表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
約束(連載版)  作者: 小松郭公太
2/3

通学列車


「修一。もう六時過ぎたわよー。今日はお休みなのー」


母の声でやっと目を覚ます。六時に目覚まし時計を掛けておいたはずなのに、ちっとも気づかなかった。パジャマから学生服に着替え、階下に降りていくと、テーブルには母がよそったばかりのご飯とみそ汁が湯気を上げて待っている。そして、目玉焼きと塩鮭の焼き物、旬の野菜のお浸しが並んでいる。母の苦労も知らずに、修一はそれらを無造作に胃袋に流し込むと、ハンカチでくるまれた四角い弁当箱を学生鞄に詰め込んで家を出た。新学期が始まって一ヶ月が過ぎた。清々しい空気を切って自転車が進む。紺色の制服と黒い学生服が四方から駅に集まってくる。

 

 清沢駅七時三分発の列車は八両編成である。修一が乗る車両は前から三両目と決まっていた。


 高校に入学して間もない頃は、どの車両に乗ればいいか分からずに右往左往していた。列車通学初日、先頭車両に乗ってみたら、リーゼントに剃りを入れた人たちに睨まれた。仕方なく、次の日、最後尾の車両に行ってみるともっとひどかった。長髪、パーマ、茶髪……と何でもありのスタイルの人たちが入口付近に集まり、少しも臆することなく、正々堂々と煙草を吸っているではないか。これには修一も参ってしまった。見て見ぬふりをして隣の車両に移った。


 修一が最終的に落ち着いた前から三両目の車両では、教科書を広げたり、文庫本に目を落とす生徒が多かった。修一は、教科書を開くほど勉強が好きな訳ではなかったが、本は好きだったので、自然に文庫本を手にするようになっていた。その車両の雰囲気は落ち着いていて居心地が良かった。


 修一は、初めのうちは本を読むよりも車窓を流れる景色を見ていることの方が多かった。毎日外を見ていると新しい発見があったりして飽きることはなかった。しかし、ゆっくりと外を見ていられるのも二駅目までの僅かな時間だけだった。列車が益田駅のホームに滑り込むと、そこには圧倒的な数の乗客が列車の到着を待っていて、どっと雪崩れ込んできた人たちで空席はすぐに埋まり、後は順次中へ中へと押し込まれてくるのだ。そして、あっという間に満員列車と化した車両は、利用者に一息もつかせることなく動き出し、スピードを上げていくのだった。

 

 清沢駅から五駅。横森市の横森駅周辺には公立と私立併せて六校の高校があった。


 修一の通う横森南高校は男子校で、駅から歩いて十分ほどの所にあった。修一のクラスは比較的出来のいいクラスで、教科担任が時折発する詰まらないジョークにも程良い反応を見せる集団だった。四十人の個性は多様で、様々なスポーツに打ち込んだり、音楽や美術・書道などの芸術や、中には茶道や華道にはまっている者もいた。女子への見え透いた下心など無しに、自分の興味の赴くままに諸活動を選択できるのは、男子校ならではである。


 そんな中で修一が選んだのが吹奏楽部だった。そして、楽器は、男女共学校の吹奏楽部ではなかなか担当することの出来ないクラリネットに決まった。中学校のときはテナーサックスを吹いていたのだが、主旋律を演奏する機会が少なかったことと、クラッシックには向かない楽器であったことから、自らクラリネットを希望したのだった。


 修一の感性は、人と同じであることを静かに嫌った。フォークソング全盛の時代、修一がギターを手に取ったのは、中学一年のときだった。同じ学年でギターを持っている者など他に一人もいなかった。岡林信康や高石友也などに傾倒していたが、中学三年の学園祭で歌ったのは、サイモンとガーフアンクルの「コンドルは飛んでいく」だった。内面的にはアウトローなのだが、人前に立つとついお利口さんを気取ってしまう、そんなタイプだったのだ。クラリネツトを希望したのも、似たような感覚からだった。カウントベイシーやベニーグットマン等のジャズオーケストラは好きだったが、修一はその中にある大衆性を少し嫌った。では、本当にクラッシックが好きなのかというと、それほどでもなく、ただ単にクラッシックの持つ高尚さに憧れていたに過ぎなかった。


二年生になった修一はもうすっかり列車通学に慣れていた。あまりにも慣れすぎて、発車時刻ぎりぎりに駅に到着することもしばしばだった。


 修一はその日も全速力でホームへの階段を駆け下り、一番近くの車両に飛び乗った。つり革に掴まり一息入れ、いつもの三号車に移ろうとしたとき、一般の通勤客の間に一人座っている少女がふと目に止まった。紺色の上着、白いブラウスに臙脂のリボン。横森城北高校の制服である。一人で乗っていることが気になった。学生鞄を膝の上に置いてその上に本を広げている。その本に注がれた睫毛が一つ瞬きしたとき、修一は、はっとして一瞬凝視したが、すぐに目を通路に落とした。そして、もう一度、今度は盗み見るようにゆっくりと少女の方に向けてみた。少女の長い睫毛がまた一つ瞬きをした。そして、少女が本から目を離し車窓に目をやったとき、その小さな鼻がちょっぴり上を向いているのが分かった。修一は揺れる車内をゆっくりと歩き、いつもの三号車へと向かった。少女の前を通るとき、視界に入る制服を意識した。彼女はやはり本に目を落としていた。


 三号車の前方が修一のいつもの席である。賢治と洋介が座って文庫本か何かを読んでいるのが見えた。


「おはよう。今日もぎりぎりセーフだったよ」


と、修一は二人の前に立った。


「また夜更かししたんだろう」


と賢治がボソリと言い、それに続けて、


「イレブンPM観たな」


と、洋介がにやけた。修一は、


「観てないよ」


とクールに応えて、二人の間に割り込むように座ると、徐に学生鞄から読みかけの文庫本を取り出した。「赤頭巾ちゃん気を付けて」。修一は密かに庄司薫の作品を読んでいた。


 賢治は同じクラスで写真部に所属している。洋介はバスケット部で、クラスは違うが中学が一緒だった。最初の内は他にも数名が一緒に乗っていたのだが、それぞれが自分にとって居心地のよい車両を見つけて移動していき、修一たち三人が最終的にこの車両に居着いたのである。と言っても、三人が一緒に居るのは、この朝の時間だけで、クラスや部活に行けば、また違った付き合いがあった。だから、帰りの列車はそれぞれ別々で、修一は大抵部活の連中と乗っていた。しかも、吹奏楽部の場合は、先輩たちも一緒だった。


 バスクラリネットの根本さん。彼の髪の毛は天然パーマで、髪が伸びると、黙っていてもカーリーヘアのようになっていた。フルートの富樫さんは背が小さかったが運動が得意で、たまに行われるレクリエーションのソフトボールでは、いつもピッチャーをやっていた。そして修一と同じ楽器の和之さん。耳コピが得意で、山口百恵も桜田淳子も全て吹奏楽曲にアレンジして、部員に楽譜を供給していた。


 修一には先輩たちに止めてもらいたいことが一つあった。それは、列車の時刻まで時間があるときに、連れだって駅前にある「ひらけん」という喫茶店に寄ることだった。「ひらけん」というのはマスターの氏名「平山健」を略したものだと聞いたことがある。「ひらけん」は安いお金で時間をつぶすことができるのが最大の魅力なのだが、もう一つ、マスターが若い男の子を相手に面白い話をいろいろ聞かせてくれるという裏メニューがあって、男子高校生を中心に人気の店となっていた。


 実はマスターはオカマだった。話し方は少し変だったが、誰にでもやさしく親切で、そこのところは悪い気がしなかった。ただ、修一が嫌だったのが先輩たちがマスターに写真を見せてくれるようにせがむところだった。写真とは要するに女性のヌード写真である。修一は見たくない訳ではなかったが、集団で数枚の写真に群がる構図に抵抗があったのだ。


「小林。行くぞ」


と、根本さんに声を掛けられる度に断れずに、いやいや後をついて行く。そして、列車の時刻が近づくと、三人ともにんまりとして店を後にする。陽気な根本さんならともかく、普段は聖人君子のようにしている和之さんまでが顔を上気させて、


「小林。これが青春なんだなあ」


なんて肩を叩いてくる。そして、列車から降りる別れ際にも、


「小林。また行こうな」


と、政治家のように手を上げるのだ。なんて幸せな人たちなんだろう。自分の気持ちを偽ることなく行動を起こし、素直な感情を表現することができる。修一は今の自分にない部分を先輩たちの無邪気で無頓着な笑顔の中に見た。


 益田駅で先輩たちが降りると、修一は一人になった。そして、乗り込んで来た女子校生のグループが修一の前に立った。彼女たちは、ホームから持ち込んできた脈絡のない話の続きに夢中になっている。修一は、鞄から文庫本を取り出した。「赤頭巾ちゃん気を付けて」。しかし、少しも文字を追うことができない。「ひらけん」で見たヌード写真が脳裏に浮かんでくるのだ。修一は、寒暖計の赤液が上がっていくように一人で赤面していくのだった。



清沢駅の二番線に列車が入ってきた。その日、修一はホームへの階段を下りてすぐの所に立っていた。そこが、七時三分発仙台行き普通列車五号車の乗車口となるのだ。


 修一には、この車両に乗って確かめたいことがあった。この間、偶然見かけた女子校生のことである。修一はあれ以来ずっと気になっていたのだ。まだ小学生のときのこと。ちょうど桜の季節だった。中田病院の玄関ですれ違った赤い着物の少女。長い睫毛の瞬き。少し上を向いた小さな鼻。あの時、母屋から聞こえてきた琴の調べと共に遠い日の心象が蘇ってくる。しかし、少女が、今ここに居るはずはなかった。少女はもうすぐ小学校を卒業するというときになって、「急性骨髄性白血病」を発病し、仙台の大学病院で息を引き取ったのだ。少女の名前は直美と言った。女子校生は、その直美に似ていた。


 修一は五号車に入ると、すぐに車両の中程に座っている彼女を見つけることができた。そして、車両の一番隅、彼女と反対側の席について、注意深く、しかし決して覚られないように観察を始めた。彼女は今日も一人である。やはり、この間と同じように本を読んでいる。列車が動き出した。修一は文庫本を取り出し、彼女の方を気にしながら文字を追った。彼女は時折本から目を離して車窓の景色に目をやる。ショートヘアーの前髪がさらりと流れた。修一のことなどまったく気にする様子はない。


 列車が益田駅に着き、黒い学生服と紺色の制服が乗り込んできた。それぞれがそれぞれの意志を持ち、目的地を目指す。そんな厳しさが感じられる。そうだ。茶髪もパーマもリーゼントも含めて、それぞれに与えられた時間を自分のために有効に使っているのだ、高校生たちは。


 紺色の制服が彼女の前に立った。同じ城北高校の女生徒である。彼女は笑みを浮かべてその女生徒を自分の隣に迎えた。「友達がいたんだ」。修一は少し安心した。二つ並んだ臙脂のリボンが嬉しそうに会話をしている。その横顔を、修一は乗客の隙間からちらりちらりと見ていた。


 やがて列車は横森駅に着いた。足早にホームを進む二つの制服を追うように修一は歩いた。すると、不意に後ろから肩を叩く者がいた。


「修、どうした。休みかと思ったよ」


賢治と洋介だった。


「ああ、ちょっと」


「何がちょっとだ。変だぞ、お前」


と、二人とも怪訝そうな顔をしていたが、それ以上は聞こうとはしなかった。修一は、結局いつもの三人組となって学校までの道を歩いた。途中何度か見失ってしまったショートヘアーを探してみたが、見つけることはできなかった。


次の日も、修一は五号車に乗った。賢治と洋介のことが少し気になったが、三号車には後で行けばいいと思った。彼女は、昨日と同じ席に一人で座って本を読んでいた。修一は彼女の俯いた横顔を観察しながら通路を三号車に向かった。彼女の前を通るとき、彼女が顔を上げたのが分かった。修一は自分の行動を覚られまいと平静を装った。修一は、ほぼ毎日同じ行動を繰り返した。そして、横森駅のホームに降りると、やはりほぼ毎日、益田駅から乗った女生徒と一緒に歩く彼女の姿を探しながら賢治と洋介と肩を並べて歩いた。 そうしているうちに、修一はどうしても彼女の名前が知りたくなった。同じ中学から城北に通っている友達に訊いてみる手もあったが、それほど親しい訳ではない。城北生に顔が効く同級生に頼む手もあるが、そのような輩に頼んだら後でどんな風評が飛び交うかも知れない。


 結局、修一は自分の力で彼女の名前を探るしかないと考えた。五号車から三号車に移るときに彼女等の会話に耳を峙てるしかない。修一は彼女等以外の城北生の発言にも注意を払った。その結果、二人のどちらかが「ユキコ」でどちらかが「サトコ」という名であることが分かった。


ある日のことである。その日は吹奏楽部の練習がいつもより早く終わったので、一本早い列車に乗ることになった。また、いつものメンバーで横森駅に向かった。修一は、先輩たちがまた「ひらけん」に寄るのではないかと気が気でなかった。しかし、その日は先輩たちも早く帰りたかったらしく、全くその話題がでることはなかった。


 横森駅のホームには、高校生を中心とした乗客が列車の到着を待っていた。そして、その中に彼女がいたのである。いつもの女生徒も一緒である。修一は和之と一緒にホームを進んで行った。すると突然、和之が声を掛けた。


「よおっ、今かい」


修一は、和之の予想外の行動にびっくりしたが、声を掛けた相手は、どうも彼女ではなく、いつもの女生徒の方らしい。女生徒は、すれ違いざまに和之と一緒に居る修一に軽く会釈をした。


「あれ、和之さん、知り合いですか」


修一は徐に訊いてみた。


「ん。あれか、妹だよ。俺の妹」


「へえ、和之さんに妹がいたとは、初耳でした」


と、修一は少しふざけるように反応して見せた。


「ああ、城北の一年だよ。由紀子っていうんだ」


と言って和之は少しはにかんだ。修一は仲の良い兄妹なのだな、と思った。と同時にこれまで気に掛けてきた城北生は「サトコ」という名であることが明確になった。


 次の日、修一は五号車に乗るかどうか迷った。昨日、横森駅のホームでほんの一瞬ではあったが、和之の妹の由紀子と面識を持つことができた。それだけで修一はずっと気にしてきたサトコとの距離が縮まったような気がしていたのだが、一方で、五号車に乗ったとき、彼女らにどう対応すればいいのか分からなかったのだ。特に由紀子に対しては挨拶の一つもするのが自然だろうと修一なりに考えていた。


 結局、修一はそんな迷いを振り切って五号車に乗り込んだ。サトコは、いつもの座席に座って本を読んでいた。時折目を車窓に移す以外、その目は終始本に注がれていて、修一が乗り込んできたことなど眼中にない様子だ。修一はいつもの座席に座って列車の進行に身を任せた。


 やがて列車は益田駅に到着し、多くの高校生たちを飲み込んだ。すると、サトコの表情が変わった。由紀子が乗り込んできたからだ。本を読むのを止めて、暫く二人の談笑が続いた。何を話しているのか、楽しそうに話す二人の姿を伺っている修一の頬も緩む。


 その時、不意に由紀子の視線が修一の方に向けられた。修一は驚いた。由紀子は修一に軽く会釈をした。修一は思わず同じように会釈を返した。かなり動揺していた。思わず視線を宙にやることしか出来なかった。修一は徐に文庫本を取り出したが文字など目に入りはしない。


 次の駅に列車が止まったとき、乗客の隙間から彼女等を見た。二人とも本に目を落としている。いつもだったら、とっくに三号車に移動しているはずの修一だったが、その日は結局、横森駅に着くまで五号車を離れることが出来なかった。


そして、サトコと知り合う機会が期せずして訪れた。部活を終えて、いつものように和之と共に列車に乗ると、その車両に偶然、由紀子とサトコが乗っていたのである。列車は混み合っていて座席はほとんど埋まっていて、空いているのは由紀子とサトコが座っている四人がけのボックス席だけである。いくら仲良しの兄妹とはいえ、同席するのは跋が悪いだろうと思っていたが、和之は違った。いつもの仲間がいなかったせいもあったのかもしれないが、和之はお構いなしに由紀子とサトコが座っている席に腰を下ろした。窓側の席に由紀子とサトコが座っている。和之が由紀子の隣に座ったので、修一は自然とサトコの隣に座ることになった。


「お兄ちゃん、食べる」


と、由紀子が飴玉を差し出した。透き通るようなレモン色がきらきらと輝いて見えた。ところが、せっかく由紀子が差し出した飴玉が和之の掌に渡されようとするときにその掌からこぼれてしまったのである。その飴玉に修一とサトコが反応した。二人して飴玉をキャッチしようとしたのだが、無情にもそれは、床に落ちて反対側のボックスに転がって行ってしまった。


「お兄ちゃん」


「悪い悪い」


仲の良い兄妹は顔を見合わせて笑った。そして、由紀子は改めて和之に飴玉を渡すと、修一へ、そしてサトコに飴玉を渡した。四人は、飴玉で片方の頬を膨らませ、口いっぱいに広がる甘酸っぱさを感じていた。そこで、由紀子が口火を切った。


「小林さん、清沢ですよね」


「そうだよ」


「里子ちゃんも清沢なんですよ」


修一はどぎまぎした。いきなり話題を自分の方に振られて戸惑った。


「へえ、じゃあ、清沢南中かな」


同じ清沢で、清沢駅より前の駅から乗っているのだから、それくらいの察しはついた。里子は、


「はい」


と小さな返事をした。しかし、修一は、それ以上の話をすることができなかった。自分は清沢北中であること、清沢駅から乗車していて、里子のことは見かけていたとか、里子の居住地はどこか、とか、いくらでも話すことはあったはずなのに。悪戯に時は過ぎ、レモンの飴玉が口の中でとろけて小さくなっていくばかりだった。


 それからも、修一は毎日五号車に乗車した。修一が乗車すると里子は離れた席に座った修一に毎朝会釈をした。修一はそれだけで満足だった。そして、列車が益田駅に到着し、由紀子が乗り込んでくると、修一は席を立ち、五号車に移動していく。途中で里子と由紀子の所で足を止めて、二言三言話すのだが、その相手は殆どが由紀子だった。


「昨日の部活、遅くまでやったのね」


とか、


「家のお兄ちゃん、寝坊して次の列車に乗るみたい」


とか、話題はもっぱら和之のことだ。一方の里子との会話はほとんどない。本当は誰よりも話したい相手は里子なのに、何を話したらいいのか分からない。本が好きみたいだから、今読んでいる本は何なのか訊いてみてもよかったのだが。


 その頃、修一は、片時も里子のことを思わぬ時はなかった。授業中、ふと気が付くと里子のことを考えていた。一人でいるときはなおさらだった。横森駅に向かう道すがら街路樹の向こう側を歩く人の波に里子の姿を探した。駅のホームでも、列車の中でも。家に帰ってからは、小椋桂のレコードを聴きながら一人物思いに耽った。



 季節は初夏となっていた。クリーム色の駅舎は木造で、大きな屋根が緩やかに左右に広がり、その周辺に、夏服を着た高校生の姿がぽつりぽつりと見えた。その日は日曜日だった。修一は部活を終えて一人横森駅に向かっていた。駅舎の入口の横に電話ボックスが二台あって、その脇に紫陽花の花が咲き、六月の雨が紫色の花をしっとりと濡らしている。修一は、そんな花の存在に気付くこともなく、駅舎に入って行った。いつもの仲間たちがいない開放感があった。そこには、何も飾るものがない素の自分がいた。力を抜いて足を投げ出すようにして歩いてみると、どこか心地よい。ホームには既に横森駅発の列車が入っていた。発車までには、まだ十五分ほどある。


 修一は、扉を大きく開いた風通しの良いデッキに立った。その時、目の前に急に白い光が広がり、修一はその場に倒れた。


「どうしましたか。大丈夫ですか」


修一は、太い声の駅員に抱き起こされ、我に帰った。立ち上がろうとするが力が出ない。朦朧とする中、そこに、駅員の肩越しから心配そうに修一をのぞき込む里子の姿があった。軽い貧血だった。修一はこれまでにも何度か貧血で倒れたことがあった。小学生のとき、朝礼で、倒れる寸前に担任の先生に抱きかかえられて保健室に連れて行かれたり、中学生のときは、クラス対抗ソフトボール大会でキャッチャーの守備に就いているときに貧血を起こし、やむなく選手交代という失態を演じたこともあった。


ボックス席に着いた修一の向かいに里子が座った。


「大丈夫ですか」


と心配してくれる里子に対して、修一が、


「大丈夫。ちょっと貧血を起こしただけだから」


と答えると、里子は、


「顔色、悪いですよ」


と真面目な顔で修一の顔を覗き込んできた。


「大丈夫だよ」


修一は、少し語気を強めたが、内心、里子の眼差しが嬉しかった。


「家のお婆ちゃんも貧血で薬飲んでるんですよ」


と、里子はどこまでも真面目である。真面目と言うよりも、少し「天然」と言った方がいいのかもしれない。顔は直美に似ているが、中身は全然違っている。修一は改めて思った。直美は死んだんだ。今自分の目の前にいる人は全くの別人なんだ。と思うと、これまでの緊張が嘘のように緩んで、里子と気軽に話せるような気がしてきた。


「今日はありがとう」


修一が礼を言うと、里子は、


「ええ」


と小さく頷いた。少なくとも修一には、里子が好意的に頷いたように思えた。


「また明日」


「また明日」


西の山に傾きかけた陽光が車内に差し込み、里子の横顔を美しく照らしていた。修一は、明朝の列車で、また会えると思うだけで、幸せな気持ちになれた。


 二人の交際は順調に進んだ。交際と言っても、朝の通学列車の中で「おはよう」と挨拶する程度のものだった。たまに互いが読んでいる本を覗いて、「何の本」とか「面白い」などと訊ねたり、互いに本を貸し合ったりする。そんな付き合いが続いた。帰りの列車が同じときでも、それぞれの同乗者がいるので、二人切りになるなどということは滅多になかった。でも、二人はそれで十分だった。それ以上のことは望まなかった。


 ところが、二人が交際するようになって一月ほど立った頃、里子が不思議なことを言うようになった。


「昨日夢を見たの。とっても綺麗な夢だった。枝垂れ桜が咲いていたの。黒い板塀に囲まれた格式の高そうなお屋敷だった。琴の音が聞こえてきたわ。綺麗な和服を着たお嬢様が弾いているんでしょうね。私、うっとりとしてしまって……。そして、桜の花びらが舞い散るの。それがとても綺麗で。でもね、最後が少し悲しいの。琴の糸が切れてしまうの。私、そこで目が覚めてしまったんだけど……」


「また夢を見たの。外は雪が降っていたわ。私は、病院の待合室にいたの。看護婦さんに呼ばれて診察室に入っていくと、そこは何もかも真っ白なの。ベットもカーテンも、先生の椅子も。先生の丸い大きな顔の口髭が可笑しくて、私、笑いを堪えるのが大変だったのよ」


里子は、列車の中で、一生懸命にそのことを修一に伝えようとした。修一は、


「ふーん」


と、さりげなく答えたが、内心は尋常ではなかった。それは間違いなく中田病院の風景だった。中田病院になど一度も行ったことがない里子がどうしてそんな夢を見るのか不思議だった。


 更に、不思議なことがあった。いつものように朝の列車に乗り込むと、里子は、いつもの場所に座り、いつものように鞄を膝の上に置いてその上に本を広げていた。しかし、たった一つだけいつもと違うものがあった。それは、朱赤の布でできた手提げ袋だった。


「あっ、これ。お母さんが作ってくれたの。私が小さい頃着ていた着物をリサイクルしたんだって。この手鞠の刺繍、気に入ってるんだ」


里子は、何の屈託もなく話して聞かせるのだが、修一は、その手提げ袋の色や、布に施された刺繍の絵柄から、ほどなく、そこに中学一年の時に亡くなった直美の存在を感じた。「直美だ。直美がいるんだ。直美が僕に何かメッセージを発しているんだ」。


 その夜、修一は、里子のことが心配になった。


「もしもし、小林と申しますが、里子さん、いらっしゃいますか。……あっ、里子さん、大丈夫。変わったことはない。……あっ、そう、ならいいんだけど。……ううん、何でもない。じゃあ、また明日」


でも、よく考えてみると、直美がいるとしても、里子に何か危害を加える訳がない。直美はそんな子ではない。修一はそう思った。


ところが、次の朝、いつもの五号車に里子の姿はなかった。「どうしたんだろう」。修一は、先頭車両から、最後の車両まで里子を捜して歩いた。三号車には、賢治と洋介が乗っていて、


「おっ、どうした、修」


と、血相を変えて通路を歩く修一に声を掛けきたが、修一には聞こえない。途中で列車は益田駅に着き、白い制服たちが、どっと雪崩れ込んできた。修一は、五号車に戻り、席に着いたばかりの由紀子の前に立った。


「由紀ちゃん。今日は里子さん休みなのかなあ」


「里子……」


由紀子は、きょとんとした顔で修一を見上げた。


「小林さん、知らないんですか。里子ちゃんが転校したこと」


「転校だって」


思いも寄らない言葉に、修一は驚いた。


「里子ちゃん、お父さんの仕事の関係で、昨日限りで転校したんですよ」


「で、行き先はどこ」


「仙台って言っていましたよ」


「仙台」


修一は、直美が仙台の大学病院で亡くなったことを思い出した。直美が短い一生を終えた地、仙台に里子は転校して行ったのだ。修一にとって、それは突然のことだった。二人が、少しずつ打ち解けて、お互いに気兼ねなく話せるようになってきたところだというのに、急に里子が不思議な夢を見るようになったり、朱赤の手提げ袋を持つようになったり、そして、挙げ句の果てに仙台に転校してしまうとは。修一からすると、それは直美からのメッセージ以外の何ものでもなかった。


「小林さん。どうしたんですか」


由紀子は、じっと考え込む修一を怪訝そうに見た。


 由紀子の話によると、里子の転校は、それほど急なことではなく、以前から予定されていたことだったらしい。県職員の父親に転勤は付きもので、その度に里子は転校を繰り返してきたのだ。だから、そこに直美の力が働いたなどということはある訳がない。それならば、あの夢は、あの手提げ袋は何だったのだろう。「偶然」と捉えるしかないのだろうか。そして、なにより一番不思議なのは、前日まで列車や電話で話していた里子が、転校することを修一に一言も告げずに行ってしまったことである。


 何故なんだ。その解答は里子に訊いてみない限り知り得ることはできない。修一は苦しんだ。「里子は、本当は、僕のことが嫌いだったんだ」「もうすぐ転校することが分かっていたから、当たり障りなく付き合っていたんだ」「でも、だからといって、自分に一言も告げずに行ってしまうなんて考えられない」。などと取り留めもなく考えを巡らした。そして、最後には、「やはり、そこには直美の力が介在していたのでないか」という所に行き着いてしまうのだった。修一にとって、そう考えるのが一番合理的だったのだ。


 春からの数ヶ月、修一は長い夢を見ていたのだ。初めて話しをしたあの時、一緒に舐めたレモンの飴玉。透き通るような綺麗なレモン色だった。口いっぱいに広がったあの甘酸っぱささえ、夢の中の出来事にすぎなかったのだ。長い夢から覚めた修一は、暑い夏を乗り切れるのかどうか心配になるほどやつれ果てていた。かろうじて授業だけは受けていたが、体調不良を理由に部活には顔を出さなくなっていた。そして、一人列車に乗り早々に家に戻る日が続いていた。


 そんなある日、修一は、ふらりと「ひらけん」のマスターの所へ顔を出した。


「あら、修ちゃんじゃない。珍しいわね」


修一は真っ直ぐにカウンターに座った。


「マスター、アイスコーヒーください」


「えっ、修ちゃんコーヒー大丈夫なの」


「大丈夫です」


修一は、アイスコーヒーをブラックで飲んでみた。あれ以来、修一は甘い物を拒んでいた。夢のように過ぎ去った日々から、少しでも遠ざかりたい。そんな気持ちからだった。コーヒーをストローで啜りながら、修一は、何も告げずに転校して行った里子のことをマスターに話してみた。


「ううん、それは微妙な問題だわね」


マスターは煙草に火を付けてから続けた。


「その子ね。修ちゃんに話さなければって、ずっと思っていたと思うよ。でもね、修ちゃんとの楽しい日々の中で、どうしても言い出すことができなかったんじゃないかな。アタシにはそう思えるんだけど」


修一は、釈然としなかった。

「そういうものでしょうか」


「女は、そういうものなのよ。君のことが好きだからこそ言い出せなかったのよ」


マスターの言葉は、煙草の煙と一緒になってカウンターの上を漂った。「女は、そういうものなのよ」。都合の良い言葉だ。修一は、その言葉を受け入れることなく、納まり切らない思いを胸に「ひらけん」を出た。


真夏の通学列車は窓を全開にして青空の下を進む。鉄橋を渡る音。踏切を過ぎる音。民家の軒先を通る音。列車の中の白い制服は、一様に眩しそうに目を細めている。風が修一の額に当たり、少し伸びた前髪を乱暴に後ろにかき上げた。修一は一人五号車のボックス席に座り、流れていく景色の先を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ