⑫駿府城(静岡市葵区)1
⑫駿府城(静岡市葵区)1
1585年、駿府を制した家康が築城を始める。
1590年、秀吉は、家康に関東への国替えを命じ、築城半ばで江戸に移る。
1607年、天下人となり、前将軍となった家康が終の棲家として、再度、築城。
1616年、家康、駿府城で亡くなる。
駿府城は家康終焉の城だ。
■忠輝の母、お茶阿の方
お茶阿(1570-1621)の方の父は、遠江国金谷(静岡県島田市金谷)を支配した土豪だ。
父、山田八左衛門は武田氏に仕えたが、1582年、武田氏(勝頼)滅亡後、浪人となった。
新たな仕官先が見つかるまで、やむなくお茶阿の方を遠江国森町(静岡県周智郡森町)で鋳物業を営む、縁戚の鋳物師、山田七郎に預けた。
鋳物師、山田家は、大砲や石火矢など当時最新の兵器を製造する技術者を率いる商工業者。家康が、遠江国を支配すると、その配下となり、兵器製造に励んだ。
小牧・長久手の戦いにも従軍している。
家康の信頼厚い鋳物師となり、商売は繁盛し、預けられたお茶阿の方は贅沢に育つ。
1586年、お茶阿の方は16歳で養家の嫡男の鋳物師と望まれて結婚し、お茶阿の方の意思で故郷に戻り金谷で鋳物師となる。
お茶阿の方の父は、武家の娘らしい結婚をさせたがったが、仕官したばかりで余裕がなく、お茶阿の方の意思に任せた。
すぐに娘、おはちが生まれる。
幸せな結婚生活が始まった。
だが、美人の妻がいて、兵器を作り羽振りのいい夫は、代官にねたまれた。
代官は、お茶阿の方の夫に言いがかりをつけ、諍いを起こし、夫は殺された。
お茶阿の方は、許せず、泣き寝入りはしないと駿府の殿様、家康への直訴を決意する。
決死の覚悟をし、家康に会える時を探す。
直接会ったことはなかったが、夫から話をよく聞いていた。
家康との取引は続いており、家康は公正な裁定をすると信じた。
婚家、山田家が手を尽くしてくれた。
そして、家康が近くに鷹狩り来る日を知る。
家康は、駿府城から約40㎞遠出して、鷹狩を楽しんでいた。
秀吉から押しつけられた後妻の旭姫が京の聚楽第に帰ったおかげで、縛り付けられていた身から一気に解放され、久しぶりの気晴らしだと上機嫌だった。
その時、突然飛び込んできたのが、お茶阿の方。
家康はその姿を一目見るなり息をのんだ。
大胆さも、さることながらお茶阿の方の妖艶な美しさに感動したのだ。
早速、直々に事情を聞いた家康は、夫の敵の代官を罰し、後家のお茶阿の方には駿府城の奥に勤めるよう言う。
駿府城に勤めることが夢だったお茶阿の方は大喜びで、頭を下げた。
娘、おはちとともに仕えるようにと言われ、故郷を引き払い、養家に別れを告げる。
家康は、人妻の色気が漂うお茶阿の方に見とれつつも、武家の教養も十分備え、町屋の生活にも明るく家康を飽きさせない話し振りを冷静に見ていた。
身元を調べても氏素性問題ないと分かり、安心する。
次第に、家康の側に仕えることが多くなり、側室として部屋を与えられる。
父の願い、山田氏の再興は、お茶阿の方の悲願でもあり夢の第一歩を踏み出したと胸震わす。
お茶阿の方の父は、同郷の宇多頼忠を頼り、仕えていた。
また、お茶阿の方より一回り年上の兄、吉長は、その縁で頼忠の娘婿、石田三成に仕えた。
浪人暮らしを終えて、武士としての体裁を保つ暮らしができるようになった。
そのうえ、ふたりとも主君に認められ、武将として生きる自信を持ち始めていた。
お茶阿の方も父・兄が武将として史観できた経緯、現状をよく聞いていた。
だけど、秀吉の天下で、毛利家と同等の秀吉に次ぐ地位を占める家康の側室となったのだ。
お茶阿の方は、玉の輿に乗った。
父や兄とは比較にならない快挙であり、家名の再興に一番貢献するのだと、胸を張った。
家康の側室となったお茶阿の方は、喜び勇んで、兄達に一族で家康に仕えるよう伝えた。
側室の実家は一族をあげて、家康に仕えるのが当たり前だった。
それが、側室としての忠誠心の表れだ。
家康も会うのを楽しみに役職まで考え待った。
石田三成に仕える兄は、三成よりも家康の方が大大名であり、家康の子を産む可能性の高い妹、お茶阿の方と共に居れば、出世も間違いないと思う。
そこで、主君、三成に事情を話し「家康殿に仕えたい」と申し出た。
三成は、兄、山田上野介吉長の優れた行政手腕を見抜いていた。
手放すには、惜しい人材だった。
家康に取られたくないと対抗心を燃やし、吉長の嫡男、勝重と三成の長女との結婚を決める。
兄は、三成の娘婿となり、石田三成一門となることを選んだ。
もう、妹、お茶阿の方の元には行けなくなってしまったと、断った。
苦渋の決断だったが、三成(1560-1600)を主君として選んだ。
兄は、三成の娘婿として、石田家重臣としての道を進む。
三成も、秀吉側近として、出世街道を走っており、家康の大勢の重臣の一人となるよりは、働き甲斐があると思ったのだ。
家康はますます大きく出世し、関東を得た。
江戸城を居城とし、お茶阿の方も江戸城入りする。
一族を呼び集めたい思いは変わらず、諦めず、再々願う。
だが、1591年、勝重と三成の長女は結婚する。
兄は「石田三成こそ主君だ」と言い放つまでに、主従関係が強くなっていた。
ここから、家康は、お茶阿の方を愛するが、信用しないという複雑な関係が決定的となる。
面目丸つぶれの家康は、お茶阿の方に実家(山田家)との縁切りを迫る。
お茶阿の方は、実家との縁切りという最悪の事態に驚き我を失う。
それでも、家康の心の内もよくわかる。
自分は、家康に仕えるしかないと覚悟を決める。
実家の為に側室に上がったつもりだった。
だが、失敗した。
将来の暗雲を感じる。
それでも、家康に愛されることは、素晴らしく誇らしいことだった。
娘の将来も明るく、お茶阿の方は江戸城での暮らしに価値を見出した。
同じ頃、家康は武田家に最後まで忠誠をつくし、討ち死にした武田家重臣、土屋昌恒の忘れ形見、8歳の忠直を見つける。
家康は、名門の家柄、土屋家を残そうと考える。
そこで、武田氏旧臣の娘、お茶阿の方が養母にふさわしいと忠直と妹を預ける。
土屋昌恒は、武田重臣の多くが離反する中、最後の最後まで勝頼に従い討死した猛将だ。
家康の好きな武将であり、その子を育てる力があると見込まれたのだった。
お茶阿の方は、忠直を我が子と思い、養育に専念することで、実家を忘れさせようとする家康流の配慮だと、わかった。
その思いが嬉しい。
山田家から見てとても格上の主筋になる土屋家だ。
家康に仕え、価値ある働きをする武将に育てたい。
熱心に育てる。
我が娘と共に勇猛さで名高い土屋家の嫡男、忠直と妹、長松院を育てるのは、誇れる役目だ。




