⑫駿府城(静岡市葵区)2
⑫駿府城(静岡市葵区)2
■家康を看取る側室、お茶阿の方
お茶阿の方は家康の側室なのだ。
そんな自分の立場を忘れることはない。
側室の役目の基本は、愛されることと、家康の子を授かることだ。
両方を成し遂げることで、胸張って生きることができるのだ。
土屋忠直と妹の養母となっても、我が子が欲しい気持ちは変わらず、できうる限り家康を喜ばせる愛の営みを続ける。
やがて待望の男子が授かる。
ところが、家康は喜ぶどころか、我が子とは認めないとまで言い出す。
それで、納得できるお茶阿の方ではない。
なんとしても生みたいとの執念で願い続け、ようやく折れた家康は、他家に預けることを条件に生むことを許す。
そして、我が子と認めた。
家康の考えを理解できず、情けなく泣くことも多かったが、家康の子を生める幸せで、すべて忘れた。
家康は、関東の大大名となり天下第二の地位を確立していた。
1592年、家康49歳の時、お茶阿の方は江戸城で家康6男、後の忠輝を生む。
すぐに、この地の旧主、北条氏政の養女を母に持つ皆川広照に引き取られる。
北条氏は、かって220万石を支配した大大名だが改易された。
皆川広照は、家康に臣従し、関東支配に力を尽くすことで、皆川藩(栃木市皆川)1万3千石を安堵された。
それでも、北条氏ゆかりの小大名にしかすぎない。
家康にとって重要な家系ではない。
お茶阿の方は、あまりにも惨めな忠輝の処遇だと、怒りが収まらない。
忠輝出産後、産後の体調が回復すると、忠輝のことなど忘れたかのように、家康は、お茶阿の方を再々呼ぶ。
家康の愛は深く、愛を確かめ合う。
家康の側室なのだ、きっと光が見えると自分に言い聞かせ、家康のもとに行く。
そして、二人目の子が授かる。
1594年、7男、松千代が生まれた。
この頃、家康は秀吉亡き後のあるべき姿が垣間見えてきて、穏やかないい顔になっていた。
秀吉は、秀頼が生まれ、秀吉政権を盤石にすべく悪戦苦闘していたが、墓穴を掘るような愚策を連発していた。
家康は、秀吉の限界を見て、ふっと笑いを抑えることもあり、お茶阿の方にも優しかった。
だからと言って、我が子の誕生を喜ばなかったが、拒否もしなかった。
7男、松千代は、生まれて間もなく、家康の一門、長沢松平家に養子に出された。
長沢松平家は松平一門の中でも重要視されている家柄だ。
お茶阿の方も、忠輝よりはましになった、家康の子として扱われたと、ほっとした。
それでも、家康の子としてはあまりに差別されていると悲しかったが。
1598年、秀吉の余命が残り少ないことが、誰の目にも明らかになった頃、家康は6歳になった忠輝と対面する。
続いて、1598年9月18日、まだ暑い盛り、秀吉が亡くなった。
ここで、家康6男、忠輝6歳と伊達政宗の長女、五郎八姫との婚約を決める。
お茶阿の方は、忠輝への対応の変化に嬉しい反面、驚きが隠せない。
小大名に預けっぱなしにして、我が子忠輝などいないようにしていたのが、誰もが知っている物凄い軍事力を発揮する暴れん坊で超有名な大大名、伊達政宗の長女、五郎八姫との結婚を決めたのだから。
秀吉が生きているときから水面下の交渉が続いた。
家康は政宗をどうしても取り込んでおきたかったのだ。
秀吉死後、まもなく、二人の婚約を公表した。
秀吉は遺言で、大名同士の勝手な婚姻を禁じていた。
5大老・5奉行の合議のもとに行うよう厳しく遺命した。
ところが、家康は、秀吉の遺言を破り、独断で決めたのだ。
豊臣政権の行政を担う五奉行、なかでも三成への挑発だ。
天下人に向けての布石の一つでもあった。
お茶阿の方は、家康の意図が恐ろしくなっていく。
とても喜べず、不安で思い悩む。
そのうえ、弟、松千代の健康状態がよくなかった。
お茶阿の方自身、何度も長沢松平家を訪れ、看病したが、だめだった。
1599年2月7日、松千代が亡くなる。
大切な宝、松千代を失い、将来不安に陥り、嘆き、落ち込んだ。
だが、家康は喜んだ。
皆川家の養子、忠輝では、政宗の姫、五郎八姫と釣り合わないと悩んでいたのだ。
ここで、家康は、忠輝が長沢松平家に養子入りすると命じた。
弟を継いで兄が養子となるのだ、お茶阿の方は、順番が違うと泣き笑いだ。
家康の考えが分かっていたが、それでも、嬉しかった。
忠輝は、ようやく、だれの目にも明らかな家康の子となった。
生まれたときから病弱だった松千代が忠輝を救ったのかもしれないとうれし涙に代わる。
家康は、忠輝が長沢松平家を継ぎ家康一門となり、政宗の婿にふさわしい処遇をすると伊達家の取次に伝えた。
これで、五郎八姫と釣り合いが取れると、満面の笑みだった。
その様子を見て、お茶阿の方は、三成に近い忠輝が、家康の天下人に向けての第一歩に使われたのかもしれないと、背筋が冷たくなる。
お茶阿の方の甥、山田勝重は、石田三成の娘婿だ。
石田三成の娘といとこになる忠輝が、家康の子として三成と対峙する構図になる。
三成の脅威となる伊達政宗の娘婿として対峙するのだ。
三成は、家康が決めた結婚に反対し、家康が結婚を強行すれば三成の力を削ぐことになるのは間違いない。
家康が、豊臣家を凌駕するために、どうしても味方にしたい伊達政宗だった。
伊達政宗を取り込むために、結婚は必要不可欠だった。
養子・養女では役不足で、家康の実子、忠輝との結婚が最適だと判断したのだ。
伊達家との仲をもう一歩深め、家康一門に取り込もうとしたのだ。
そのためには、忠輝も強力な松平一門にする必要があった。
そこで、長沢松平家を継がせた。
お茶阿の方は、家康には忠輝の父親としての愛がないことをわかっていたが、ここまで冷たいとは思っていなかった。
家家への味方を増やす駒に使われただけだと、とても悲しい。
だが、忠輝は、仙台藩58万石を得ている伊達家の一の姫との婚約を喜んでいる。
政宗の武勲をよく知っているからだ。
家康は、今は必要不可欠な政宗との同盟だが、自分に刃が向く可能性ありと警戒していた。
野心にあふれた政宗との政略結婚は、プラス面だけではない。
この結婚が吉と出ても凶と出ても、家康にとって忠輝は、いてもいなくてもいい子であり、その役目にぴったりだった。
お茶阿の方も大きな仕掛けがある結婚であり、心配の種になるだけだった。
それでも、忠輝の喜びの顔を見て、忠輝に乗り切る力が備わっていると信じることができた。
いつまでも恐れたり悲しんだりするお茶阿の方ではない。
まだ7歳の忠輝だが、並の器量ではないことを見極めていた。
関ヶ原の戦いが始まる。
三成は敗れ、お茶阿の方の兄も死んだ。
甥、勝重は、秀吉の妻、ねねの元に逃げ、庇護され、側近、孝蔵主が匿った。
家康は、豊臣家を一大名に落とし込め、天下人への道を突き進む。
そして1603年、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く。
この間、お茶阿の方は孝蔵主と連絡を取り合い、甥、勝重を忠輝に仕えさせる日が来ると信じ、機会を待つ。
実家、山田氏を再興させることが出来るのは、自分しかいない、一族の将来がかかっているのだと、お茶阿の方は、気を引き締める。
駿府城で家康に仕えるようになり、江戸城に移り、伏見城に行ったこともあったが、お茶阿の方には故郷近くの駿府城が一番好きな城だ。
その思いも家康と同じだ。
お茶阿の方と家康は、日常の価値観はぴったり合っており、共に暮らすのに似合いだった。
近い将来、駿府城に戻りたいとの思いも同じだった。
まもなく、家康は、伏見城ですべきことをやり遂げ、駿府城を隠居城とすると、決める。
駿府城が出来上がると、駿府城の奥の家康の私的な部分で、お茶阿の方は世話を続ける。
家康は、お茶阿の方の前では素でいられる安心感があり、その意味では伴侶だった。
忠輝に次々困難が降りかかり冷静ではいられない。
家康に助けを求めたいが、言えば露骨に嫌な顔をされるので、できるだけ抑えた。
家康は、忠輝を取り巻く伊達政宗・大久保長安らの動静には神経をとがらしたが、忠輝には無関心だった。
家康を親と尊敬する忠輝は少しでも近づきたいともがくが、心は通じない。
大坂の陣が終わると家康は、忠輝と会うことも拒否した。
結局、家康は、お茶阿の方を安心させることなく、満足な一生だったと、お茶阿の方に看取られ駿府城で亡くなる。
ここから、お茶阿の方は、将軍・幕府を相手に孤独な戦いを始めることになる。
忠輝の名誉を守る戦いは困難だったが、くじけることなく前向きだった。




