⑧佐倉城 (千葉県佐倉市城内町 官有無番地)
⑧佐倉城 (千葉県佐倉市城内町 官有無番地)
1610年、江戸を守る要衝の地として、家康が土井利勝に築城を命じ、城づくりが始まる。西側と南側を鹿島川とその支流高崎川が流れ、北側には印旛沼がありに外堀の一部とする。地形を活かし曲輪の周囲を土塁で固め、石垣を一切使わない広大な城とした。
要衝の地であり、代々譜代大名の居城となり、老中・大老と幕府の要職に就くと佐倉城に入ることが多くなる。
そのため城主はよく変わった。
13家の佐倉藩主がいて、9人が老中。
最初が、親藩 4万石。
家康の5男、武田信吉。
2番目が、親藩 5万石。
家康の6男、松平忠輝。
忠輝は、1602年藩主となるが、40日間だけだった。
以後譜代の城となる。
3番目が、譜代 2万2千石。
家康の4男、松平忠吉の付家老だった小笠原吉次。
このころまで、家康の頭には、佐倉常がどうあるべきか定まらなかった。
4番目が1610年、3万2千石(後14万2千石)。
土井利勝が入る。
江戸東方の重要な守るべき要衝の地との位置づけとなり、堅固な佐倉城が築かれる。
5番目が、譜代 7万石。
家康の母、お大の方の姪の子、石川忠総。
6番目が、譜代 4万石。
松平一門、形原松平家、松平家信。
7番目が、1642年、11万石。
堀田正盛が入ったが、1660年国替え。
江戸城を守り、幕府と一体となる城であり、老中が治め、幕政を率いたが、正盛後継、正信は、志半ばで改易となってしまった。
8番目が、譜代 6万石。
松平一門、大給松平家、松平乗久。
9番目が、譜代 8万3千石(後9万3千石)。
大久保忠朝。
10番目が、譜代 6万1千石(後7万1千石)。
戸田忠昌。
11番目が、譜代 10万2千石。
稲葉正往。
12番目が、譜代 6万石。
松平一門、大給松平家、松平乗邑。
最後が、1746年、譜代 10万石(後11万石)
堀田正亮が入り、幕末まで続く。
佐倉に戻ることを願い続け、悪戦苦闘しながら、返り咲き、く佐倉藩主に戻った。
堀田家佐倉藩が蘇る。
以来、幕末まで、一番長く佐倉藩を治めた。
■春日局の養子、正俊
佐倉藩堀田家初代藩主が譜代の堀田正盛。
堀田家は、秀吉に仕え、死後、家康に仕えた。
この頃、豊臣恩顧の一武将でしかなかった。
家康と縁戚でもなく、武将として認められたとしても外様大名にしかなれない。
救いの神となるのが、春日局。
春日局に引き立てられたことで、堀田家は、譜代となり、大藩となることができたのだ。
そんなサクセススト-リ-の始まり、春日局と堀田家の出会いは。
春日局(1579-1643)は、いとこの婿、稲葉正成の後妻となる。
いとこが、幼い男の子、正次と女の子、まんを残して亡くなった為だ。
春日局は、父、斎藤利三が明智光秀の筆頭家老であったため、逆賊の汚名を受けて育った。
そのため、結婚相手が見つかっただけでも良しと、嫁ぐ。
8歳も年上の夫と二人の幼子の元に嫁ぐのは、うれしくもあり悲しくもあったが。
だが、天性の解析力・統率力を持つ春日局は、子たちの性格・能力をすぐにつかみ、親しくなり、姉のような存在から母になっていく。
特に、女の子、まんとは、実の母娘のようになった。
そして、夫、正成(1571-1628)の意向で、同僚、堀田正吉(1571-1629)と結婚させる。
堀田正吉は、父親、稲葉正成と同い年だ。
まんは、親子ほどの年の差のある堀田正吉に嫁ぐと、決まったのだ。
春日局は可哀そうでならなかったが、精一杯の嫁入り支度を整え嫁がせる。
まんは、気にすることなく嬉しそうに嫁ぐ。
堀田正吉は、稲葉正成の同僚だが役職は下であり、正成が上司だ。
そのこともあり、まんは大切にされ、大満足で、仲睦まじい暮らしだった。
二人には、嫡男、堀田正盛(1609-1651)以下6人の子宝が次々授かる。
春日局は、まんの子たちを、自分の子のように可愛がり、それぞれの先行きに気を配った。
特に、堀田正盛の庇護者を自認し、きめ細かく教え見守った。
まず、家光の小姓に抜擢し、側近く仕えさせる。
次いで、老中・後には大老として幕政を率いる譜代の重鎮、家康一門、酒井家の若狭国小浜藩主、忠勝の娘、あぐり姫との結婚を決める。
こうして、春日局と酒井家の縁で家康一門に繋がり、堀田家は、譜代となることができた。
堀田正盛とあぐり姫との間に正信、脇坂安政、正俊、正英、南部勝直の男子5人が誕生。
正室、大老の娘、あぐり姫との間に生まれた嫡男は、何よりもお家の安泰につながる。
あぐり姫と仲睦まじい正盛は幸運だった。
順調に出世の階段を上っていく。
次男と5男は、春日局が取り次ぎ、望まれて、大名家の養子となり引き継ぐ。
1634年生まれた正盛の3男が、堀田正俊だった。
春日局が、正俊を養子にしたいと話し始める。
正盛に「嫡男も元気だし堀田家は大丈夫。そこで、3男、正俊を手元において我が手で育てたい」と。
正盛も大喜びで了解し、翌年、1歳にもならないうちに春日局の養子となり育てられる。
春日局は、家光より3千石を得ており、3千石を引き継ぐ旗本家を興さそうと考えた。
自分の孫、正則にはまだ子が生まれていない。
そのため春日局の後継者として適任者はいなかった。
55歳になり、早く後継者を決めたかった。
家光の後継作りを画策し、悲願が成就する予感で浮かれていたこともある。
生まれ来る次期将軍の小姓に、我が手で育てた子を仕えさせたい夢があった。
そんな思いに、正俊はぴったりだった。
春日局の子の稲葉家・娘婿の堀田家とはまったく別になる春日局だけを継承する旗本家だと考えており、本家を脅かすことなど考えもしなかった。
春日局の悲壮な決意に追い詰められ、今まで、側室を持つことを嫌がった家光が、側室を迎えることを了解した。
そこで、春日局の親族の娘、お振の方を側室に推し、1635年、側室となる。
初めての側室であり、まだ子は授かっていないが、春日局の願ったように、仲睦まじく男女の仲になっている。
いずれは男子が授かるはずだと、自信があった。
お振の方(1620-1640)は1637年、家光の初めての子、千代姫を生む。
男子ではなくがっかりした春日局だが、次ぎは、必ず嫡男が生まれると祝福した。
男子が生まれると春日局の家系が将軍となるはずだ。
お振の方が生む男子が将軍となり、正俊が側近として支え幕府の中枢を担うとワクワクしながら、正俊を育てていく。
ただ、お振の方は、千代姫が生まれて後、体調が悪く男子の出産が危ぶまれた。
やむなく、春日局は、次々、家光に女人を仕えさせた。
この頃、家光も、後継者の必要を感じ、春日局の指示通り、側室を迎えた。
だが、なかなか子が生まれずやきもきするばかりだったが。
1641年、ようやく家綱が生まれた。
ここまでの長い道のりを思い、嬉し涙が溢れた春日局だった。
家光も春日局の労に報いたいと、正俊を家綱の小姓にする。
2年後、正俊が9歳の時、春日局はすべきことを終えたように亡くなる。
直前、春日局は、家光の命令として直系の孫、稲葉正則の娘と正俊の結婚を決めた。
ここで、正俊は、春日局の正当な血筋を受け継ぐ養子となった。
正俊は、春日局の遺領3千石を得て、旗本となる。
その後、1651年、家光が亡くなり、父、正盛が殉死する。
父、正盛は、春日局の薫陶を受け、家光の近習となり、次々出世して、下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)11万石藩主にまでなった。
正盛が家督を継いだ時の堀田家は、旗本1000石でしかなかった。
それから、急激に出世した。
家光と春日局によりもたらされたと大恩を感じていた。
家光に従い殉死するのは本望だった。
嫡男、正信が引き継ぐ。
その時、正俊は、父、正盛の遺言で、遺領のうち下野国新田1万石を得た。
17歳で1万3千石の大名となった。
将軍となった家綱に変わらず仕え、信任され1660年、幕政を率いる要職、奏者番となり、上野国安中藩(群馬県安中市)2万石を得る。
義父、稲葉正則(1623-1696)の歩んだ道を少し遅れて歩いていく。
それでも、稲葉家嫡流と良く似た、すごい速さだった。
ところが、幸せなときは長くは続かず、嫡流の兄、堀田正信が幕政批判をした罪で、1660年、堀田本家は改易されてしまう。
佐倉藩は取り上げられた。
正俊は、一途に家綱に仕え、類は及ばなかった。
1670年、若年寄となり、1679年、老中となり2万石加増され安中藩4万石藩主となる。
本家の凋落は辛かったが、すべて順調すぎるほどだ。
嫡流は改易され、堀田本家は正俊だ、と誰もが思うようになっていく。
1680年、家綱は後継を残さないまま亡くなる。
その後継をめぐり、正俊は、権勢を誇った大老、酒井忠清に対抗して、家綱の異母弟、綱吉を次期将軍に推した。
正俊は勝利し、将軍、綱吉が誕生する。
正俊は、義父、稲葉正勝(1597-1634)の若死にや堀田本家の改易に大きく関与したのは、松平信綱(1596-1662)だと憎んでいた。
信綱は、野望が強く、稲葉家・堀田家の追い落としを図り、無理難題の解決を迫り、追い詰めることに喜びを感じているかのようだった。
また、家綱の絶対的信頼を得て権力の集中を実現した酒井忠清(1624-1681)にも相いれない思いがあった。
突出する者だけが取り仕切る幕政ではなく、将軍と幕閣が合い携えて幕政を行うべきだとの考えを持っていた。
その思いを実現するのが、綱吉だと見込んだ。
綱吉を推すことで、思いを遂げようとし、成功した。
成し遂げた満足感に浸った。
綱吉は、将軍に決まると、即座に、大老、酒井忠清を罷免し、江戸城、大手門前の最高の地にあった忠清邸を引き払わせる。
そして、正俊に与え、続いて、1681年、忠清に代わって正俊を大老とする。
綱吉は、将軍になれたのは、正俊の功だと認めていたからだ。
結局、正俊は忠清に取って代わっただけだった。
正俊は、幕閣の中心に位置し、権勢並ぶべき者はないと言われるほど思うままに幕政を主導する。
綱吉将軍を擁して、牧野成貞とともに「天和の治」と呼ばれる政治を執り行なう。
特に財政面に大きな成果を上げる。
ここで、正俊は、古河藩13万石を得る。
正俊は、家綱・綱吉に仕え、大老まで上り詰め、堀田家分家でありながら春日局の養子として本家以上の存在感を持つ。
嫡流本家は、家名の再興は果たしたが、1万石になっていた。
だが、正俊の栄華も短く、1684年、親戚の若年寄の美濃青野藩主、稲葉正休(1640-1684)に、江戸城内で刺殺された。
50歳だった。
正休もその場で殺害され、真相は闇に包まれた。
将軍、綱吉の影響の下で起きた事件と思われた。
稲葉正休は春日局と離婚した稲葉正成と後妻、山内康豊(土佐高知藩主、忠義の父)の娘との間に生まれた子、稲葉正吉(1618-1656)の嫡男だ。
正吉は、10歳で父、稲葉正成の長子、正次(1591-1628)の養子となり後を継ぎ、5千石旗本となっていた。
稲葉正成の嫡流家は、長子、稲葉正次から末っ子、正吉そして稲葉正休と続くが、皆それぞれ腹に一物を持った。
稲葉宗家を継ぐはずだったのに、春日局の思うようにされ、稲葉家の嫡流は、春日局の子、正勝(1597-1634)の系統となった。
そして稲葉正勝は、小田原藩10万2千石藩主となった。
比べて本家のはずの稲葉正次の家系は、わずか旗本5千石でしかなく、満足できなかった。
稲葉正吉は、旗本として与えられた役目を果たしつつ、欲求不満を抱えて、家老、安藤甚五右衛門・側近、松永喜内らと遊び酒興を楽しんでいた。
正吉は、安藤甚五右衛門・松永喜内を寵愛した。
安藤甚五右衛門と松永喜内が正吉の愛を競う。
ところが、正吉は、意思をはっきりさせず、あまりに適当だった。
主君の不誠実さに想いを抑えられなくなった家老、安藤甚五右衛門が松永喜内と共に、駿府城護衛の役目の最中、1656年、正吉を殺してしまった。
正吉から寵愛された二人だったが、正吉の愛はその場しのぎで心ここにあらずだった。
3人3様に、将来不安を感じた末の恐ろしい結末だった。
やむなく、正吉の嫡男、稲葉正休16歳が後を継ぐ。
春日局の嫡流、稲葉家当主、正則は、いとこ、正吉の屈折した思いを理解した。
そこで、幕政から身を引く覚悟の正則は、稲葉正休を将軍近くで仕えられるよう推した。
正休は、叔父、忠義は高知藩主だとの思いがあり、出世したかった。
将軍、綱吉は、綱吉を将軍に推さなかった稲葉正則を嫌い、将軍になると、身を引くよう迫っていた。
引退する代わりに嫡男、稲葉正住(1640-1716)と稲葉正休を推し、綱吉は喜んで応じた。
それでも次第に、正則を感じさせる嫡男、正住を気に入らず、正休を気に入り側近く置く。
正住も、稲葉本家の正休が将軍綱吉側近となることは、稲葉家にも良いことと応援した。
こうして、正休は、綱吉近習となり、1682年、若年寄となり、加増されて青野藩1万2千石を得た。
能力を認めてくれる主君、綱吉にめぐり合えた喜びと、役に立ちたいとの忠誠心に燃えた。
そして、綱吉が、堀田正俊に不満を持っている思いを理解し、共有していく。
堀田正俊は、義弟、正住を評価し、稲葉正休に厳しく接した。
稲葉正休は、正俊が春日局の威光をかざし堀田本家を乗っ取ったと、許せない憎しみを持ち続けている。
直接の対立は、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立だった。
その前から、正俊は、将軍、「生類憐れみの令」の施行に反対し、綱吉と対立していた。
綱吉は、庇護者を気取り命令に従わない堀田正俊を排除する機会を探していた。
こうした経緯があり、1684年、正休は、綱吉の意向に沿い正俊を殺した。
だが、綱吉から恩賞を得るはずが稲葉正休もその場で殺され青野藩1万2千石は改易だ。
代わりに、養父の父、稲葉正次が亡くなった時、幼くて家督を継げなかった甥、正能(1654-1725)が別家を立て、旗本となるが。
正俊は被害者であると認められ、嫡男、堀田正仲(1662-1694)への家督相続が許されるが、最高の場所にあった江戸上屋敷を明け渡すよう命じられ、かっての勢いはなくなる。
その上、1685年、佐倉藩から出羽山形藩へそして陸奥福島藩へと国替えだ。
堀田家は、実質、刃傷沙汰の責任を取らされたのだった。
綱吉は好き嫌いが激しく、堀田家を嫌っていた。
堀田正俊亡き後、堀田家は、綱吉に翻弄され、力をなくす。
正仲は、父から引き継ぐべき佐倉藩を取り上げられ国替えを命じられ、無念だった。
この事件以降、綱吉は、幕閣を気にせず、奥御殿で政務をとり、老中と距離を置く。
幕府の職制を気にせず、思いのままに幕政を執り始める。
綱吉の意向を老中に取り次ぐ柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持っていく。
堀田家は、佐倉藩に戻りたく、努力する日々となる。
歴代の藩主は幕閣の中枢に入り、幕政を主導する力を持ち、必ず佐倉に戻ると決意する。
だが、正仲の若死に続き、後継にした養子、弟、堀田正虎(1662-1729)に子がなく、次に養子にした正直は若死に、その子、正春が継ぐもまた若死にと悲運が続く。
それでも、1709年、綱吉が亡くなると、好機だと、奮い立った。
家中一団となり、必ずと佐倉藩に戻ると、決意を固め、動く。
1731年、堀田正亮(1712-1761)が養子入りして家督を継ぐとようやく藩政が安定。
そして、幕閣として実績を積み上げ、ついに、老中となり、佐倉藩を獲得。
1746年佐倉藩を失い、61年の歳月がかかったが、佐倉藩主に返り咲く。
正亮は、老中首座にまで登り、11万石となり、過去の栄光を取り戻した。
実質、春日局から始まった堀田家が、紆余曲折があり、稲葉家とのややこしい関係が生まれるが、堀田宗家となり佐倉藩主として定着し、幕末まで続く。




