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⑪名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1−1)1

⑪名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1−1)1

1500年代始め今川氏が築いた城だ。

1538年、織田信秀が今川氏の城代を追い出し奪った。

1542年頃、信長の居城となり、那古野城と呼ばれる。

信長が本拠を移すと廃城となった。

そんな那古野城を家康は、尾張藩の本拠とし、1609年、天下普請で築城を開始し、名古屋城と名付ける。


その城の主は、尾張徳川家61万9500石、初代、尾張藩主、徳川義直。

家康が最も可愛がった9男であり、広大な木曽の御用林や新田開発が容易な多くの地などなどで、実質100万石を超えると言われるほどの藩となる。

徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。


■初代尾張藩主、義直の母、お亀の方

1616年5月22日、家康は駿府城で亡くなる。

初代、尾張藩主、徳川義直の母である、家康の側室、お亀の方は43歳だった。

側室として家康に呼ばれることがなくなって久しい。

義直(1601-1650)の母として家康に会うことが増えていたが、その数も少なくなっていた時の死だった。


男と女の関係は、思い出の中に包み込まれ、家康に会っても身体が熱くなることはない。

呼ばれることのない側室のほてる身体を落ち着かせるために、身体をもみほぐす侍女もいれば、春画もあり、たばこ盆もあれば、香を焚く事もあった。

好みの医者を呼ぶことも、僧侶を招くことも出来た。

欲求不満の解消はいくらでもあった。

家康との関係が薄れても困ることはなかった。


お亀の方は、男と女であるよりも、政治的に生きる方を好んだ。

義直の周辺を自分好みの優秀な人材で固めることが、楽しくて仕方がなかったのだ。

自ら義直に、優秀な縁者を集める必要性、名君としての心得を教え続ける。

それも楽しみだった。


家康の側室の一人でしかないと分をわきまえて、まず、妹と、妹婿、山下氏勝を義直の乳母や守役としたいと願い、許された。

幾人も選ばれた義直の乳母や守役の一人でしかなかったが。

続いて、妹夫婦の能力を最大活かし、家康に認められるよう努める。

細心の注意を払い、家康の目に留まるようにし、成功する。


妹夫婦が、家康が認める能力を見せたと確信すると、少しづつ、信用のおける身内を登用していく。

次第に、家康が義直に付けた家臣団に匹敵する、お亀の方が召し抱えた優秀な家臣団が創り上がっていく。


もちろん主役は、義直だ。

義直が、真面目で、誠実で、勉強好きであるよう厳重に監視し、お亀の方自らも率先して清廉潔白な生き方を貫いた。

家康も、感心するほどだ。

こうして、義直は、1607年、尾張藩を得る。


1615年、義直は和歌山藩主、浅野幸長の娘、春姫(1603-1637)を妻に迎え、名古屋城で結婚式を挙げる。

家康が決め、1610年、義直9歳の時、婚約した。

その後、花嫁の父、幸長が亡くなり、破談になるかもしれないと浅野家中は心配した。

結局、家康は5年も浅野家を待たせ家中が衆望するのを見て、約束どおり結婚式を挙げた。

この間、豊臣恩顧の浅野家が家康に臣従する様子を、興味深く見続け、納得したのだ。


お供女中の駕籠五十挺、馬上の女中45人、長持三百、輝くばかりの花嫁の駕籠、御道具の列、医師、茶道の師など、付き従う浅野家臣は200名を越え、1㎞をはるかに超える行列が続いた。

浅野家の意地を見せた渾身の嫁入り調度であり、最高の花嫁行列だった。


家康と一緒に結婚式に立ち会うために、名古屋城に出向いたお亀の方は、家康と並んで二の丸大手の櫓に上がって花嫁の行列を眺めた。

大坂夏の陣の目前、5月の結婚だった。

結婚を待ち望んだ浅野家だ。

秀頼に味方するはずがなかった。

それでも、豊臣恩顧の筆頭であり、大坂城入する家臣もいたが、少人数に押さえられた。


まもなく、6月4日、大阪城が炎上し豊臣家は滅んだ。

結婚は浅野家が家康に従うことの、天下への、豊臣家への意思表示でもあった。

豊臣家に一番近いと思われた浅野家が、公然と家康に味方したのだ。

この影響は大きく、大名格の武将で、豊臣家に味方したものはいなかった。


浅野幸長の母と豊臣秀頼の摘母、ねねとは、姉妹であり、現当主、幸長の弟、長晟(ながあきら)と豊臣秀頼はいとこになる。

浅野家は、豊臣家に繫がる最大の家柄であり、家康は豊臣後継と見なした。

その浅野家を、じらしつつ、徳川家に取り込んだのだ。

大坂の陣は楽勝で勝つと、家康が思う由縁でもある。

実際は思いのほか、豊臣勢は、健闘したが。


浅野家を取り込み、春姫を迎え、家康は、義直が豊臣家を継承する大義名分を得たとした。

ここで、家康は、誰も文句のつけようがない、絶対的な天下人となったと、満面の笑顔を浮かべる。


お亀の方は、疑い深い。

義直を取り巻く近習家臣すべてを自分で確かめ、納得できるものしか仕えさせない。

名古屋城に暫く一緒に住み、春姫周辺の動きを見つつ、不穏な動きがないか確かめる。

春姫を穏やかに包み込み、義母としての貫禄を見せつけながら。

そして、引き連れた春姫家臣団が不穏な動きをすることがないよう、幾重にも監視の目を張り巡らし、駿府城に戻る。


間もなくの家康の死。

父、家康が73歳で亡くなった時、義直(1601 -1650)は、15歳。

家康と最も長く共に暮らし、家康から性格・知力・体力全てわが子の中では最高の子だと言われていた。

遺産配分も、将軍家に次ぐ親藩に相応しく、与えられた。

家康が最も可愛がったのが義直だと明らかにするような配分だった。


徳川一門で、将軍家に次ぐのは、秀忠の兄、結城秀康の家系で、越前北庄67万石を得ていた。

尾張藩は、弟の藩として石高62万石(確定は1619年)だが木曽の山林も与えられた。

豊富な木曽の山林は10万石にも匹敵する。

また鉱物資源にも恵まれ、肥沃な田畑となることが予想できる豊かな地がありすべてを入れると100万石にも相当する。

家康は、将軍に次ぐ第二の地位に尾張藩を置いたのだと、皆が思った。


将軍、秀忠も父のお気に入りの弟として大切に扱かった。

それゆえ、家康の死後、側室は仏門に入り菩提を弔う暮らしに入るのが当然としていたが、お亀の方には、強制せず、自由に任せた。

お亀の方は「江戸藩邸には住まない。名古屋を動かない」と、幕府に申し出る。

秀忠も認める。


「もし将軍家に後継者がなければ、後継となる第一の家系が義直だ」と家康はお亀の方に遺言している。

お亀の方は、この言葉を、何度も何度も心の中で繰り返し、義直にも話した。

その日がきっと来ると待ち望んだ。

家康が亡くなると、権力は将軍、秀忠に移る。

そして、秀忠の思い通り、三代将軍は家光(1604-1651)となる。

義直(1601-1650)は、残念だったが、従わざるを得ない。


お亀の方は家光をよく知っている。

そして、義直の方が家光より才知・器量は上であり、将軍になるべきだと確信していた。

義直も、同感だ。

家光より3歳年上だけの義直は、将軍になりたかった。


その思いは、家光に届く。

家光は、弟、忠長や叔父たちを脅威に思い、穏やかではおれず、種々の策をとる。

弟、忠長は殺し、叔父たちには公然と将軍の権威を見せつけ、わざと家臣扱いした。

義直は、叔父に対する態度ではないと家光のやり方が腹に据えかねることが多々あった。


お亀の方も義直も、いつかは尾張家から将軍を出すと密かに、心中深く決意することで心落ち着かせ耐える。

家光の後継が、なかなかできなかったこともある。 

だが、1641年、家光に男子が生まれた。

無念の思いで、お亀の方はその翌年1642年亡くなる。

義直に「いつか尾張藩に出番が来ます」と何度もつぶやきながら。


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