34話
賢者イオナは、これで魔王を倒せるとは思っていなかった。
賢者イオナの秘策が魔王に効く可能性は雀の涙ほどしかないと悲観していたし、もし上手くいったとしても、魔王の体力を削りきるまでの猛攻を仕掛けられるとは思っていなかった。
だから次の瞬間、視界を光が焼いたのには息を飲んだ。
何が起こったのか、わからなかった。
しかしすぐに、視界が真っ白なのは光のせいではないことを知る。
そこは、真っ白な、何もない部屋だった。
部屋と言っても壁はない。天井もない。それだけではない。賢者イオナ自身の体さえない。
目の前に手をやってみても、足下に目を落としてみても、何もない。
自分の目だけが中空に浮いているのではないか。そんな薄気味悪い想像に賢者イオナは背筋を寒くするが、無論、寒く感じる背筋もない。
時間の感覚も希薄なその空間で、それは唐突に聞こえてきた。
「おめでとうございます。あなたはクリアしました」
男性とも女性ともつかぬ、やけに無機質な声だった。すかさず賢者イオナは返す。
「クリアって何を。ここはどこ?」
「あなたは魔王を打倒し、クリアしました。ここは、どこでもないどこか」
声は律儀に応えてはいるが、その実、なんの答えにもなっていない。
「……いいわ。で、私をどうしようっていうの?」
何もない不気味な空間に、幽閉されたと言っても良い状況だ。だが、声の返答に、悪びれる様子どころか感情の色さえ皆無だ。
「クリアしたあなたには、三つの選択肢があります」
賢者イオナはない眉と唇を曲げて、苦々しげに言う。
「なによそれ」
声は賢者イオナの不平など意にも介さず、続ける。
「一つ目は、かの世界で平穏な毎日を過ごすこと」
賢者イオナが沈黙していると、声もまた黙る。仕方なく、賢者イオナは口を開く。
「魔王を倒したんだから、悠々自適の生活を送るのは、悪くないわね」
「では、一つ目を選びますか?」
「二つ目と三つ目も言いなさいよ」
そう促されるのを待っていたかのように、声は朗々と続ける。
「二つ目は、このまま終わること」
「なによそれ。私を殺すってこと?」
食ってかかる賢者イオナなど、どこ吹く風。
「いいえ、このまま終わるということです」
賢者イオナはため息をつく。
「……三つ目は?」
「三つ目は、次のステージに進むこと」
「ステージ、ですって?」
「選択して下さい」
今までと変わらない、感情のかけらもない声。だがその声は、有無を言わさぬ命令に他ならなかった。
賢者イオナは、ない歯で歯ぎしりする。自分の運命を、完全に掌握されている。逆らおうにも、敵の姿も見えなければ、自分の肉体さえ覚束ないのだ。
否応なく、選択せねばならないのか。
「……二つ目は、あり得ない。あなたなんかに、終わらされてたまるかってんのよ」
「選択して下さい」
無感情に繰り返す声に、賢者イオナはそれでも言葉を返す。
「次のステージってなんなのよ。一つ目と、どう違うのよ。また魔王みたいなのと戦えっていうの?」
「あなたが一つ目を選択した場合、平穏な毎日を過ごすことになるでしょう。そうでない毎日は、訪れません」
「三つ目を選んだ場合は?」
「次のステージに進むことになるでしょう」
胸ぐらがあるなら掴んでいるところだが、それはできない。
こんなことをしている場合ではない。早く仲間達とエステルキャッスルに戻り、勇者の奪還と魔王討伐を、王、フォンノワールエーステに報告せねばならないのだ。
やるべき事は山積みだ。
だから、賢者イオナは決めた。
どうしたところで、まだまだ平穏な毎日は訪れないのだ。
「三つ目よ。もうなんでもいいから、早く私を元に戻して」
「三つ目。次のステージに進むこと。本当によろしいですか」
「くどい! 早くなさい!」
その答えを聞き届けてか、世界が一瞬にして暗転する。
賢者イオナの意識は、深淵に飲み込まれた。
ほのかに暖かい日差し。
若い草と土の臭いが鼻腔をくすぐって。
賢者イオナだったそれは、うっそりと瞼を上げる。
――彼女にとっての、次のステージが幕を開ける。




