⑪名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1−1)2
⑪名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1−1)2
■義直の妻たち
父、家康・母、お亀の方に期待され懸命に生きる義直だったが、思うほど将軍への道は簡単ではない。
思うようにならなくてイライラする時も、将軍を目指さなくてもいいじゃないかと思う時もあり、乱れる。
そんな義直の心を癒したのが、妻、春姫。
父は、紀州和歌山藩初代藩主、浅野幸長。
母は正室の播磨姫路藩主、池田輝政の妹。
豊臣家ゆかりの姫でもある。
二人は、仲睦まじく、1633年、義直の2人の子と共に江戸に移るまで、17年間、名古屋城の本丸御殿に居住する。
武家諸法度が制定され、大名の妻子は江戸に住むことになり、春姫が本丸御殿を去ると、本丸御殿には誰も住まなくなる。
義直と春姫だけの御殿だった。
その後、本丸御殿は、将軍家光を迎え将軍の御成り御殿となり、ほんのひととき、華やかな人々で溢れた。
以後、御成り御殿として警備される。
将軍は、それ以後、一度も来ることはなく「空き御殿」となる。
春姫は名古屋城に居住した唯一の尾張家正室であり、義直・春姫夫婦は本丸御殿に居住した唯一の藩主夫婦となる。
春姫は本丸御殿に住まい、義直の愛を一身に受けて幸せだったが、子が出来なかった。
結婚10年目になろうとする頃、意を決して側室を迎えるように、義直に言う。
義直も家光に対抗する尾張家当主として、子は必要であり、納得する。
二人が選んだのが、お尉の方。
豊臣縁者と見なされる、春姫に仕える吉田家の縁者であり、当時の幕府では認められる存在ではなかった。
それでも春姫は、知力・体力すべてが藩主の母として申し分ないと推し、義直も賛同した。
お亀の方も、自分と性格も体つきもよく似ていたお尉の方を気に入った。
氏素性も重なるところがあり、お尉の方を側室として認めた。
春姫は、お尉の方(歓喜院)の身分を隠し、百姓女で下賎の出とした。
お尉の方は、大森村(名古屋市守山区)に住まう郷士、吉田甚兵衛の姉だ。
1625年8月31日、光友(1625-1700)誕生。
大役を果たしたお尉の方は、春姫から褒められる。
義直も男子が生まれ役目を果たしたと、お尉の方と一線を引く。
お尉の方が安産祈願したのが、春日大明神(中区大須)。
天児屋根命を祭神とし色鮮やかな朱塗りの社殿があった。
春日大明神の由縁は、平城京遷都に合わせ、藤原北家当主、藤原永手(714-771)が、藤原家の氏神、常陸の国(茨城県)の鹿島神社に祀った武甕槌命を迎え、主祭神、四座を祀る春日大社(奈良市)を創ったことに始まる。
主祭神、四座とは、武甕槌命(藤原氏の守護神)
経津主命(藤原氏の守護神)
天児屋根命(藤原氏の祖神)
比売神(藤原氏の祖神の妻)
常陸からの途中、留まった地、名古屋に、春日大社から分霊を勧請して、949年、春日大明神が創られた。
吉田神社(京都市左京区)は、藤原氏の氏神様として、春日大社から四座の神を勧誘して創られ、吉田家が神主となる。
その後、平安京での藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。
室町末期、吉田家から、兼倶が出て、吉田神道を創始する。
朝廷と幕府の支持を受け、吉田家は神道の家元的存在となる。
その後、天皇の勅使となり活躍した吉田兼見(1535-1610)が当主となり、信長と結びつき、公家の家格を得て、勢力を持った。
次いで、秀吉と親しい関係を築き、朝廷との橋渡しを行ない絶大な力を持った。
秀吉は吉田神道の作法により、豊国大明神となり祀られた。
秀吉の妻、ねねは、秀吉の墓所「豊国社」を守る社人筆頭を吉田兼見の弟、梵舜とする。だが、豊臣家滅亡後、家康により豊国社は破却を命じられる。
梵舜は、「豊国社」を守ろうと奔走するが失敗した。
その後、吉田家は、家康を大明神として祀ろうと進言するが、退けられ、東照大権現とし祀られることに決まり、ここでも失敗した。
こうして、吉田家の勢力は一気に落ちる。
幕府は、秀吉に近かった吉田家を嫌い、排除したのだ。
それでも、吉田家は代々続く神道の家元。
世に浸透しており、なくすわけにはいかなかった。
そこで、江戸幕府は、吉田神道の唯一の継承者を吉川惟足と決める。
1665年、神社統制の任を担わせ、幕府神道方に吉川家が代々任じられる。
吉田家の名を使い全国の神社の神職の任免権などを持った吉川家に、吉田家が従うことになる。
それでも吉田家は残った。
その吉田家の縁者が、春姫の推す側室、お尉の方(歓喜院)だった。
幕府は、尾張藩主の母としてお尉の方(歓喜院)を認めたくなかった。
それでも、安定期に入りつつ幕府であり、豊臣家に近い縁があるとはいえ、尾張藩の立場を尊重する。
より幕府が納得できる側室であるように望むだけだ。
そこで、秀忠の御台所、お江が義直の側室に推したのが、お佐井(貞正院)の方。
織田家に繋がり、尾張藩内にある犬山城を築城した織田信清の嫡男、津田信益の次女だ。
津田信益(-1633)は、信長のいとこ、信清(父の弟の子)と信長の姉、犬山殿との間に生まれた信長の甥だ。
信長に仕え、後に秀吉に仕える。
結城秀康が秀吉の元で人質となった時、秀吉から秀康の世話役を命じられた。
懸命に世話したことで、秀康は深く信頼し、秀吉死後、秀康に招かれ仕える。
秀康が北ノ庄藩(福井藩)主となると、重臣となり一家を引き連れ北ノ庄に移る。
まもなく、長女(-1609)は秀康の側室となり、秀康6男、松平直良(1605-1678)の母となる。
1607年、秀康が33歳で亡くなると、秀康次男、忠昌が家康の養子となる。
駿府城に行き、家康のもとで育ち、その後、江戸に住む。
その時、信清の次女、お佐井の方は、遊び相手として、忠昌に従い、駿府に行く。
駿府城で、幼い者同士だが、お佐井の方は、尾張藩主、徳川義直に出会う。
徳川義直は、抜群の記憶力の持ち主で、お佐井の方をすぐに覚え、心地よい親近感を抱いた。
忠昌もお佐井の方も、まもなく江戸に移り、義直の元を去った。
家康死後、和子姫の母、お江が織田家一門のお佐井の方を召し抱えた。
そして、入内する和子姫の侍女とし、京に付き従わせた。
お佐井の方は、美人が勢ぞろいしていた宮中でも、ひときわ目立つ美人だった。
四方殿とうらやましげに呼ばれた。
どの方向から見ても美しかったからだ。
和子姫に仕えて5年の後、和子姫は、母、お江の申し出で、お佐井の方を、旧知の義直の嫡男、光友の乳母として送り出す。
忠昌の妻、花姫と義直の妻、春姫は姉妹で、春姫もお佐井の方をよく知っており賛成した。
こうして、お佐井の方は、乳母として義直に召し抱えられた。
次いで、幕府が認める側室となる。
1626年8月7日、お佐井の方と義直との間に京姫(1626-1674)が生れる。
お亀の方は、孫、光友の誕生を喜ぶが、生母の素性を幕府は歓迎していないと知っている。
そのため、お佐井の方に次々子が生まれることが、尾張家の為に一番良いと、期待したが、一人しか生まれなかった。
真面目で、春姫を愛する義直には、側室は必要なかった。
二人の子が生まれこれで十分だと、春姫との暮らしを大切にする。
だが、春姫には江戸屋敷での暮らしは窮屈で、苦渋の日が始まることになる。
1633年、春姫のために築かれた江戸藩邸の春姫屋敷に入る。
ここで、春姫に従い江戸藩邸に入ったお尉の方。
春姫・光友に仕えるも、出身が下賤だと、冷たく扱われる。
緊張を強いられる暮らしに、神経を使い慣れないまま、1634年、亡くなる。
春姫は責任を感じ苦しむ。
義直は、側室を拒否するようになり、子の誕生を望めなくなる。
春姫は、責任を感じ苦しむ。
1637年、義直にまだまだ子は必要と頼み願い、春姫は亡くなる。
義直は、春姫を亡くして以来、気落ちし、将来の夢が描けなくなる。
そんな苦しさを癒してくれたのが、我が娘、京姫だった。
そして、光友に尾張藩を託すと決め、思うように尾張藩政に打ち込む。
家光以上の人物であることを見せつけると決意したのだ。
側には、愛くるしい京姫がいた。
溺愛する。
京姫の母、お佐井の方が、春姫に成り代わる。
やむなく、お亀の方は、将軍家との縁を深くし、尾張藩を守ろうとする。
家光の一人娘、千代姫を光友の妻に迎えるよう手を尽くし願い、決めた。
1639年、千代姫は、わずか2歳で尾張藩江戸屋敷に嫁ぐ。
この時、お亀の方は「これで、将軍家の後継にいつでもなれる、尾張家となった。末代まで安心だ、きっといつか将軍になる」と成し遂げた喜びに浸る。
千代姫を大切に育てるも1642年亡くなる。
以後、お佐井の方が、千代姫を育て、見守り、光友嫡男、綱誠が1652年生まれる。
お亀の方の願い通り、尾張藩は盤石になる。
春姫・お尉の方・お佐井の方は、皆京に縁があり、豊臣家・織田家に繋がっている。
春姫を伴侶とし、名古屋城に住まいした義直は、春姫の影響を強く受けた。
そして、幕府に対峙しつつ天下を俯瞰する統治を目指す意欲を持つ。
尾張藩の意地であり、受け継がれていく。




