18.初恋と二度目の恋
この人は……今、何と言っただろうか。
私の聞き間違いでなければ、初恋は私だと言った。気がする。
「先日、ゴールドウイン伯爵家に行ったとき、初めて来たような気がしなかったんだ。
あの木の上からの景色も、どこかで見たような気がしていた」
気のせいではないの?
「木の上に登る令嬢なんて見たことない。社交界でも聞いたことがなかった。だが、それがきみなら当てはまる。だから、ゴールドウイン伯爵に聞いてみたんだ。そしたら、木に登るのは、アリアナくらいだ、と。それに幼少期のきみの髪はストレートで茶色だったとおっしゃっていた」
そんな……そんなこと、ある? 自分の髪色を忘れていたなんて……。
「すまない、アリアナ。私は見栄を張り、更に初恋の女性を引き合いに出し初夜で『愛する人がいる』と言ってしまった。こんなにも近くにいたのに……考えれば考えるほど髪色以外はきみの特徴そのままだったのに……」
気のせいか、ブルルの瞳が熱を帯びる。
にじり寄って来るけれど、その度に後ずさる。
急にそんなことを言われても、はいそうですか、じゃあお飾り妻辞めます、なんて言えるわけがない。
「初恋がなんだってんですか。最近の旦那様は……とある女性と親密にされていると知っています」
「……!! それは……」
ブルルの目がさも驚いたと言わんばかりに見開かれる。
こちとら密偵調査で全てまるっとお見通しだというのに焦る素振りも無い。
「もしかして、気にしてくれたのかい?」
チラチラと照れながらはにかむブルルに全身が総毛立つ。
「いえ、第二夫人候補ができたのは何よりです。私も探す手間が省けました」
「彼女は第二夫人候補ではないよ」
「ご丁寧にエスコートし、朗らかに笑い談笑していたそうではないですか」
「確かに……紳士の務めとしてのエスコートはしたかもしれないが……」
悪びれもしないブルルにムカムカイライラムギムギしてくる。
「初恋が私でも、ブルルは心変わりしてるじゃないですか! マゼンダ夫人からも親しげに呼ばれていましたし! 寝室も別にしたし、朝も早くから夜も遅くまで仕事で最近はまともに話してもいない。
ああ、仕事というのも嘘かもしれませんが」
「マゼンダ夫人……? 彼女は仕事の関係で話したことがあるだけだ。それに仕事が忙しいのは嘘じゃない。
朝早くから夜遅くになるからアリアナの睡眠を邪魔したらいけないと思って寝室を分けたんだ。……それ以外にも、理由はあるけど」
すい、と目を逸らされ、悲しみとも怒りとも言えない気持ちがぐるぐると渦巻いていく。
それ以外の理由なんて、愛人に操を立ててのことに違いない。
それはいい。ずっと言っていたことだ。
けれど、それは正妻を尊重してからの話だ。
決して蔑ろにされることなんて望んでいない。
理由を言ってくれたら私も悩まないで済んだ。
第二夫人候補ができたなら、ちゃんと言ってくれたら私は領地に行ったのに。
「心変わりはしていない。俺はずっと……」
「実家に帰ります」
咄嗟の言葉にブルルは顔を強張らせた。
「なんで……」
「ちょっと、自分の気持ちを整理してきます」
このままここにいたら自分の気持ちがぐちゃぐちゃになりそうだ。
領地に行ってもブルルが追い掛けて来ては意味が無い。
「アリアナ……。……分かった。ちゃんと戻って来ると約束してくれるなら……」
「気持ちの整理がついたら戻ります」
納得いかない風だったけれど、仕事に行かなくては、とブルルは行ってしまった。
パタン、と扉が閉まる音がやけに響いて、そちらを見れない。
「ごめんなさい。そういうわけだから……」
「いえ、いえ、奥様。悪いのは旦那様です」
「そ、そうですよ。奥様との時間を削って他に現を抜かすのは間違ってます」
「畑のことは気にせず、ご実家で羽を伸ばされてください」
「旦那様のことはご安心ください。きちんと処罰しておきますから」
成り行きを見守ってくれていた使用人の優しさに泣けてくる。と同時に自分の狭量さに情けなくなる。
「みんな、ありがとう」
そういうわけで私は結婚して初めて実家に帰省した。
「アリアナ! 本当に帰って来るなんて……」
「ゆっくりして行きなさいな」
「おねーさま、お久しぶりです!」
マージだけに付いてきて貰って実家に帰省した。
相変わらず貴族のはずなのに日焼けした父、その父に釣られるようにしてほっかむりを被って作業の手を止めた母、植物図鑑片手に見ている弟が私を出迎えてくれた。
「旦那様と喧嘩して帰って来ました。しばらく滞在します」
「あ、ああ。侯爵様からも緊急の先触れをいただいたよ」
なんと! ブルルは先回りしていたらしい。そんな気遣いいらないのに。
「全て自分の責任です、とおっしゃっていたわ。
何があったか知らないけれど、落ち着いたら帰りなさいね」
実家に帰省したのに外堀を埋められている気がするわ。
「おねーさま! 僕と一緒に植物図鑑を埋めましょう」
唯一弟だけは癒やしてくれる。
「まあいいわ。ここに帰って来たからには、分かっているわね?」
「……はい」
「よろしい。では早速着替えて来なさい」
両親の鋭い目線が私を射抜く。
弟は何かを察知したのかぶーっとなった。
着替えた私は伯爵家の庭に降り立ち、両親と一緒になって畑を耕した。
「働かざるもの食うべからず!
三度の食事は畑から!」
懐かしい空気。
今はこうして体を動かしている方が何も考えなくていいから気楽かもしれない。
結婚前はこうして両親の手伝いをしていた。
それが自分にできることだと思っていたから。
楽しくて毎日が充実していた。
それが結婚してブルルを知って、いつの間にかブルルと話すことが楽しくなって。
けれど「愛する人がいる」というのがささくれのように引っ掛かって惹かれても認めたくなかった。
今はもう分かっている。
沸騰した気持ちは溢れ出して蓋なんか吹き飛ばしてしまった。すると今まで感じたことのないような黒い感情も一気に溢れてきたのだ。
更に初恋が私で良かった、とちょっと思ったけれど、自分がしてきたことを振り返ると畑に埋めたくなるくらい恥ずかしくなった。
そこへ不貞疑惑だ。
ブルルはカッコいい。
結婚しても社交界で女性からの秋波は絶えない。
第二第三のスカーレット様が現れても不思議じゃない。
社交界にはきれいな女性も多い。
「私じゃない方が……いいよね……」
爪の隙間に土が入り込んだ女より、白魚のような手を持つ女性の方がいいに決まってる。
溢れてきた真っ黒な感情を持つ私より、きれいな女性の方が……
ぽた、と手に雫が落ちる。
ここにいる間に気持ちの整理をして、今度こそ第二夫人を迎える準備をするんだ。
いつかきっと熱が冷める日が来るから。
「人を好きになるって、楽しいだけじゃないのね……」
ぽたぽた落ちる雫を拭い、作業に集中した。