氏)の菩提寺として、時を重ね名刹となっていた。
14歳まで生まれた花輪に住み、15歳になって利直に呼ばれ、盛岡城へと移る。
お松の方は、時折訪れる利直を待つだけで、盛岡城には行かなかった。
花輪氏の娘として、つつましく、身分相応の暮らしを続ける。
盛岡城で、法源院、山田氏(?-1657)が側室となる。
家臣、山田九郎左衛門の妹。
6男、利長(?-1662)が生まれる。
家老家を新たに起こさせる。
続いて、仙寿院、中里氏(1604-1673)が側室となる。
海に面し津波災害の多いこの地へ、利直が視察に行った。
宿泊地となり接待したのが、中里氏。
小笠原氏をはじめとし、岩泉町中里(岩手県下閉伊郡岩泉町)を領した中里氏。
南部藩に仕えて200石を得ていた。
取るに足らない小禄の武士の家系と見なされていた。
数日間の泊りで、仙寿院、中里氏が心を込めて、接待した。
自然に結ばれ、1628年、7男、直房(1628-1668)の誕生となる。
利直は、我が子とは認めたが、中里家で育てるようにと命じただけだった。
養育について利直からの指示はなく、養育費が出ただけで、殿さまの子という育てられ方はできなかったし、することを望まれなかった。
それでも中里家では預けられた殿様の子として、大切に育てる。
後に、直房は、陸奥八戸藩2万石初代藩主となる。
実家、中里弥次右衛門は家老となる。
家老、北氏の推す女人との間に嫡男、北直愛の妻になる姫が生まれている。
北氏は、信直を当主とした功労者であり、九戸氏との戦いなど南部家にとってなくてはならない一門だった。
だが、利直にとって煙たい存在でもあった。
北氏は、嫡流ではなく、弟、北直継が、引き継ぐ。
もう一人、南部一族の遠藤(東)胤政に嫁ぐ、姫(?-1639)が生まれている。
以上が利直の女人との逢瀬であり、数多くの女人との恋があった。
お武の方とお岩の方が南部家の奥を支え、他の女人は側室として名を残すものも、側室としての待遇もされないものもいた。
慎ましい待遇しかされなかった女人が多い。
1599年、父が亡くなり家督を継いでからの利直は、国元に戻ると、藩主として威厳を振りまき、女人との逢瀬を楽しんだ。
刺激的で楽しい日々だったが、二人を重んじた。
利直は、秀吉の許可を得て1598年に盛岡城築城を始め、翌年、築城半ばだが、屋敷ができたと、住まいを移した。
以来、本格的に城と城下町づくりを始める。
驚き感心した大坂城・名護屋城を真似た城郭を目指した。
背伸びしながら、近世城郭を築いていく。
利直の藩政は、白根金山や西道金山などの鉱山開発が順調で、金の採掘が予想以上もあり、資金が潤沢にあった。
その為、盛岡城の築城、城下町づくりから藩主権の確立まで、進めることが出来た。
こうして、盛岡藩政の基礎を固めていく。
また、幕府のどのような申し入れにも応じる財力があり、良好な関係を作る。
だが、暗雲も漂い、外様大名として苦悩することもしばしばだった。
1622年、七姫が嫁いだ出羽山形藩57万石藩主、最上義俊(1605-1632)が改易となった。それまでも最上家中に内紛が続き、利直も調停しようとしたが荷が重くうまくいかない。
幕府は、最上義俊は藩主の器なしと見なし、改易だ。
些細な理由を付けての外様つぶしの嵐が巻き起こっており、標的になった。
良縁だと喜んで嫁がせたが、最上家は1万石となり、七姫は戻ってきた。
七姫は、最上家と一線を引くことで、南部家に悪影響を与えることを防ぎたいと、実家を思い戻った。
それでも、最上家が不憫で、旧臣の幾人かを召し抱えて欲しいと願い、引き連れた。
お武の方は、実家、蒲生家への心配が絶えなかった。
蒲生家は、家康の娘、振姫の婿、蒲生秀行が健在な時は良かった。
だが、1612年、秀行死後、振姫が江戸城に戻ると、秀吉恩顧の外様大名であり幼君だと、幕府の厳しい干渉が始まった。
振姫の嫡男である、藩主、忠郷は幕府から派遣された目付や後見人により、がんじがらめになり、思い描いた藩政を執れず苦しみ、1627年、25歳で亡くなる。
この時、幕府は、後継を認めず、会津若松藩を改易の後、弟、忠知に家督引継ぎを認め、石高を減らし松山藩への国替えを命じた。
お武の方と利直は、秀吉と結びついた事で領地を守った恩はあったが、秀吉の蒲生家への扱いには批判的だった。
それゆえ、秀吉死後、家康の娘、振姫の義姉夫婦として家康に近づき、天下分け目の戦いで家康方東軍として戦い、領地の安堵を得た。
以後、外様大名ではあったが、幕府の厳しい目もなく、思う存分に藩政に力を注げた。
だが、幕府は、蒲生家に対して、思いもしなかった厳しい対応で臨むようになった。
お武の方の実家であり、安泰に続くよう支援したが、内紛は続く。
外様つぶしの標的になっていた。
利直にとってお武の方は、3歳年上の姉的存在であり、秀吉・家康の脅威から守ってくれる盾ともなる存在だった。
京・江戸での緊張する日を、お武の方と共に乗り切った戦友でもあった。
しかも、嫡男に恵まれて、良き妻を持ったと感謝していた。
そのお武の方の苦悩を何とかしたい思いはあったが、下手に肩入れすれば、南部藩への締め付けが厳しくなる恐れがあった。
豊臣家が滅ぶのも冷静に見るしかなかった。
最上家が変わっていくのも冷静に見た。
続いて、蒲生家の悲惨な変遷を見続けるしかなかった。
それでも、お武の方の甥、秀行の子たちは、追い詰められてはいたが、まだ存在しており、時間が解決すると信じた。
1632年3月14日、将軍秀忠が亡くなる。
その4か月後の7月、熊本藩52万石加藤家が改易された。
将軍家光の権威を示す為の見せしめ的改易だった。
熊本藩加藤家は、徳川家康の三女・振姫の娘、琴姫(蒲生秀行の娘・徳川秀忠の養女)の婚家だ。
お武の方の姪が嫁いだ加藤家が改易されたのだ。
気を落としたお武の方を心配し利直は、重直に言い残した「お武の方の力になるように」と。
1632年10月1日、利直は、56歳。
まだまだしたいことはあったが、それでも、思う存分生きたと成し遂げた満足感もあった。
お武の方に感謝し看取られ亡くなる。