⑥ 古河城(茨城県古河市中央町3丁目)
⑥ 古河城(茨城県古河市中央町3丁目)
古河城は、鎌倉公方、足利成氏が、本拠とし「古河御所」とも称された。
城館として整備された。
戦国を制した秀吉の世が来ると、秀吉は1590年、家康に関東入りを命じた。
その時、家康家臣、小笠原秀政が、古河城3万石を与えられ入城する。
ここから家康の威信を見せるための城とすべく、改修されていく。
家康の世となり、東北方面ににらみを聞かせる、江戸防衛の一端を担う城となる。
江戸城と一体化した存在意義を持つことになる。
藩主は、譜代であり、幕府の要職を占め、次々変わる。
1633年から1681年まで、そして1762年から幕末までと、一番長い藩主が土井家。
■土井家初代藩主、利勝。父は家康。
土井利勝、なぞの多い英傑だ。
古河城の拡張整備に最も力を尽くし、幕閣最高の大老職を務め、徳川幕府の礎を築いた。
1573年、家康の母、お大の方の兄、水野信元の庶子に生まれる。
1576年、家康は水野信元を殺す。
その時、利勝は、家康の命令で、引き取られ、家臣の養子となる。
養父となる家臣が、早乙女利昌。家康は、土井氏を名乗るよう命じた。
ここから、父が土井利昌となり、土井利勝と名乗るようになる。
これが氏素性とされる。
利昌は、早乙女を姓としていた。
ところが、家康の命で美濃守護土岐氏庶流を始めとし三河碧海土居に在地し三浦姓を名とすることになった。
武将は在地し支配した土地の名を名乗るのが自然だから。
こうして利勝は、名門に近い、家康家臣にふさわしい氏素性となった。
水野信元は殺されたが、水野一族は信長・家康家臣として続いており、水野利勝として家康家臣になっても問題はなかった。
また、利昌には、すでに嫡男がいたが急遽、長男とされてしまった。
代わって利勝が土井家嫡男となった。
なぜそうなったのか根拠は示されない。
家康に何らかの考えがあり、利勝は普通ではない幼少時を送った。
ここから土井利勝に関しいろいろ逸話が生まれる。
利勝は成長すると、養父から「家康様から頂いた短刀だ」と渡され受け取った。
その時、利昌の娘、後玉等院と家康の間につかの間の愛があり、利勝が生まれたと説明され、その証だと聞かされる。
秘密にすべき事柄であり、父、利昌もその後は何も言わない。
利勝は、短刀の家紋が松平一門や縁ある譜代が使う沢瀉の葉の形だったことで、そっと自分の家紋の一つとした。
家康が与えた短刀のかざりから作られた家紋だと、皆が噂するが沈黙を続ける。
利勝は、誰にも言わず一人で、家康の子だと確信して、大人になる。
その思いを物語るように、異例の出世をしていく。
家康は、家名・家紋など利勝が生まれた時から種々の配慮をしていた。
それからも、猛烈な速さの出世が続く。
ますます皆が御落胤と噂する。
生まれたときからの流れをもう一度振り返ると、
1573年春生まれた利勝は、家康の母、お大の方の兄、水野信元の三男として養子入りした。
信元には実子は育たず、後継は甥となる。
庶子であっても実子なら後継に名が上がるはずだがなかった、つまり養子だった。
水野家は、尾張国知多郡東部から三河国碧海郡西部を支配した、信長配下の有力国人だ。我が子、利勝の預け先としてふさわしい身内だと考え、家康は預けた。
3年後、信元は武田勝頼に内通したと、信長に追及された。
信長は、謀反だと怒り、窮地に陥った信元は家康の元に逃げる。
信元は、今川義元亡き後、信長と同盟を結びたい家康を信長に取り次いだ。
家康は、その時以来、信元に対して、恩を感じている。
信元も家康のために尽くした自負があり、今度は、信元の為に仲介の労を取って欲しいと頼んできたのだ。
信元は、家康が力を尽くしてくれると信じていた。
信長は家康に「信元を殺すよう」命じる。
1573年、信玄亡き後、勝頼が武田家を率いたが、かっての威力は消え、落ち目は誰の目にも明らかだった。
先を見る目に優れた勇猛な将、信元が内通したとは信じられないが、信長が家康の忠誠心を試しているのだと、家康は受けて立つ。
仲介は一切せず、1576年、叔父、信元を殺す。
信元は、織田信秀(1510-1551)の勢いに織田家の飛躍を見て、信秀に賭けると決め、今川義元を裏切った。
以後、信秀とは同盟軍として共に戦った。
信元は、織田家ほどではないが、有力国人、水野家を率いている自負があった。
そのため、信長の代となっても主従関係ではなく同盟を結んでいるとの意識だった。
今川義元は信元の裏切りに激怒した。
そこで、信元の妹、お大の方を妻にした家康の父、広忠に、忠誠心を問い、離縁させた。
家康から母を奪った信元は、義元が脅威に感じ、信長が頼りにする軍事力を持つ三河の実力者だった。
その後、信長は格段に勢力を伸ばし、信元に絶対服従を求める。
独立性を重んじる信元は一方的命令を不満に思い、信長は指示に従わないと不信感が募り、ついに裏切りだと決めつけたのだ。
信長は、水野家の勢力を削ぎ、一家臣に落とし込めるつもりだった。
家康は母の兄、水野信元を好きではなかった。
信元は家康の親代わりを自称し、あれこれ指図し、気分を悪くする存在だった。
信長の命令ではあったが、家康の意志で殺した。
もちろん、信長の命令で、やむなく殺したと、苦渋の表情を崩さなかったが。
家康も信長と同盟を結んでおり、信元と同じ立場だ。
信長との間は主従関係ではないと考えていたが、水野家の悲惨な姿を見て、慎重に動かないと同じ運命となると背筋が凍った。
以後、家康は信長に服従しながらも、兄弟的同盟者としての存在感も示す、硬軟合わせた対応を心がけるようになる。
信長は、信元とその後継を殺し、水野家嫡流は絶えた。
そして、おもむろに一家臣として再興する。
水野氏の家督を継がせたのは、信元の末の弟、忠重(1541-1600)。
同時に水野氏の領地を大幅に取り上げた。
行き場を失った多くの一族・家臣が、水野氏の娘、お大の方の呼びかけに応じて家康の元に集まった。
家康は、母、お大の方と同母弟になる叔父、忠守(忠重の兄)を匿い、水野氏後継と見なした。
そして、忠守の家臣を召し抱えた形を取り、水野家旧臣を召し抱えた。
忠守を通して水野家を乗っ取るのは水野家中から憎まれにくい、良い方法だったからだ。
こうして、瞬く間に、家康後見人だった水野氏が、家康家臣となった。
水野氏嫡流は、信長が忠重と決めており、水野家は二分され、ますます勢力を弱める。
家康は、信元を殺した功で、信長から水野領のかなりの部分を得た。
能力ある水野家臣団を選び家康家臣とし、家康家臣団の層は格段に厚くなる。
信元の死で一番得をしたのは、圧倒的に家康だった。
養父、信元が亡くなり、水野家は混迷した。
ここで、家康は、利勝3歳を引き取り、改めて、利昌の養子としたのだ。
祖父が父になり、母が姉になる、ややこしい関係となるが、利勝は、兄、元政を差し置き、利昌嫡男となる。
わずか5歳で家康に仕える。
家康は、利勝を我が子とは言わなかったが、側近く置き、嬉々として種々の武将としてのたしなみを教え、誰の目にも特別の存在だと分かる。
家康も容姿・性格の全てがよく似て、しかも優秀な利勝を見続けて、内心我が子だとうれしそうにうなずいていた。
1579年、家康3男、秀忠が生まれると、6歳の利勝は子守役に抜擢され、家康と秀忠の元を行き来しながら秀忠の側近くで仕える。
利勝は、家康後継と見なされる秀忠の近習になったのだ。
近習は、将来の秀忠の側近に繋がる大役であり、信頼できる譜代の臣から選ばれていたが、土井家は譜代ではなく利勝の抜擢は例外だった。
家中の納得する答えは、家康の子ゆえだということだ。
こうして誰も口にしないが、利勝の異例の出世に周囲はうなずく。
利勝は、家康の心を先読みする知恵があり、家康がはっと感心し、つい頬をゆるめてしまう時がよくあった。
後の天下人、家康を主君として仰ぎ見ながら日常生活にも関わり、家康のすべてを学ぶ。
この当時でも、家臣の子たちにとって、家康は雲の上の人だった。
だが利勝は物怖じすることなく家康の側にいた。
そして、家康流の人心掌握術・組織作りを身に着けていく。
家康の雰囲気・度胸・顔つきなど自然と身につき、家康に似ていく。
ここでもまた、周囲はなるほどとうなづく。
次第に家康の望むとおりに、秀忠の守役にふさわしい技量を身につけていく。
家康の心を掴んだ利勝は、子と認められなくても、全く平気だった。
秀忠と強く結ばれ、自信を持って、実力で出世の道を歩む。
その道も家康によく似て、分をわきまえて焦らず、慎重で確実だった。
家康の身辺の状況は大きく変わる。
家康は、信長に命じられ、謀反の疑いのある嫡男、信康を殺した。
信康の死で、信康を支えた重臣は、家康から不信の目で見られ、また信康の死に納得できない思いを持った。
まもなく、本能寺の変が起き、秀吉の世となる。
すると秀吉の調略に応じた、信康筆頭家老、石川数正が1585年末、秀吉のもとに出奔。
家康は、秀吉の調略が家中に進んでいると恐怖。
特に、信康に縁のある重臣が調略に応じ、秀吉に傾いていた。
家康は、家中の忠誠心を煽り、固い守りを作らなくてはならない。
まず、信康の腹心で強い影響力のあった長沢松平家、康忠(1546-1618)をどうするか、悩む。
信康を殺された恨みを持ち続けていると思え、優秀だが、信用ならない。
石川数正と同じようになるかもしれない恐れがあった。
そこで、隠居を命じた。
1588年、康忠42歳で、嫡男、康直(1569-1593)に家督を譲り京に去った。
その前1587年、長沢家分家、正次に大河内秀綱の次男、正綱(1576-1648)を養子入りさせ、大河内松平家を名乗らせている。
大河内家は、吉良氏の筆頭家老だった。
大河内松平家を長沢松平家分家とし、康直に代えて嫡流にしても良いと考えた。
同じ頃1588年、長沢松平家康忠を支えた長沢松平家分家、松平近清も亡くなる。
近清の嫡男、清直(1584-1651)は、まだ4歳と幼かった。
家康は、長沢松平家を支える筆頭の役目を、近清家と大河内松平家とするつもりだった。
そこで、土井利勝(1573-1644)に清直の姉、お光の方と結婚し、清直の面倒を見るよう命じる。
ここからの利勝の出世がまたすごい。
利勝は、松平家一門となったと興奮し喜んだ。
父も兄も一族も利勝の出世につれ、地位を上げ、土井氏は譜代の顔を持ち始める。
こうして、19歳の松平康直を筆頭に、15歳の土井利勝と12歳の大河内正綱が長沢松平家を率いていく。
長沢松平家の相対的力は落ち、力を持たせたくない家康にとって良い布陣だ。
利勝は、家康が褒める働きをして、長沢松平家は、家康に忠誠を誓う一門に生まれ変わった。
順調だったが、その時は短く、1593年、康直は亡くなった。
長沢松平家、松平康直は、本多広孝(1528-1598)の娘と結婚していた。
祖父は主君、家康の祖父、松平清康の娘。
父は主君、家康の父、松平広忠の娘と結婚している。
家康にとても近い一門であり、重要性を示している。
だが、家康は、康直の結婚相手を譜代の臣、本多広孝と東条松平家、松平義春の娘の間に生まれた娘とした。
松平康直の重要性は低かった。
東条松平家は、義春から忠茂そして家忠と当主が変わり続いた。
東条松平家は吉良氏を受け継ぐ大義を与えられ、松平家一門では名門だ。
家忠亡き後の1581年、家忠の養子として家康4男、信吉を入れ、東条松平家を継がせた。
ここから、松平一門では飛びぬけた存在となった。
康直の妻、本多広孝の娘は、実家が東条松平家であり、家康4男、信吉の家系となった。
東条松平家は、家康の子が引き継ぐ家となったのだ。
だが、長沢松平家は、康直が譜代の臣と結婚したことで、宗家、家康との縁が薄れた。
家康が、信康との縁を疑い、長沢松平家への期待が低くなっていたのだ。
康直には、1582年、長女、蓮姫、続いて、次女姫が生まれていた。
だが、男子は生まれなかった。
康直の弟たちもおり、康直の妻は、蓮姫に婿養子を迎え、家督を引き継がせたいと願った。
家康は、信康を増長させたのは康忠だと確信しており、康忠の血筋に厳しかった。
ここで、長沢松平家をどうすべきか考える。
東条松平家は守るべき一門であり、家康お気に入りの4男、信吉を養子にしており、将来性もある。
長沢松平家の役目は重要だ。
1594年、家康7男、松千代が生まれた。
そこで、生まれたばかりの松千代を長沢松平家に養子入りさせ、継がせると決めた。
土井利勝21歳に、松千代の養育を託し、長沢松平家のかじ取りを任せたのだ。
土井利勝は、家康の抜擢を奮い立って受けた。
ついに、家康の子の守役になったのだと、感激だ。
秀忠とは近習の一人になっただけだが、松千代の筆頭守役となったのだ。
父親代わりでもあるのだ。
家康の高い評価に胸震わせ、役目を受ける。
妻、お光の方とともに、懸命に松千代を育て、長沢松平家が一致団結して、家康に忠誠を尽くす体制づくりを推し進める。
お光の方は、長沢松平家で近清が創り上げた主従関係を守りつつ、家康に近い家臣団を受け入れていく。
だが、1599年、松千代は亡くなった。
生まれたときから病弱だった。
お光の方は、心配でつききりとなる日もよくあったが、元気になることはなかった。
それでも手を尽くし5歳まで生きた。
お光の方も利勝も自責の念で、家康に合わす顔がなかった。
ところが、家康は、全く気にしなかった。
すぐに、松千代の兄、忠輝に長沢松平家を引き継がせる。
そして利勝に「よく働いた。長沢松平家を支える清直も成長した。清直やお光の方の姉婿、山田重辰に任せればいい」と重責を解いた。
家康は、天下人への道を進んでいた。
「利勝の働く場は多い、秀忠にこれからも尽くすように」と言うだけだ。
利勝は、責任を問われるどころか、秀忠の絶対的信頼を得て、兄のような存在となる。
利勝は、お光の方と仲睦まじく、お光の方がいることで家康により近づいたと感謝するばかりだ。
最高の伴侶に巡り会ったと、自画自賛するほどだった。
こうして、徳川幕府が開府され、秀忠は後継になった。
利勝は、秀忠の側近中の側近となり、家康との間をうまくつなぎ、押しも押されもしない幕府の重鎮となる。
幕府の諸制度・人事など重大事項の策定を主導し、幕府の骨格作りに業績を残す。
また、家康・秀忠の秘密裏の計画にも関わり、裏からも、幕府の安定の為に尽くす。
業績に比例して大名としても大きくなっていく。
1602年、下総小見川(千葉県香取市)藩1万石の大名となる。
加増あっての後、1610年、下総佐倉(千葉県佐倉市)藩3万2000石を得、老中となる。
その後も加増が続き、秀忠を引き継ぎ、新将軍となった家光により、1633年、下総国古河藩16万石余を与えられ、大藩の藩主にまでなった。
ここで、幕閣の頂点に立ち、まだまだ、幕府を主導し続ける。
1638年、大老となる。
これ以後は名誉職となるが、幕閣に目を光らせる現役だった。
1644年、71歳の死の直前まで古河藩主であることを誇り、居城、古河城を愛した。
古河城を、江戸城の支城として江戸城と一体化した城郭として改修拡大した。
自らを将軍の一部だと信じていた。




